連載コラム『光の国からシンは来る?』第14回
2016年に公開され大ヒットを記録した『シン・ゴジラ』(2016)を手がけた庵野秀明・樋口真嗣が再びタッグを組み制作した新たな「シン」映画。
それが、1966年に放送され2021年現在まで人々に愛され続けてきた特撮テレビドラマ『空想特撮シリーズ ウルトラマン』(以下『ウルトラマン』)を基に描いた「空想特撮映画」こと『シン・ウルトラマン』です。
本記事では、『シン・ウルトラマン』のラストシーンについてピックアップ。
「原作」にあたる『ウルトラマン』の最終回と比較しつつも、ゾフィーとゾーフィの「命の処遇」をめぐる判断の違い、リピアが自身の体を託す相手を「神永新二」ではなく「この星の未来の人間」と表現した理由を解説・考察していきます。
CONTENTS
映画『シン・ウルトラマン』の作品情報
【日本公開】
2022年(日本映画)
【監督】
樋口真嗣
【脚本・総監修】
庵野秀明
【製作】
塚越隆行、市川南
【音楽】
鷺巣詩郎
【キャスト】
斎藤工、長澤まさみ、有岡大貴、早見あかり、田中哲司、西島秀俊、山本耕史、岩松了、長塚圭史、嶋田久作、益岡徹、山崎一、和田聰宏
映画『シン・ウルトラマン』ラストシーンを解説・考察!
「二つの命」が登場しなかった理由は?
映画終盤、禍特対のメンバーと協力し実現した作戦により、ゾーフィが地球および人類の廃棄処分のため起動した天体制圧用最終兵器・ゼットンの打倒に成功した「ウルトラマン」ことリピア。しかし、作戦時にベーターカプセルの「二度押し」により発生させたブラックホールへゼットンと同じく飲み込まれ、並行宇宙へと飛ばされてしまいます。
並行宇宙を漂う中、曰く「生き延びたいと願う君(リピア)の信号」によってたどり着いたゾーフィと再会するリピア。そこでは、テレビドラマ『ウルトラマン』の最終回「さらばウルトラマン」の描かれたウルトラマンとゾフィーの問答の場面と同じく、リピアとゾーフィによる問答が展開されていきます。
この『ウルトラマン』『シン・ウルトラマン』でそれぞれ描かれる問答の場面で、最も異なる点はやはり「“二人”の命の処遇」でしょう。
第1話「ウルトラ作戦第一号」での事故により魂を共有することになったハヤタ・シンを「立派な人間」と評し「地球人の命は非常に短い」「それに、ハヤタはまだ若い」がゆえに「ハヤタを犠牲にはできない」と考え、ハヤタに対し自身の命を与えようとするウルトラマン。その言葉に心を動かされたゾフィーは「二つの命」をそれぞれに与え、分離後もハヤタとウルトラマンはいずれも生き続ける形で『ウルトラマン』の物語は締めくくられていきます。
一方で『シン・ウルトラマン』のリピアは、共存状態にある神永新二の命の維持、「人間をもっと知りたい」というリピア自身の願い、地球と人類にこれから訪れる危機への憂い、光の星の掟を破ったことへの償いといった理由から「私の命は彼(神永)に渡して、この体はこの星の未来の人間に任せたい」と発言。それに対しゾーフィは「二つの命」に言及することなく、「君の願いを叶えよう」という言葉を口にしたのち神永とリピアの分離を行うのでした。
実は『ウルトラマン』最終回の準備稿内では『シン・ウルトラマン』同様、脚本内に「二つの命」という言葉は登場せず、ウルトラマンの「自身の命をハヤタに与える」という希望にゾフィーは「では、そうしよう」と容認だけしています。
最終的にドラマ本編では「二つの命」が登場しハヤタ・ウルトラマンそれぞれが生き続ける結末へと変えられたその理由には、『ウルトラマン』最終回の脚本を担当した金城哲夫の「子供たちの夢は壊したくないのだが、結局ウルトラマンは地上では、物凄い怪獣にやっつけられて死ななければならない。」というコメントが当時の東京新聞の記事内(1967年2月22日付。最終回放送日の同年4月9日の約1ヶ月半前)に掲載され、その結果円谷プロとTBS宛てに「ウルトラマンを殺さないでほしい」という声が多く届いたがために、急遽「ウルトラマンが死なない展開」へ変えるべく「二つの命」という展開が追加されたのではと考えられています。
成田亨によるウルトラマンの「本来」の造形デザインから「ゾーフィ」の誤植ネタに至るまで、様々な要素・視点から「原作」への愛がふんだんに盛り込まれている『シン・ウルトラマン。「二つの命」を登場させない本作の結末もまた、『ウルトラマン』という作品への愛はもちろん、『ウルトラマン』の物語の「本来」の姿を改めて探ろうとした結果といえるでしょう。
神永に「一体化した後の記憶」はある?
リピアの願いを叶えるため、神永とリピアの体の分離を行なったゾーフィ。神永が再び目を覚ました時、彼を迎えてくれたのは生還を祝う禍特対の面々、ゼットンの消えた青空、そして「バディ」である分析官・浅見弘子からの「おかえりなさい」という言葉でした。
映画終盤におけるゼットン打倒作戦の大まかな仕組みをふまえた上で、多くの人々が脚本・総監修を手がけた庵野秀明の初監督作『トップをねらえ!』(1988〜1989)を連想したであろう、「おかえりなさい」という言葉で締めくくられる『シン・ウルトラマン』のラストシーン。
原作にあたる『ウルトラマン』では「ハヤタからは第1話での事故以降(ウルトラマンと一体となって以降)の記憶が失われていた」と作中のセリフで言及されていたのに対し、本作のラストシーンでは「神永はリピアと一体化してからの記憶を持ち続けているのか」は明確に描かれていません。
「記憶を持ち続けている」「ハヤタ同様に失っている」「目を覚ましたのは“神永”であり“リピア”なのでは」などさまざまに想像を膨らせてくれる中で、重要なのはやはり「私の命は彼(神永)に渡して、この体はこの星の未来の人間に任せたい」というリピアの発言でしょう。「“リピア”という個を失っても、神永を通じて人間とともに在りたい」という願いが表れていると受け取れる発言からは、少なくとも“リピア”という個は失われた可能性が高いと推察できます。
「礎」となり「人間」となるリピア
また気になるのは、リピアが「この体」=「光の星の民である自身の体」を任せる相手が、あくまでも「彼=神永」ではなく「この星の未来の人間」である点です。
もし「この体を任せる=ウルトラマンへの変身者になってもらう」と捉えた場合、リピアはたとえ最初の変身者である神永が、人間ゆえの短い寿命によりこの世を去ったとしても、この星の未来の人間たちが“ウルトラマンになる者”として地球を守る担い手という役目を受け継いでいけるようにするために、自身の肉体をあくまでも「この星の未来の人間」に任せようとしたとも解釈できます。
しかしながら、ただ「光の星の民としての体」を託すだけならば、映画中盤ベーターシステムの供与により人類という資源の独占と精神的支配を目指したメフィラスの行動とほぼ変わりません。リピアの体が間もなく兵器へと転用されるのはもちろん、彼が危機感を抱く「まだ幼い」人間に必要な成長が以降に生じることは決してないでしょう。
ではなぜ、それでもリピアは自身の体を「この星の未来の人間」に任せるのか。それは作中に登場する、リピアが非粒子物理学者・滝明久をはじめ禍特対のメンバーに託した、ベーターシステムの基礎原理が記されたUSBメモリーが答えそのものといえます。
ベーターシステムの基礎原理というヒントをもとに、滝や世界各国の科学者たちが協力したことで導き出されたゼットン打倒作戦。リピアは自身が作戦を作り出すのではなく、あくまでも「ベーターシステムを知る、そしてウルトラマンに変身できる禍特対メンバー」として自身も作戦に参加した。その時点で、リピアはチームという「群」で困難を超える=成長を試みる人間の在り方を誰よりも信じていたことが立証されたのです。
そして自身の体もまた、リピアにとっては人間に成長のきっかけをもたらすための礎……短命であるからこそ、無数の個が残した無数の礎が積み重なり築くことのできた「人間」になり得ると信じ、神永新二という個ではなく「この星の未来の人間」という群に任せようとしたと考えられます。
まとめ/「分からないもの」としての未来の人間
「ウルトラマンは万能の神ではない。君たちと同じ、命を持つ生命体だ。僕は君たち人類のすべてに期待する」……映画作中でリピアが口にするそのセリフは、「私は人間となり、人間をもっと知りたいと願う」と発言するまでに「群」としての人間の可能性を信じ続けた、『シン・ウルトラマン』における「ウルトラマン」像を象徴する言葉といえるでしょう。
「自らの命を失ってでも他の命を生かす」という一見不合理に見える選択をとった神永に興味を抱いた、「宇宙の秩序」という合理性を厳格な掟に基づいて遵守する光の星の民リピア。
そして、その不合理の先に見えてきた「分からない」という不確定性に基づくもの……現在という時間では確認できない、けれども確かに存在する、短命である人間の無数の命によって受け継がれ成長していく未来への意志を、リピアは「言語化できない=分からない」として感じとっていた。
だからこそ、「この星の未来の人間」へのヒントを託そうとしたのではないでしょうか。