僕はただ、女子高生に殺されたいだけなんだ。
田中圭が主演を務めた映画『女子高生に殺されたい』。
「女子高生に殺されたい」という欲望に取り憑かれた高校教師が、「自己暗殺」のために前代未聞の完全犯罪に挑んだ末路を描いたサスペンス作品です。
『ライチ☆光クラブ』『帝一の國』などで知られる漫画家・古屋兎丸による同名コミックを、『性の劇薬』『アルプススタンドのはしの方』の城定秀夫監督が大胆に脚色し映画化した本作。
本記事では、映画『女子高生に殺されたい』をあらすじネタバレありで紹介いたします。
CONTENTS
映画『女子高生に殺されたい』の作品情報
【公開】
2022年(日本映画)
【原作】
古屋兎丸『女子高生に殺されたい』(新潮社バンチコミックス)
【監督・脚本】
城定秀夫
【キャスト】
田中圭、南沙良、河合優実、莉子、茅島みずき、細田佳央太、大島優子
【作品概要】
『ライチ☆光クラブ』『帝一の國』などで知られる漫画家・古屋兎丸による同名コミックを、『性の劇薬』『アルプススタンドのはしの方』の城定秀夫監督が映画化。城定監督自らが原作を大胆にアレンジした上で脚本を書き上げ、「女子高生に殺されたい」という欲望を抱える高校教師が企てた「自分殺害計画」の顛末を描く。
主人公・東山春人を演じるのは『スマホを落としただけなのに』『劇場版 おっさんずラブ』『哀愁しんでれら』『あなたの番です 劇場版』の田中圭。
春人が計画に組み込んだ生徒たちを『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』南沙良、『ちょっと思い出しただけ』河合優実、『牛首村』莉子『青くて痛くて脆い』茅島みずきを演じるほか、春人の過去を知る元恋人・五月役で『生きちゃった』の大島優子が共演。
映画『女子高生に殺されたい』のあらすじとネタバレ
春。新年度を迎えた進学校・二鷹高校に、日本史担当の教師として東山春人(田中圭)が赴任してきました。
生徒と関係を持ったことが発覚したために高校を去った前任者の後釜ではあったものの、その優れた容姿と誠実さと気さくさを併せ持った性格から、たちまち春人は生徒に人気の教師となります。
やがて春人は自身が顧問となって「遺跡研究部」を新設。彼に憧れる女生徒の一人・真帆(南沙良)は、幼なじみで親友のあおい(河合優実)を誘って入部します。
「生き物の“声”や“匂いではない匂い”を感知できる能力」「地震や生き物の死を予知できる能力」を幼少のころから持っていたあおいは、真帆とともに入部はしたものの、顧問である春人のことをなぜか恐れていました。
実は春人が二鷹高校へ赴任してきたのは、偶然ではありませんでした。彼は前任者のスキャンダルを調査して自ら匿名で告発し、「キャサリン」と再会し「ある目的」を実現するために席の空いた二鷹高校へ転任してきたのです。
その目的とは、「女子高生に殺されたい」という欲望の実現でした。
「出産の際、自分はへその緒が首に絡まって生死の境をさまよったと聞かされた」「幼い頃の自分は、母親に愛されていると感じられなかった」……そう語る春人は、高校二年生の頃から可愛い女の子を見るたびに「殺されたい」という感情を抱くようになりました。
のちに春人は自身の欲望が「オートアサシノフィリア(自己暗殺性愛:自分が殺されることへ興奮を覚える嗜好)」というパラフィリアであると知り、それを機に臨床心理士を志すように。そして自身の欲望が正確には「女子高生に殺されたい」であると突き止めたのです。
春人が考える「自己暗殺」の絶対条件は、自身を殺す少女を法から守るために「完全犯罪」であるということ、そして「全力で抵抗した上で殺されたい」ということ。それらの条件も相まって、春人は自身の欲望の実現は不可能と考えていました。
しかし、インターン時代に偶然にも少女キャサリンと出会ったことで、彼女がいれば諦めていた自己暗殺は実現可能と確信した春人は、彼が「最後の“少女”の季節」と捉えている「17歳の女子高生」へとキャサリンが成長するのを待つことに。
そしてそれまでの9年間を、キャサリンに殺されるための計画を練ることに費やし、ついに17歳の女子高生となったキャサリンと再会するために、彼女が通う二鷹高校に転任してきたのです。
二鷹高校で文化祭が催される11月8日に、キャサリンに殺されるべく、計画を進行する春人。そのために多くの生徒たちの心を操り、彼にとっては「一生涯の大事業」ともいうべき自己暗殺の舞台を作り上げていきます。
自身を慕っていると察していた真帆には、遺跡研究部での活動を通じて彼女の恋心をより明確に意識させていきます。
文化祭で披露するクラス演劇の台本作りに悩んでいた京子(莉子)には、『エミリーの恋人』という戯曲を演じてはと勧めます。そして彼女がその勧めに応じるよう、春人はわざと京子に気があるような振る舞いをします。
また京子との台本確認の際に、とある場面のエミリーを彼女に演じさせ、『エミリーの恋人』劇中でエミリーが叫ぶ「キャサリン」を呼ぶ声を録音します。
やがてある日の晩、春人はキャサリンを呼び出します。そして長い間訓練を続けていた飼い犬にキャサリンを襲わせ、録音した「キャサリン」を呼ぶ声をその場で流します。
キャサリンは尋常ではない怪力によって犬を絞め殺しました。キャサリンが今も「大の男を容易に殺せる力」を有していると知れた春人は喜びますが、別の女生徒が現場に現れたことでその場を後にします。
ところが翌朝、彼が担任を受け持つクラスの教室にて、教卓の上に例の犬の亡骸が遺棄されていました。春人も犬を遺棄していったのはキャサリンなのか別の女生徒なのか、そもそも何故こんなことをしたのかと困惑します。
犬の一件によって学校が騒然とする中、春人のクラスの生徒で柔道部員の愛佳(茅島みずき)が事件後から手首に包帯を巻いていたことで、「犬殺し」と揶揄されるように。
「あの噂本当?」と尋ねてきた京子が噂を広めていると感じた愛佳。彼女につかみかかり問題はより大きくなっていきますが、「あの日は公園で一人稽古をしていた」「手首は捻挫」と話す愛佳のアリバイを「稽古する姿を見かけた」と春人が嘘で証明したことで、騒ぎは収束を迎えました。
不測の事態はさらに続きます。新学期に、大学時代の元恋人・五月(大島優子)がスクールカウンセラーとして赴任してきたのです。
大学時代、春人は同じく臨床心理士を目指す学生だった五月と交際していましたが、彼女に対して「殺されたい」という感情が湧くことはありませんでした。
思わぬ再会に驚く春人と五月。五月はかつて恋人だったころ、春人が突然臨床心理士から教師を目指すようになったこと、その後別れを切り出されたことを未だ疑問に思っていました。
また五月は生徒たちの様々な相談を受ける中で、春人が女生徒たちにあえて「気がある振る舞い」をしていること、それによって生徒たちの心を操っていることに気づき始めます。そして「春人を好きな生徒」の中で、真帆だけは異質であることにも。
クラス演劇のキャスト決めで、春人は投票数を誤魔化し真帆をキャサリン役にしました。
一方、キャサリンの恋人ジェームズ役に選ばれなかった雪生(細田佳央太)は保健室にて、自身の真帆への想いを五月に明かします。真帆が春人を好きだと知りつつも、それでも一途に彼女を想い続ける雪生に、五月は「真帆の近くにいてあげて」と助言します。
ある時、恒例となりつつあった真帆とあおい、五月の保健室での昼食に、助言を受けた雪生も加わります。しかし、あおいは突然頭を抱え地震を予知。その言葉通りに大きな地震が起こります。
地震は収まり、怪我もせずに済んだ一同。ところがそこにいたのは、「真帆」ではなく「カオリ」でした。
映画『女子高生に殺されたい』の感想と評価
映画版は「欲望の変質の過程」にクローズアップ
『ライチ☆光クラブ』『帝一の國』などで知られカルト的人気を誇る漫画家・古屋兎丸が描いた同名コミックを映画化した『女子高生に殺されたい』。
映画化にあたって、本作の脚本も手がけた城定秀夫監督は原作を大胆に脚色。
莉子演じる演劇部の京子、茅島みずき演じる柔道部の愛佳といった映画オリジナルキャラクターはもちろん、「舞台天井から誤って転落し首を吊られる」という自身が望む形ではない死を迎えそうになり、挙句の果てに記憶喪失に陥るという春人の顛末など、映画オリジナルの描写・演出が多数取り入れられています。
その中でも特にこだわって脚色されていたのは、春人が「女子高生に殺されたい」という欲望を抱くようなった経緯の「ディテール(細部)」です。
原作漫画でも、幼少期の春人が両親に干渉されず放任主義的に育てられたこと、時には構ってもらいたくて駄々をこねることもあったが、両親は構わず春人を置いていったことがあるなど、両親からの愛を感じられなかった過去について言及しています。しかし、それが「殺されたい」という欲望へ変質していった過程、変質の根源的な原因については詳細には描かれていません。
映画ではその変質の過程と根源的な原因を、春人が抱く欲望の「ディテール(細部)」としてクローズアップ。それを象徴するオリジナル描写・演出として用いたイメージが「出産の際、自分はへその緒が首に絡まって生死の境をさまよった“と聞かされた”」という春人の記憶でした。
「へその緒」が欲望と想像のディテールを掻き立てる
自分自身では覚えておらず、あくまで他者から聞かされただけの記憶。しかし「母親との根元的なつながりの象徴である“へその緒”で殺されかけたらしい」というその記憶は、母親に冷たくされたという幼少期の実体験に基づく記憶と結びつきもはや強迫観念的な記憶と化してしまったことで、春人の心に焼き付けられてしまった。
春人が「紐状の凶器での絞殺」を自己暗殺の結末に選んだのも、その強迫観念に基づいているといえます。
「子である自分を無条件で愛してくれるはずの母親に、愛されていないと感じさせられたどころか、自分がその事実に気づく前に殺されそうになった」「殺され損なったせいで、“自分は愛されていない”と気づいてしまった」
「これ以上、愛情の飢餓を自覚したまま生き長らえたくない」「殺され損なったことで愛されていないと自覚する状態が生まれたのなら、殺され切ることでその状態は消え去るはずだ」
「だが、“自分を愛してくれない存在”などに殺されたくない」「殺されるなら、“そうではない存在”に殺されたい」「では、“自分を愛してくれない存在”=“母親”とは全く異なる存在とは?」
「それは、“少女”だ」
「出産時、母親に殺されかけた」という強迫観念的な記憶を新たに描くことで、映画は春人の「女子高生に殺されたい」という欲望のディティールを原作漫画以上に鮮明にし、より観客の妄想を掻き立てる形に描き出しているのです。
まとめ
映画『女子高生に殺されたい』にて、春人の欲望が「出産」という生が生じる瞬間と結びつけられて描かれているのは、生と欲望の切り離すことのできないつながりも深く関わっています。
生きているからこそ、死を望む。生きてなくては、死を望むことはできない。
生なくして欲望はない。では、欲望なくして生はあり得るのか?
映画では、危うく事故死しかけた春人は後遺症により記憶喪失に。その結果、彼は長年抱え続けていたオートアサシノフィリアの存在も忘れ苦悩からも解放されますが、同時にこれまでの自身の記憶も失うことになります。それらの顛末は、春人にとっての「女子高生に殺されたい」という欲望が彼の生そのものであったことを意味しています。
そして映画は、春人が何かを思い出す場面で幕を閉じます。
記憶とともに再び春人の前に現れる「自分を殺そうとする女子高生」の幻影は、生と欲望が同時に蘇る瞬間を、あるいは生と欲望は同一の存在であると証明した瞬間を描き出しているのです。