疑う罪。信じる罪。
人は罪を犯し生きている。
「悪人」「怒り」、数々の作品が映画化されているベストセラー作家・吉田修一の短編集「犯罪小説集」を、『64ロクヨン』の瀬々敬久監督が映画化。
実際に起こった事件を基に書かれた「犯罪小説集」の中から、「青田Y字路」「万屋善次郎」の2編を組み合わせ映画化となった本作。映画タイトルは『楽園』となりました。
狭い村の閉鎖された空間で、偏見と差別により追い詰められていく人間の残酷さに、心えぐられる衝撃作です。
映画『楽園』のあらすじと感想、そして原作「犯罪小説集」との違いを紹介します。
映画『楽園』の作品情報
【公開】
2019年(日本映画)
【原作】
吉田修一「犯罪小説集」
【監督】
瀬々敬久
【キャスト】
綾野剛、杉咲花、村上虹郎、片岡礼子、黒沢あすか、石橋静河、根岸季衣、柄本明、佐藤浩市
【作品概要】
吉田修一の短編集「犯罪小説集」を、瀬々敬久監督が映画化した『楽園』。綾野剛、杉咲花、佐藤浩市ら豪華キャストが集結しました。綾野剛は、『横道世之介』『怒り』に続く、3度目の吉田修一原作の映画化出演となります。本作はヴェネチア国際映画祭、釜山国際映画祭の正式出品作品として上映されました。
映画『楽園』のあらすじとネタバレ
綺麗な青田が広がる地方都市。今日は夏祭りの日です。そこに、車でリサイクル品を売っている親子がいました。
祭りの喧騒の少し離れた林の中で、母親が男に殴られています。オドオドするばかりの息子・中村豪士は、溜まり兼ね助けを呼びに向かいます。
仲裁に入った藤木五郎は、親子を哀れに想い豪士に職を紹介する約束をします。
豪士の母は洋子と名乗ってはいますが、海外からこの地方に嫁ぎ、結婚に失敗しては別の男と一緒になる生活をしていました。豪士は幼少の時、日本へ連れて来られます。
学校ではイジメにあい、どこに行っても自分の居場所を見つけられなかった豪士は、暗い性格でどこか思いつめた生活をしていました。
Ⅰ・罪
豪士が五郎から職を紹介してもらう日、事件は起きました。
五郎の孫娘・愛華が家に帰ってきません。青田から山間部へ別れるY字路で、同級生の紡(つむぎ)と別れたのが最後でした。
警察と地域の人々が集まり大掛かりな捜索が行われます。「あいちゃん、愛華ちゃん!」。赤いランドセルが川で見つかっただけで、愛華はとうとう帰ることはありませんでした。
それから12年が経ちました。愛華と最後まで一緒にいた紡は、曖昧になる記憶の中で、今でも心を痛めていました。もしあの時、家で遊ぼうと言う愛華の誘いを断っていなかったら・・・。
紡は、郷土芸能の篠笛を続けていました。練習の帰り道、自転車に乗る紡は、後ろから来る車に動揺し転倒してしまいます。
慌てて車から降りてきたのは豪士でした。相変わらず母と共にリサイクル屋を営んでいます。
豪士は壊れた笛を弁償させてほしいと、紡と笛を買いに町に出掛けます。知らなかった豪士の優しい一面に触れ、紡は心を開いていきます。
そして再び夏祭りの日、新たな事件が起こります。
12年前と同じ、Y字路で少女が消息を絶ったのです。集まる住人たち。その中には、五郎の姿もありました。
次々あやしい人物の名が挙げられる中、「豪士があやしい」と言い出したのは、紡の父親でした。
12年前の愛華の事件後、豪士の母親の男が、「お前の息子は人殺しだ」と言っているのを聞いていたからです。
住人たちは何かに憑りつかれたかのように、豪士の家へと向かいます。五郎はたまらず、家のドアを蹴破り進入します。
そこに戻ってきた豪士は、只ならぬ人々の様子に恐れを抱き走り去ります。食堂に逃げ込む豪士。五郎と住人たちも追いつきます。
豪士の母親も駆け付けます。「あの子は何もしていない」。母親の悲痛の叫びに、声をあげ泣く豪士。「愛華を返せ」。五郎の罵倒が飛びます。
「愛華ちゃん、愛華ちゃん」。豪士は確認するように何度も名前を呼びながら、自分でガソリンをかぶり火を付けます。
火だるまの男が店から飛び出してきます。駆け寄ろうとする母親を押さえつけ止めたのは、山間部に住む田中善次郎でした。
Ⅱ・罰
田中善次郎は妻を病気で亡くし、父の面倒を見るため実家に戻っていました。現在は、養蜂の仕事をし、犬のレオと穏やかに暮らしていました。
部落の中ではまだ若者扱いの善次郎は「よろずや」と呼ばれ、年寄りたちに頼りにされていました。
村の寄り合いで善次郎は久子と知り合います。夫を失くして戻ってきた久子は、同じ境遇で色々と世話を焼いてくれる善次郎に好意を持ちます。
また夏祭りの日がやってきます。善次郎と久子は一緒に燃え盛る炎の前で、伝統芸能の舞を見つめています。
そこには篠笛を吹く紡の姿もありました。そして、妻に先立たれた五郎の姿も。
炎はそれぞれの心に、あの夜の火事と火だるまの男の記憶を呼び覚まさせていました。
紡は、この土地から逃げるように東京の市場で働いていました。また、紡の同級生で思いを寄せる野上広呂も、紡を追って上京します。
愛華を連れ去った犯人が豪士だったのか。あの炎の夜から紡は、心を閉ざし一人苦しんでいました。そんな紡を見守る広呂もまた、何か胸に秘めたものがありそうです。
そんな折、善次郎の養蜂で村おこしの話が浮上します。初めは賛成していた住人たちでしたが、いざ市から予算が付くと「調子にのるな」と手のひらを反すのでした。
さらに善次郎の愛犬レオが村人を噛んでしまいます。次第に村八分にされる善次郎。
心配する久子は善次郎を温泉に誘います。一緒に露天風呂に浸かり、話を聞いてくれる久子の優しさに溺れ、善次郎は衝動的にキスをします。
その語、我に返った善次郎は、亡き妻の思い出の中に閉じこもってしまいます。家の周りには、妻の服を着せたマネキンを並べ、裏山に植えた木の苗の根元に妻の骨を埋めていきます。
世間を震撼させる恐ろしい事件が、この土地で起ころうとしていました。
『楽園』映画と原作の違い
吉田修一の短編集「犯罪小説集」から、「青田Y字路」「万屋善次郎」の2編を組み合わせて描かれた映画『楽園』。
異なる事件の登場人物が映画化により、どのような関係性になっているのか?原作と映画を比較し、違いを紹介します。
豪士と紡
原作では、紡はそこまで重要人物ではなく、豪士と仲良くなることもありません。
映画化で付け足された紡の存在は、二つの物語を繋ぎ、惨い事件が起こる中で一筋の希望になりました。
罪の意識を背負いながら成長した紡が、苦しみながらも前に進もうと行動する姿に、この物語の救いを感じました。
演じた杉咲花は、終始悲しい表情ばかりでしたが、たまに見せる笑顔が愛らしく印象的でした。
紡と広呂
紡と同様、原作ではほとんど登場しない同級生の広呂。映画では、紡を常に見守り共に成長していく存在です。
さらに癌を患いながらも、前向きに乗り越えようとします。殺人事件で殺される命と、生きたくても生きられない命がリンクします。
「俺たちのために楽園をつくれ」。広呂は紡に言います。誰もが自分の楽園を求めて生きているのかもしれません。広呂がこの映画の代弁士的、存在となっています。
演じた村上虹郎の圧倒的な存在感が、物語の中にスパイスを与えます。
善次郎と久子
もう一人、映画化に伴い重要人物となった存在がいます。善次郎と親しくなる久子の存在です。
原作では、顔を合わせたこともない2人が、映画では一緒に露天風呂に入る仲になります。
パートナーに先立たれ、孤独の中にいる善次郎と久子は、惹かれ合いながらも前に進む勇気がありません。特に善次郎は亡くなった妻をずっと思い続けていました。
村八分にあい追い詰められていく善次郎に、手を差し伸べようとする久子。
原作では孤独に苛まれどんどん気が振れていく善次郎が狂気的でしたが、映画での久子の存在は善次郎にもまだ正気に戻れる可能性があったことを匂わせます。
久子役の片岡礼子と、善次郎役の佐藤浩市の大胆な入浴シーンは、人間の欲望の愚かさと生への執着に乱れた濃厚なシーンでした。
事件の犯人
物語の発端は、地方都市で起きた少女誘拐事件です。映画では犯人は豪士という線が濃厚になっていますが、原作では曖昧に終わっています。
実際に起きた事件が題材となっているのですから、犯人もわからないままなのです。
映画化された豪士は、感情が出やすくどこか幼い印象です。
演じた綾野剛の豪士に成り切った演技に圧倒されます。なよなよ歩き、ぼそぼそ話し、めそめそ泣く、豪士の姿に苛立ちさえ覚えます。
綾野剛のこれまでにない狂気が見られます。
まとめ
実在した犯罪を基に書かれた、吉田修一の短編集「犯罪小説集」の中から2編を織り交ぜ映画化された『楽園』を紹介しました。
綾野剛、杉咲花、佐藤浩市をはじめ豪華キャストで映画化となった本作は、原作の登場人物をより深く掘り下げ、原作には書かれていない裏側に迫っています。
日常生活の中で、無意識のうちに人を偏見で見ていることはないでしょうか。
そのことが、人を追い詰め犯罪を起こす原因になっているかもしれません。そして、自分もいつ疎外される立場になるかもしれません。
疑う罪、信じる罪。人は何かしら罪を起こし生きているのかもしれません。せめてその分、誰かを救う存在でありたいものです。