芥川賞作家、平野啓一郎原作の『ある男』
『マチネの終わりに』(2019)やテレビドラマ化され話題になった「空白を満たしなさい」(2022年)で知られる作家、平野啓一郎。
本作は平野の2018年発表の長編小説「ある男」の映画化作品です。
演出を担当したのは『愚行録』(2017)『蜜蜂と遠雷』(2019)などで国際的にも評価の高い石川慶監督。
『愚行録』以来のタッグとなる妻夫木聡を主演に迎え、他人の人生を生きなければならなかった男の謎を追うベストセラー小説を珠玉の感動ミステリーとしてまとめあげました。
映画『ある男』の作品情報
【日本公開】
2022年(日本映画)
【原作】
平野啓一郎『ある男』
【監督】
石川慶
【脚本】
向井康介
【キャスト】
妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝、清野菜名、眞島秀和、小籔千豊、坂元愛登、山口美也子、仲野太賀、真木よう子、柄本明、きたろう、河合優実、カトウシンスケ、でんでんほか
【作品概要】
宮崎の片田舎で文房具店を営む里枝。ある日彼女の前に、よその土地からやってきた大祐という男が現れます。
やがて惹かれ合い結婚したふたりでしたが不慮の事故で大祐は亡くなってしまいます。法要に訪れた彼の兄は写真の男が大祐ではないと言い出し、里枝は弁護士の城戸に調査を依頼します。調べるうちに城戸は、大祐を名乗った男の悲しい人生を知ることに…。
弁護士の城戸には『愚行録』から5年、再び石川慶作品の主役を任せられた妻夫木聡。今回は真摯に依頼者に向き合う社会派弁護士をスマートに演じています。
里枝役は『万引き家族』(2018)の安藤サクラ。その謎の夫“大祐”を窪田正孝が演じ、苦しみを抱えつつささやかな幸せをつかみかけた男を見事に体現しています。
映画『ある男』のあらすじとネタバレ
宮崎県のとある町にある誠文堂文具店。店番をしているのは離婚して息子を連れて戻ってきた里枝です。
雨の中、見慣れない男が店にやってきました。スケッチブックを買ったその男は口数は少ないものの悪い人ではなさそうで、その後もよく画材を買いに来るようになります。
ある日、訪れたその男にご近所さんが、あちこちで絵を描いているのを見た、こんどそのスケッチブックを見せて、と軽口をたたくので里枝はたしなめます。里枝は後日、その男が谷口大祐という伊香保温泉の老舗旅館の二男で、いまはここで林業の会社に勤めており、まじめで評判も上々だということを知ります。
また雨の日にやってきた大祐は、買物をしたあと里枝にスケッチブックを差し出します。律儀に持ってきたことに驚きながらそれをていねいに見ていく里枝。そこには公園で遊ぶ息子の悠人らしき姿も描かれています。
すると大祐が「もしよかったら友だちになってもらえませんか?」と口にします。そしてすぐに、家庭のある方にすみませんと謝りますが、離婚したので問題ない、買物しなくていいからいつでも絵を見せにくるようにと里枝は返事しました。
その後ふたりは仲良くなり、今日はうなぎ屋で食事をしています。悠人が席を離れたとき、里枝はもうひとり男の子がいたが2歳のとき病気で亡くなったと話します。
治療方針をめぐって対立したのが前夫との離婚原因だったことも。幼い身体に放射線治療が辛そうで、しかもそれが無意味だったことを思い出し里枝は涙ぐみます。
そんな里枝の手を大祐はそっと包み込み「その子、名前は?」とたずねます。そして「りょうくん、りょうくん」とやさしく声に出すのでした。
つき合い始めたふたり。デートの帰り、車の中でぎこちなくキスを交わそうとしますが、大祐は窓ガラスに映った自分の顔に異常に反応し取り乱します。そんな彼を里枝はやさしく抱きしめ「大丈夫、大丈夫…」となだめます。
ふたりは結婚し、花という女の子も生まれました。中学生になっていた悠人は大祐によく懐き、里枝に黙って学校をサボっては大祐の職場で1日を過ごすこともあります。今日も軽トラに通学用の自転車を乗せて悠人を山に連れてきた大祐。
チェンソーで木に切り込みを入れ、逆側から作業しようとして回り込んだときに転倒してしまった大祐の上にその木が倒れてきました。大祐はそのまま帰らぬ人となってしまいます。
一年後。折り合いが悪かったのか大祐が疎遠にしていた兄の恭一が一周忌の法要にやってきました。不義理を詫びる里枝に対し恭一は「こんなところで死ぬなんて親不孝だ」と発言し列席者の怒りを買います。自宅の仏壇に手を合わせ遺影を探す恭一。
里枝が大祐の写真を指差すと「ちがいますよ」と押し問答になり、しまいにはふたりとも「じゃあ、だれなんですか?」となってしまいました。
里枝は離婚のとき世話になった弁護士の城戸に相談します。宮崎にやってきた城戸をうなぎ屋に案内し、そこで法律的な問題点について説明を受けます。
亡くなった夫を仮にXと呼び、まずは「谷口大祐」の死亡届を取り消すことから始めると言う城戸。DNA鑑定に必要なものを受け取り城戸は横浜に戻っていきます。
横浜のマンションで妻の香織、息子の颯太と3人で暮らしている城戸。今日は自宅で香織の両親と食事会です。ふと在日の話題になったとき、彼らは在日三世である城戸を気づかい、すっかり日本人だと笑いました。
ふたりが帰ったあと、香織は父に頭金を出してもらい一戸建てに引っ越す話が持ち上がっているとうれしそうに話します。
城戸は谷口恭一をたずね温泉旅館へとやってきました。本物の大祐の写真を見せてもらい、恭一独自の調査で大祐が宮崎に行く前は大阪にいたことを聞かされます。厄介ごとを迷惑がるように恭一は、本物の大祐は殺されてるのではないかと城戸に吹き込みます。
次に向かったのは大祐の元恋人が働いているスナックでした。後藤美涼というその女性は、大祐とはつき合っては別れてをくり返し、最後に会ったのは彼の父親の葬儀だったと語ります。
スナックのマスターは「北朝鮮に拉致されたんじゃ?」と口をはさんできますが美涼に一蹴されます。城戸を見送り美涼は「ほんとバカ」と少し泣いていました。
城戸はDNA鑑定の結果、Xが谷口大祐ではないことが証明されたと里枝に電話で報告します。絶句する里枝を城戸が気づかうと「私はだれの人生といっしょに生きてたんでしょうね?」と力のない返事が返ってきました。
いっしょに働いている中北から戸籍交換についての情報を得た城戸は、その仲介人が服役している大阪刑務所をたずねます。得体の知れないオーラをまとった小見浦憲男というその男は、会うなり城戸が在日だと見抜きます。
関係のない話で城戸を翻弄し、交換ではなくロンダリングだと言って面会は終わらせられてしまいました。
ある日、城戸の事務所に小見浦からポストカードが届きます。貝殻ブラをした美女の絵柄に城戸をバカにする言葉が書かれ、両方の胸に「谷口大祐」「曾根崎義彦」という名前が書かれていました。
そのころ里枝は悠人から、今年の命日にもお父さんのお墓をつくらなかったと責められ、また名字変わるの?と切実な思いをぶつけられていました。里枝は事実を打ち明けますが、悠人は怒ってふさぎこんでしまいました。
城戸と中北は都内でおこなわれている死刑囚の絵画展に携わっています。その会場内で死刑反対についての講演会が開かれようとしていますが、聴衆の中に美涼の姿がありました。
彼女は城戸のSNSをチェックしており、それでこの絵画展のことを知ったそうです。美涼は大祐の偽アカウントをつくって本人をおびき出すつもりだと城戸に語ります。
講演会の間、城戸は作品をみてまわっていましたがある一枚の前で足が止まりました。顔の描きつぶされたその絵に見覚えがあったからです。スマホの中に保存しておいたXのスケッチブックの絵を見返すと似たような絵がありました。
絵画展のその絵を描いたのは小林謙吉という死刑囚で、プログラムでその顔を確認するとなんとXとそっくりでした。調べてみると謙吉には息子がおり、母親の姓を名乗って原誠というそうです。
新たな事実を知り城戸は再び小見浦をたずねます。「曾根崎義彦」について教えてほしいと請うと小見浦は嘲笑し、戸籍のロンダリングなんかやるような俺がどうして小見浦だとわかるのか、どうして自分のそれを交換していないといえるのか?と謎かけのように城戸を突き放します。
映画『ある男』の感想と評価
芥川賞作家、平野啓一郎の『ある男』。この長編小説を映画化するのは大変な作業だったと思います。そもそも多くの読者がいるベストセラー小説を映像化するのはリスクを伴います。
何を削ってどこにフォーカスするのか、原作者の平野は監督にお任せしたと語っており、映画はその期待に応える仕上がりとなっています。
これは、『愚行録』や『マイ・ブロークン・マリコ』(2022)などの脚本も担当した向井康介の手腕によるところが大きいのでしょう。
映画化されたことでの「原作」との違い
原作小説は城戸目線、というよりバーで城戸から話を聞いた人物の語りです。この映画の中でいう、ラストシーンのスズキのような立ち位置でしょうか。小説では「序」としてはじめにそのことが説明されています。映画のファーストシーンも実はそのバーの風景なのですが、ラストでそこが城戸の訪れていたバーだったとわかる仕掛けになっています。
小説は里枝と悠人が話す場面、ふたりが誠の愛を感じこれからもそれを胸に生きていく、という心温まる描写で終わるのに対し、映画は城戸の行動に含みを持たせ、モヤモヤとした余韻が残るシーンで終わります。
これは映画が大祐=誠の話をメインに据え、城戸周辺の描写を抑えた結果だと思われます。小説では城戸の夫婦の関係がもっと細かく描かれており、美涼との会話やそもそも美涼のキャラクター自体、もう少し城戸との淡い恋愛感情を感じさせる設定になっています。ただし2時間の映画にそれを盛り込んでしまうとメインがぼやけてしまい、後半に訪れる妻、香織の裏切りのインパクトが弱まってしまうのでそこを変更したのは正解だったと思います。
窪田正孝の3つの顔
この映画の成功要因として真っ先に頭に浮かぶのは、谷口大祐=原誠を窪田正孝が演じたことです。いままでさまざまな役柄を演じてきた窪田ですが、今回もそのずば抜けた演技力に驚かされました。
まず序盤の宮崎でのシーン。ここでは見知らぬよそ者として登場しますが、なにか大きな心の傷を感じさせつつやさしく他者を思いやる男性という役を見事に表現しています。
本当に、口数の少ないワケあり男性を演じさせたら天下一品です。この、ようやく小さな幸せを手に入れた家族の描写があるからこそ、そのあと(時系列的には前ですが)のシーンが活きてきます。
2つめは原誠時代の演技。10代終わりから20代にかけての彼は殺人犯である父親を憎悪し、世間から隠れて普通の人間になることを望んでいました。
そのいまにもちぎれてしまいそうなギリギリの緊張感は見ていて痛々しいほどです。原作者も気に入っているというロードワークでのシーンなど、観ているこちらも胃が痛むような熱演でした。
最後は、これが最も背筋が震えたのですが父親の小林謙吉を演じたシーンです。同じ顔なのに、同じ人が演じているのに全く違う。狂気をまとったあの1シーンには戦慄しました。
この窪田正孝という俳優がいなかったら成立しなかったのではないかと思えるほど、彼の存在感、彼の演技は素晴らしいです。
石川慶映画の撮影について
石川慶監督といえば、いままで『愚行録』『蜜蜂と遠雷』『Arcアーク』(2021年)とピオトル・ニエミイスキが撮影を担当していました。
今回は、『万引き家族』で日本アカデミー賞最優秀撮影賞を受賞した近藤龍人と組んでいます。
前半、宮崎での幸せな時期のシーンでは、自然に囲まれたやわらかな雰囲気の光に包まれていますが、その中にも一本ぴんと張り詰めたような空気感は健在です。
城戸の住んでいる横浜のシーンは、高層ビルやマンションに飲み込まれてしまうような構図によって不安定な城戸の心情が目から(また工事の騒音として耳からも)伝わってきました。
圧巻だったのは刑務所のシーンです。面会室に向かうトンネルのような廊下、そしていままで見たこともないくらい暗い部屋での対峙。もちろん本物とは違うのだと思いますが、こういう感じなのだと納得させられてしまう絵力がありました。
また柄本明演じる小見浦が去り際に手をついた際、体温でテーブルに手の跡が残り、それがすっと消えていく…こんなシーンもめずらしいなと感心してしまいました。
まとめ
原作者の平野啓一郎は「分人主義」を掲げています。それは対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のこと。中心にあるひとつだけの「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えることだといいます。
そしてそれは、自分を肯定できない、あるいは否定してしまう苦しみから逃れる手だてとなるのです。
『ある男』は原誠が違う人生を求めて苦悩した話であり、また城戸章良がそんな他人の人生を生きることにほのかな憧れを持つ物語でもあります。原誠の人生は極端かもしれませんが、城戸章良の行動には共感を覚える人も多いと思います。
映画『ある男』は衝撃的な話を題材としながら、城戸の行動、城戸の感情を追うことで、現代の生きづらさに悩む人たちにひとつの道すじを見せてくれているのかもしれません。