連載コラム『仮面の男の名はシン』第9回
『シン・ゴジラ』『シン・エヴァンゲリオン劇場版』『シン・ウルトラマン』に続く新たな“シン”映画『シン・仮面ライダー』。
原作・石ノ森章太郎の特撮テレビドラマ『仮面ライダー』(1971〜1973)及び関連作品群を基に、庵野秀明が監督・脚本を手がけた作品です。
本記事では、『シン・仮面ライダー』の結末・ラストシーンについて改めてクローズアップ。
一文字隼人/仮面ライダー第2号の「俺は好きに生きたい」が思い出させる『シン・ゴジラ』の“あの言葉”と問い、「俺は好きに生きたい」という信条と“仮面ライダー”という他者との出会いが生んだ「人間の自由を守る者」の姿を考察・解説していきます。
CONTENTS
映画『シン・仮面ライダー』の作品情報
【公開】
2023年(日本映画)
【原作】
石ノ森章太郎
【脚本・監督】
庵野秀明
【キャスト】
池松壮亮、浜辺美波、柄本佑、西野七瀬、本郷奏多、塚本晋也、手塚とおる、松尾スズキ、仲村トオル、安田顕、市川実日子、松坂桃李、大森南朋、竹野内豊、斎藤工、森山未來
【作品概要】
1971年4月に第1作目『仮面ライダー』の放送が開始され、今年2021年で50周年を迎える「仮面ライダー」シリーズの生誕50周年作品として企画された映画作品。
脚本・監督は『シン・ゴジラ』(2016)と『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021)にて総監督を、『シン・ウルトラマン』(2022)にて脚本・総監修を務めた庵野秀明。
主人公の本郷猛/仮面ライダーを池松壮亮、ヒロイン・緑川ルリ子を浜辺美波、一文字隼人/仮面ライダー第2号を柄本佑が演じる。
映画『シン・仮面ライダー』の結末/ラストシーンを考察・解説!
一文字/仮面ライダー第2号の決断の理由は?
「緑川イチロー/チョウオーグとの決戦後、一度は“ダブルライダー”として共闘し心のつながりを得られた本郷猛/仮面ライダーを失い、SHOCKERと戦い続ける意味までも失いつつあった一文字隼人/仮面ライダー第2号」「しかし『政府の男』立花と『情報機関の男』滝に本郷の魂(プラーナ)が遺された仮面ライダーのマスクを託されたことで、“二人で一人の仮面ライダー”として再びSHOCKERと戦い続けることを決意する」……。
石ノ森漫画版の物語をなぞらえたその結末はもちろん、立花らの修復によりテレビドラマ版の「旧1号」から「新1号」へとデザインが進化した本郷/仮面ライダーのマスクは、テレビドラマ版・石ノ森漫画版それぞれの設定・展開を取り入れ融合させた演出といえます。
「俺は好きに生きたい」と語り、故に立花・滝ら政府の人間に利用されることを嫌っていたものの、映画結末ではマスクを通じて本郷の遺志を託されたのを機に「好きになれるよう努力する」と“政府の人間”ではなく“立花と滝”という人間として彼らに協力することを了承した一文字。
テレビドラマ版・石ノ森漫画版ともに「フリーランスのカメラマン」という設定を持ち、石ノ森漫画版では「広島の原爆被害を題材とした写真集『黒い雨を追って』を出版している」という設定が存在する一文字。それらの設定は『シン・仮面ライダー』作中の「元々はジャーナリストだった」という設定にも反映されています。
そうした設定の“元ネタ”からも、社会正義を貫こうとするジャーナリストであった一文字が、権力側の人間に協力することを嫌ったのは最早当然といっても過言ではありません。
それでも、彼が立花と滝に協力することを選んだのは、「立花と滝を人間として信用した」という理由だけでなく、やはり「“自身の信条”と“本郷の遺志”の両方を貫きたかったから」ではないでしょうか。
「俺は好きに生きたい」と『シン・ゴジラ』の“あの言葉”
「俺は好きに生きたい」……一文字のそのセリフを聞いて、連載コラム第8回でも触れたシン・シリーズ第1作『シン・ゴジラ』を象徴する言葉「私は好きにした、君らも好きにしろ」を思い出した方は多いはずです。
また、その言葉を書き遺した分子細胞生物学の研究者(にして城南大学の元教授)の牧悟郎には「放射能被害により愛する妻を亡くした」という設定が存在することからも、石ノ森漫画版の設定における一文字と牧は「“放射能”という形で具現化された、“人類の愚行”への怒りを持つ」という共通点でもつながっているのも無視できないでしょう。
「私は好きにした、君らも好きにしろ」……人類の一人である自らの手でゴジラという人類への試練を生み出し、試練の果てに人類が「愚行の継続」と「愚行との決着への意志」のいずれを選ぶのかを試した牧を象徴する言葉といえます。
しかし、改めてその言葉を思い返してみると「『君ら』の中には果たして『牧の亡き妻同様に“好きにする”という状況を持ち得なくなった=選択の意志すらも奪われてしまった者』の存在は含まれていたか?」という問いも浮かんできてしまうのです。
「俺は好きに生きたい」が仮面ライダーと出会った時
「私は好きにした、君らも好きにしろ」から拭い去ることのできない「それでは、“好きにする”を奪われた者は、一体誰が救ってくれるのか?」という問い……言い換えれば「幸福を願い求められる状況自体を奪われた者は、一体誰が救ってくれるのか?」という問い。
その問いに対する一つの答えこそが、『シン・仮面ライダー』が描いた「自らが“辛い”を背負うことで、『幸福を願い求めることを続けられる』という他者の“幸せ”を守る者」という仮面ライダー像なのではないでしょうか。
洗脳時から本郷/仮面ライダーを「嫌いじゃない」と認め、洗脳が解けた後は「好きに生きる」という自身の信条を貫くために一度は袂を分かつも、ルリ子を失ってもなお戦い続ける本郷の姿の後を追って彼と共闘した一文字。
その一連の言動・行動は、SHOCKERのオーグたちの「自身の幸福追求=“好きに生きる”のためならば、他者の“好きに生きる”を奪うことも必要となり得る」という在り方……「好きに生きる」という自身の信条が陥り得た、あまりに身勝手な結論とは対極の意志で戦い続ける、本郷/仮面ライダーの在り方に心を動かされたからといえます。
映画作中でも一度は本郷との共闘を断ったように、「好きに生きる」という自身の信条を貫くため、時として“孤独=他者および社会との関わり”を拒んできた一文字。しかし、本郷/仮面ライダーという他者の生き様を理解し尊重できたことで、彼の内には「『自らが“辛い”を背負うことで、『幸福を願い求めることを続けられる』という他者の“幸せ”を守る』という本郷/仮面ライダーの意志を継ぐ」という新たな信条が生まれました。
そして、「好きに生きる」という一文字隼人を一文字隼人たらしめる信条と、本郷/仮面ライダーという他者との出会いが生んだ信条の両方を貫くための決断の形であり、「好きに生きる」が他者と出会い、その存在を認め尊重するからこそ生まれたのが「好きになれるよう努力する」という言葉だといえるのです。
まとめ/他者と自己、異なる“人間の自由”のために
「仮面ライダーは人間の自由のためにショッカーと戦うのだ!」……それはテレビドラマ『仮面ライダー』のOPナレーションの一節であり、仮面ライダーが戦う理由を象徴する言葉でもあります。
『シン・仮面ライダー』にて本郷/仮面ライダーが守ろうとした「他者が幸福を願い求めることを続けられる状況」はまさしく「人間の自由」であり、一方で一文字の「好きに生きる」という信条もまた「人間の自由」の形の一つといえます。
他者の自由を守る“仮面ライダー”としての信条と、自分自身の自由を守る“一文字隼人”としての信条。その二つの信条を貫こうとする一文字もまた、自らの肉体を喪失してでも“仮面ライダー”としての信条を貫いた本郷と同じく、そして異なる「人間の自由を守る者」なのでしょう。
ライター:河合のびプロフィール
1995年生まれ、静岡県出身の詩人。
2019年に日本映画大学・理論コースを卒業後、映画情報サイト「Cinemarche」編集部へ加入。主にレビュー記事を執筆する一方で、草彅剛など多数の映画人へのインタビューも手がける(@youzo_kawai)。