映画『樹海村』は2021年2月5日(金)より全国ロードショー公開!
2020年に大ヒットした『犬鳴村』に続く「恐怖の村」シリーズ第2弾であり、「自殺の名所」と知られる富士・青木ヶ原樹海、インターネット怪談の名作「コトリバコ」がそれぞれに持つ恐怖を再解釈・融合させたホラー映画。
それが2021年2月5日(金)公開の映画『樹海村』です。
本記事では、本作の劇場公開にあわせて2021年2月10日(水)に地上波初放送を迎えるシリーズ前作『犬鳴村』と映画『樹海村』を比較・解説。
両作の共通点と違いをそれぞれ紹介しつつも、映画『樹海村』が前作『犬鳴村』からいかに「パワーアップ」を遂げたのかを探ります。
CONTENTS
映画『樹海村』の作品情報
【公開】
2021年(日本映画)
【監督】
清水崇
【脚本】
保坂大輔、清水崇
【キャスト】
山田杏奈、山口まゆ、神尾楓珠、倉悠貴、工藤遥、大谷凜香、塚地武雅、黒沢あすか、安達祐実、國村隼
【作品概要】
2020年に大ヒットしたホラー映画『犬鳴村』に続いて制作された「恐怖の村」シリーズの第2弾であり、「自殺の名所」として知名度が高い青木ヶ原樹海、知る人ぞ知るインターネット怪談の名作「コトリバコ」を題材に新たな恐怖の物語を描いた作品。
主演のの山田杏奈・山口まゆをはじめ、神尾楓珠、倉悠貴、工藤遥、大谷凜香、塚地武雅、黒沢あすか、安達祐実、國村隼らが出演。そして監督はシリーズ第1弾『犬鳴村』に引き続き、「呪怨」シリーズなどJホラーを代表する監督の一人・清水崇が務めた。
映画『樹海村』のあらすじ
かつて人々を戦慄させ、多くの人間を死に絶えさせた禍々しき古き呪いは、木々と根と苔に覆われた樹海の深き深き奥へと封印されました。
やがて13年後。響(山田杏奈)と鳴(山口まゆ)の姉妹の前に、封印されたはずの呪いが姿を現します。
そして樹海では、謎の行方不明が続発していました……。
映画『樹海村』と前作『犬鳴村』の比較解説・考察
「避けられぬ運命」は誰にでも起こり得る
映画『樹海村』の劇場公開前からすでに話題となっていた、大谷凛香演じる二人の「アキナ」の存在。そして誰もが、「二人の『アキナ』は同一人物なのか?」という疑問を抱いたはずです。
『樹海村』の冒頭、「オカルト特集第2弾」と称して富士・青木ヶ原探索の生配信を行おうとした「アッキーナ」ことアキナ。そしてシリーズ前作の『犬鳴村』冒頭でも「アッキーナ」名義で活動し、前作主人公・奏(三吉彩花)の兄で恋人の悠真(坂東龍汰)を連れ、心霊スポット・犬鳴トンネルへ「投稿動画の撮影」を目的に訪れた明菜(アキナ)が描かれています。
『犬鳴村』(2020)より
明菜は『犬鳴村』作中にて亡くなっていること、また同じく『犬鳴村』の登場人物である遼太郎も『樹海村』にて再登場していることから、「『樹海村』アキナ=犬鳴村の呪いに遭遇しなかった世界線の明菜」説が濃厚と思われる二人の「アキナ」。
そもそも『樹海村』はなぜ、「アキナ/明菜が呪いによって命を落とす」という前作『犬鳴村』とほぼ変わらない展開を、それも同じ映画序盤にて描いたのでしょうか。そこには、『樹海村』の主人公・響と『犬鳴村』の主人公・奏がともに辿った「避けられない運命」が関わっています。
『樹海村』アキナも『犬鳴村』明菜も、作中にて響のような「異能の血筋」や奏のような「忌むべき血筋」などを宿している様子は一切描かれておらず、あくまでも呪いに触れてしまった人間の一人に過ぎません。
しかし「別世界線上の同一人物」である可能性が高い「アキナ」は、いずれの世界線においても呪いによって命を落としています。「アキナ」は響や奏のような特異な出生でないにも関わらず、彼女ら同様に「避けられない運命」の中にあったのです。
「避けられない運命」は、決して「特異」なことなどではない。『樹海村』『犬鳴村』という別世界線上の物語を跨いで繰り返された「アキナ」の呪われた死を通じて、「避けられない運命」は主人公という特異な人間のみに降りかかるものではなく、映画を観る者をはじめ、誰にでも起こり得るありふれたものであることが描かれていたのです。
新たなメディアがもたらす恐怖を「記録」する
また『犬鳴村』『樹海村』がそれぞれの冒頭にて「アキナ」と併せて描かれているのは、「ネット動画の撮影」と「動画配信」の様子。どちらも、2021年現在を生きる人々にとっては不可欠なメディアとして挙げられるであろう存在です。
そもそも、「恐怖」をその核とする物語たちは常に、他者に情報を伝えるための媒体=「メディア」の発展とともにありました。
『犬鳴村』の犬鳴村、『樹海村』のコトリバコ・樹海村はいずれも「匿名掲示板サイト」というインターネットメディアが生んだ怪談であり、「怪談」自体が恐怖を描いた物語であると同時に、言葉によって恐怖を他者に伝播させるメディアでもあります。また『樹海村』作中に登場するコトリバコも、「村の呪い」を拡散するためのメディアとも解釈できるでしょう。
そして『樹海村』『犬鳴村』の物語をそれぞれに描いた映画という表現技法も、過去に起きた無惨なる記憶、或いは今起こっている無情なる現実、或いは未来に起こり得る凄惨たる災いなど、「映像」をもってあらゆる恐怖を伝えようとする「警告」のメディアという側面を備えています。なおそれは、『犬鳴村』作中にて奏が村の記録映像を観させられた場面からも垣間見えてくるはずです。
その一方で、『リング』(1998)におけるVHSビデオテープや『着信アリ』(2004)の携帯電話、『真・鮫島事件』(2020)などにおけるリモート通話アプリと、映画はメディアの発展を常に追い、新たな恐怖の可能性への探求とともにメディアの「記録」を続けてきました。
映画『リング』(1998)
動画共有サイトへのたった一本の動画投稿が、一瞬で世界中の不特定多数の人々に対し「映像」という強力なイメージをもって恐怖を伝播する。更には「動画配信」によって、恐怖を広範囲・高効率で拡散するテロとも言い換えられるネット動画の投稿が「リアルタイム」「無編集」で伝播できるようになった2021年現在。
それはメディアの新たな時代であると同時に、その制御ができるかも不明瞭なまま蠢き続ける未知のメディアと恐怖が誕生した時代ともいえます。
恐怖を警告するメディア・映画がなぜ「メディアの発展」を記録し続けるのか。それは、その時代ごとに誕生するメディアがもたらす新たな恐怖を警告するためであり、『犬鳴村』が「ネット動画」を、そして次作にあたる『樹海村』が「ネット動画」の先にある「動画配信」を続けて描いた理由はそこにあるのかもしれません。
呪いの「声」に誘われる主人公たち
「声」。それは『犬鳴村』『樹海村』の物語で共通して描かれている重要な要素であり、恐怖の演出においてもそれぞれ多用されています。
『犬鳴村』作中では村人たちの亡霊が出現した時、或いは犬鳴村の子孫たちが「犬」の貌を露わにした時には歯や瞳の変化、「犬食い」「犬の手」などの仕草のだけでなく、「犬の唸り声」が聞こえるようにも演出。鳴き声という「声」によって忌まわしき血脈の恐怖を描写しています。また一度聞いたら耳から離れない「ふたしちゃろ」のわらべ歌も、「声」による恐怖演出の一つです。
一方の『樹海村』でも、歌とも言葉とも聞き取ることができない、しかし「声」であるのは確かな音が作中の重要な場面にて使用されています。主人公・響はその音を「自身を呼ぶ声」と感じ取り、姉の鳴は「耳鳴り」と感じ取ったことで、姉妹の命運は分かれることに。そして『犬鳴村』のわらべ歌のような意味/形さえも喪失してしまった「呼び声」は、村というコミュニティの存続のために「個人」を喪失させる、樹海村の呪いの本質を象徴しています。
また何より、『犬鳴村』『樹海村』主人公の名前それぞれが「奏」「響」と、「音/声」にまつわる言葉で形作られていることも見逃せないでしょう(響の姉「鳴」も音/声に関係がある名前です)。
「目的」が異なる、二つの村の呪い
『犬鳴村』(2020)より
「村の呪いと恐怖」という同じテーマを扱っている『樹海村』『犬鳴村』。しかしながら、両作がそれぞれに描いている呪いは、「目的」という観点においてその性質が大きく異なっています。
『犬鳴村』にて描かれる呪いは、村人たちの無念としか言い様のない「記憶」を踏みにじる、或いは抹消しようとする者たちへの報復。そして犬鳴村の子孫たちへの「記憶」の継承を目的としていることが、作中での様々な描写から考察することが可能です。
特に『犬鳴村』作中にて主人公・奏が記録映像を観させられ、のちにトンネルという境界をつなぐ通路を経て過去の犬鳴村へと転移した理由も、我が子と引き離される母・摩耶(宮野陽名)の切なる想い、滅びゆく村の子孫=赤ん坊の祖母を守り生き残らせるという異なる「母ゆえの愛」を擬似体験させることで、今後「母」となり得る子孫としての記憶の継承を促したためと解釈できます。
しかしその反面、奏が犬鳴村の子孫であると同時に村を滅ぼした森田家の子孫であることから、「記憶を踏みにじる者、抹消しようとする者への報復」と「村の記憶の継承」という対極の目的も持つ犬鳴村の呪いが互いに作用、非常にアンビバレントな状況が生じている結末が描かれています。
一方の『樹海村』にて描かれる呪いは、犬鳴村のそれと同様に「呪殺」という効力を持ちつつも、その効力はあくまでも他者を呪殺し村へと引き寄せることでの「村人」の生産にあり、そうすることで樹海村の存続と繁栄をもたらすという目的に基づいています。
そして「樹海村の存続と繁栄」を村全体の約束とするべく、日本では古くから約束を証明する行為として用いられてきた「指切り」によってコトリバコを製作。「呪い」と化した村の約束を拡散するためのメディアとして、村の約束を証明する象徴として悍ましき呪具を生み出したのです。
村の記憶の継承による子孫の存続を目指す『犬鳴村』の呪いと、「村人」そのものの生産による村の存続・繁栄を目指す『樹海村』の呪い。しかし、それぞれ異なる切り口から呪いの在り方を描いているものの、映画の結末にて描かれる「絶望」の深さに関しては、『樹海村』は『犬鳴村』を超えているといえるかもしれません。
まとめ
シリーズ前作にあたる『犬鳴村』が描いたネット怪談/都市伝説ならびに「呪い」の仕組みに対する解釈・考察を、更に発展させた上で別の切り口からのアプローチを試みている映画『樹海村』。
それは『樹海村』が『犬鳴村』を糧に、呪いの物語としてより恐怖と絶望に満ちた形へとパワーアップを遂げていることを意味しています。
そして、数多くの見どころ・考察ポイントが秘められている映画『樹海村』は、シリーズ前作にあたる『犬鳴村』と照らし合わせ・組み合わせることで、更なる見どころ・考察ポイントが次々と見えてくるはずです。