フランソワ・オゾン監督が描くブルゴーニュを舞台に人生の秋から冬を迎える老齢の女性
フランソワ・オゾン監督が描く老齢の女性の物語『秋が来るとき』。80歳のミシェルはパリを離れ、自然豊かなブルゴーニュで静かに暮らしています。
ある日、パリから休暇で娘と孫が訪れ、ミシェルは手料理を振る舞います。しかし、キノコ料理を食べた娘が中毒症状になり、緊急搬送されてしまいます。
その一件を機に、それぞれの過去が浮き彫りになっていきます。
『焼け石に水』(2001)、『8人の女たち』(2002)のフランソワ・オゾン監督が自身の子供の頃、親戚が振る舞った手料理が元でキノコ中毒になった体験に着想を得て映画化。
ベテラン女優エレーヌ・バンサンを主演に迎え、人生の秋から冬を迎える老齢の女性の生き様を描きます。
また、『スイミング・プール』(2004)以来21年ぶりにリュディビーヌ・サニエが出演しました。
映画『秋が来るとき』の作品情報

(C)2024 – FOZ – FRANCE 2 CINEMA – PLAYTIME
【日本公開】
2025年(フランス映画)
【原題】
Quand vient l’automne
【監督】
フランソワ・オゾン
【脚本】
フランソワ・オゾン、フィリップ・ピアッツォ
【キャスト】
エレーヌ・バンサン、ジョジアーヌ・バラスコ、リュディビーヌ・サニエ、ピエール・ロタン、ガーラン・エルロス、ソフィー・ギルマン、マリック・ジディ
【作品概要】
『スイミング・プール』(2004)や『17歳』(2014)、『2重螺旋の恋人』(2018)でカンヌのコンペティションに出品され、『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』(2020)で第69回ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞したフランスを代表する映画監督であるフランソワ・オゾン。
本作では、『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』(2020)でフランソワ・オゾン監督とも共演したフランスのベテラン俳優を主演に迎え、人生の秋から冬へと向かう老齢の女性の複雑な物語を描き出しました。
更に、『焼け石に水』(2001)、『8人の女たち』(2002)、『スイミング・プール』(2004)とフランソワ・オゾン監督作に出演したリュディビーヌ・サニエが21年ぶりに監督作に出演しました。
その他のキャストには、『理想の出産』(2012)のジョジアーヌ・バラスコ、『12日の殺人』(2024)のピエール・ロタンなど。
映画『秋が来るとき』のあらすじとネタバレ

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80歳のミシェルは、フランスのアパートを娘のヴァレリーに譲り、自然豊かなブルゴーニュで暮らしていました。
ある日、ヴァレリーと孫のルカが秋の休暇にミシェルの元を訪れることになり、自慢の手料理で2人をもてなすため、ミシェルは親友のマリー=クロードと共に早朝キノコ狩に向かいます。
支度して待っているミシェルの元に2人がやってきます。歓迎するミシェルに対し、娘はどこか素っ気ないそぶりです。
ミシェルがキノコ料理を薦めると、ルカは「キノコは好きじゃない」と言い、口にしたのはヴァレリーだけでした。平穏に食事をしていたはずが、ヴァレリーの様子がおかしくなり病院に搬送されます。
ヴァレリーはキノコの中毒症状でした。ショックを受けるミシェルをマリー=クロードは慰めますが、ヴァレリーは「私を殺そうとした」と怒り、ルカを連れて帰ってしまいます。
このまま孫に会えなくなってしまうのではないかと、ショックを受けるミシェル。
そんなミシェルは、マリー=クロードの息子ヴァンサンが、出所したばかりで、仕事を探しているがなかなか見つからないことを聞き、自分の庭の手伝いを頼みます。
ミシェルは、親友の息子であり、幼い頃から知っているヴァンサンを何かと気にかけており、ヴァンサンもそんなミシェルに感謝を感じていました。
庭の手入れの手伝いのほか、孫のためにとっておいたおもちゃなどを処分するようにミシェルはヴァンサンに頼みます。捨てていいのかと驚くヴァンサンにミシェルは、「もう必要ないから、見たくないの」と言います。
孫と会えなくなり、寂しさを感じているミシェルに同情したヴァンサンは誰にも告げずにパリに向かい、ヴァレリーの家に向かいます。
アパートはオートロックになっており、鍵を知らないと中に入ることはできませんが、ヴァンサンは住人が出てきたところを狙って中に入ります。
ちょうどすれ違ったのは、ルカでした。そのままヴァンサンはヴァレリーの部屋の呼び鈴を鳴らします。
突然やってきたヴァンサンにヴァレリーは驚き、ミシェルの差金かと疑います。そんなヴァレリーにヴァンサンは、ミシェルに嫌がらせをするのをやめてほしいと言います。
ヴァレリーは、母親のしてきたことが許せない、そのせいで大変な目に遭ってきた、どうやっても許せないと言います。
話は平行線で、ヴァレリーはベランダで煙草を吸おうとします。そんなヴァレリーにヴァンサンは掴み掛かり取っ組み合いになった結果、ヴァレリーはベランダから落ちてしまいます。
ヴァンサンは、そのまま何事もなかったようにブルゴーニュの家に戻っていきます。その頃、ヴァンサンが来ないと不審がっていたミシェルの元に、ヴァレリーが亡くなったという知らせがきます。
映画『秋が来るとき』の感想と評価

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偏見と二面性
自然豊かなブルゴーニュで家庭菜園をしながら静かに暮らすミシェル。人生の終わりが近づき穏やかに暮らすミシェルと家族の物語が描かれると思いきや、キノコ中毒という思わぬ事件が起き、予想しないサスペンスフルな展開になっていきます。
ミシェルの過去について、何かあったことは想像できますが、それが何なのか観客にはなかなか明かされません。それ故になぜヴァレリーがそこまで嫌うのか、不思議に思う人もいるでしょう。
しかし、ミシェルがかつて娼婦であったこと、その仕事をヴァレリーが嫌い、どうしても許せないと言っていたことがわかります。どうでしょう、それを知ってヴァレリーの気持ちも当然だと思った人は多いのではないでしょうか。
それこそが偏見であり、ミシェル自身も、その娘であるヴァレリーも苦しめていた社会の息苦しさなのです。一方で、母親が同じ職業をしていたヴァンサンは親を恨むことなく、理解を示しています。
ヴァンサン自身が前科者であり、社会からはみ出された存在であることも関係しているのかもしれません。ヴァンサンが何をして捕まって刑務所に入ったのか映画の中で語られることはありません。
それでも、良かれと思ってヴァレリーを訪ねて行った結果、ヴァレリーが亡くなることに繋がってしまいます。
ミシェルは、ヴァンサンがヴァレリーのところに行ったかもしれない、ヴァレリーの死に関与しているかもしれないとどこかで感じ取っていますが、嘘をついてヴァンサンを庇うような言動をします。
そこにミシェルの二面性が表れています。老齢の女性は映画において、良きおばあちゃんであったり、良き隣人であったり、良き人生の先輩であったり……善人として描かれることが多いなか、フランソワ・オゾン監督は、様々な顔を持った複雑な人間として描き出します。
ミシェルは、わざとキノコを入れたのではないか、心の奥で孫を手に入れようと望んでいたのではないかと観客に思わせるようなシーンがいくつも描かれますが、決して明確な答えは映し出しません。
誰しも、心の奥で自分本位な悪い考えがよぎることはあるでしょう。それがどんな結果になるかまでは分からないこともあります。
ミシェルは本気でヴァレリーの死を望んでいたわけでも、ヴァレリーを殺そうと思ったわけでもないでしょう。しかし、このキノコは毒かもしれないと、どこかで思っていたかもしれません。
ヴァンサンに対しても自分にとって味方になる、助けてくれる存在だという打算のようなものはあったかもしれません。その見返りとして仕事を与えたり、開店資金を援助したりしたのかもしれません。
そのようなミシェルの確信犯的な側面は、娼婦の仕事をしていることで、社会的に立場が弱く攻撃ても生き延びるしかなかったミシェルの処世術なのかもしれません。
マリー=クロードも、ミシェルの言動に不審を抱きつつも突っ込んで聞いたり、口出しをしたりしなかったのは、生き延びるための彼女たちなりの暗黙の了解なのでしょう。
一方で、ミシェルの確信犯的で、打算的とも取れる行動は、まさに娼婦という職業についてまわる偏見とも通じる部分があります。偏見をあえて逆手に取り、生きる術、家族のための選択として描く姿勢は、フランソワ・オゾン監督の『私がやりました』(2023)にも繋がります。
『私がやりました』では、若い女性2人があえて強かに、若い女性であることで向けられる偏見を逆手に取って痛烈な裁判劇を繰り広げます。
同様に本作も善人として描かれることの多い、老齢の女性のいわば強か、打算的と思われるような側面を浮き彫りにすることで人間の二面性を打ち出しているのです。
映画で描かれるような善人ではない、白黒はっきりつけられない人間の複雑さをサスペンスフルかつユーモラスに描き出す見事さは、成熟したフランソワ・オゾン監督ならではの味わいと言えます。
まとめ

(C)2024 – FOZ – FRANCE 2 CINEMA – PLAYTIME
ブルゴーニュを舞台に人生の秋から冬を迎える老齢の女性を描く映画『秋が来るとき』。
善悪で判断できない人間の二面性を映し出していると言える本作において印象的なのは、ヴァレリーの存在です。ヴァレリーは亡くなり、物語上から離脱したかと思いきや、幻影という形で登場し続けるのです。
ヴァレリーの幻影は、ミシェル自身の罪悪感、贖罪の気持ちの表れと言えるでしょう。一方で、そうせざるを得なかった、私は家族のために選択したに過ぎないという姿勢も見受けられます。
贖罪と祈りというミシェルの信仰心は、そのまま秘密を抱える罪悪感と、生きるために仕方ないことと割り切り、家族のための平穏を祈る姿に繋がります。
熱心な信者とまではいかなくても、生きるために折り合いをつけるために祈りを必要とする人は少なくないのではないいでしょうか。それがカトリックが浸透している西洋では尚更です。
また、本作は監督自身の子供の頃の体験から着想を得たといい、実際に監督が子供の頃、親戚が食事会でキノコ料理を振る舞い、食べた人がキノコ中毒になるという経験があったといいます。
監督はキノコがあまり好きではなく、食べなかったので中毒にならずに済み、親戚の人も故意に毒のあるキノコを入れたわけではなかったそうです。
それでも、実は本当は皆を殺そうとしたのではないかと、子供の頃感じたことから、本作につながったと言います。
そのようなある意味、意地の悪い発想が、監督が描く一筋縄ではいかない登場人物の心情にも関係しているのかもしれません。


































