連載コラム『のび編集長の映画よりおむすびが食べたい』第8回
「Cinemarche」編集長の河合のびが、映画・ドラマ・アニメ・小説・漫画などジャンルを超えて「自身が気になる作品/ぜひ紹介したい作品」を考察・解説する連載コラム『のび編集長の映画よりおむすびが食べたい』。
第8回で考察・解説するのは、2022年4月1日(金)より全国ロードショー公開の映画『女子高生に殺されたい』です。
「女子高生に殺されたい」という欲望に取り憑かれ高校教師となった男が、「自分殺害計画」のために前代未聞の完全犯罪に挑むその顛末を描いた映画『女子高生に殺されたい』。
本記事では、本作にて田中圭が演じる主人公・東山春人の役どころ、そして彼が「女子高生に殺されたい」という欲望を抱くようになった原因である“愛の原風景”を考察・解説していきます。
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CONTENTS
映画『女子高生に殺されたい』の作品情報
【公開】
2022年(日本映画)
【原作】
古屋兎丸『女子高生に殺されたい』(新潮社バンチコミックス)
【監督・脚本】
城定秀夫
【キャスト】
田中圭、南沙良、河合優実、莉子、茅島みずき、細田佳央太、大島優子
【作品概要】
『ライチ☆光クラブ』『帝一の國』などで知られる漫画家・古屋兎丸による同名コミックを、『性の劇薬』『アルプススタンドのはしの方』の城定秀夫監督が映画化。城定監督自らが原作を大胆にアレンジした上で脚本を書き上げ、「女子高生に殺されたい」という欲望を抱える高校教師が企てた「自分殺害計画」の顛末を描く。
主人公・東山春人を演じるのは『スマホを落としただけなのに』『劇場版 おっさんずラブ』『哀愁しんでれら』『あなたの番です 劇場版』の田中圭。
春人が計画に組み込んだ生徒たちを『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』南沙良、『ちょっと思い出しただけ』河合優実、『牛首村』莉子『青くて痛くて脆い』茅島みずきを演じるほか、春人の過去を知る元恋人・五月役で『生きちゃった』の大島優子が共演。
映画『女子高生に殺されたい』のあらすじ
女子高生に殺されたいがために高校教師になった男・東山春人(田中圭)。
人気教師として日常を送りながらも“理想的な殺され方”の実現のため、9年間も密かに綿密に、“これしかない完璧な計画”を練ってきた。
彼の理想の条件は二つ「完全犯罪であること」「全力で殺されること」。
条件を満たす唯一無二の女子高生を標的に、練り上げたシナリオに沿って、真帆(南沙良)、あおい(河合優実)、京子(莉子)、愛佳(茅島みずき)というタイプの異なる4人にアプローチしていく……。
映画『女子高生に殺されたい』の感想と評価
田中圭は「道を逸れた愛」に支配された者を演じる
『哀愁しんでれら』(2021)にて、外見・財力・社会的地位・性格全てが「王子様」そのものな人物ながらも、自己・他者への歪んだ愛情を秘め続ける夫・大悟役を演じたのも、ファンの中ではまだまだ記憶に新しい田中圭。
彼が映画『女子高生に殺されたい』で演じたのは、美しい外見のみならず、気さくさと誠実さもあわせ持つ、絵に描いたような理想の教師・東山春人。しかしその裏では、パラフィリア(性嗜好異常、性的嗜好障害)の一つである「オートアサシノフィリア(自己暗殺性愛)」に苦しみ、9年もの年月をかけて「女子高生に殺される」という欲望の実現に尽くしてきた男でもあります。
「自分が殺されることに興奮を覚える嗜好」「自殺願望や自傷行為とは別物」……オートアサシノフィリアは、自殺/自主行為も含めて「自己の死」に興奮を覚える「タナトフィリア(死性愛)」並みかそれ以上に“欲望の充足=自己の死”というジレンマが常に直面します。そのため「自分はオートアサシノフィリアを抱えている」と捉えている人間の多くも、“妄想”の段階でその欲望の充足を留めています。
「そのパラフィリアを抱える者が、自身の性的嗜好によって精神的な葛藤や苦痛を感じ、健康な生活を送ること自体が困難」「本人のみならず、周囲の人々や交際相手、その社会集団が送る生活に問題を発生させ、反社会的な行動を抑えられない」の二つに条件が満たされて初めて診断されるパラフィリア。
しかし映画『女子高生に殺されたい』の主人公・春人は、“妄想”という段階からさらに足を踏み入れ、“欲望の実現”という新たな段階へと上がってしまった男。
「女子高生に殺される」という欲望の実現のカギとなる“ある少女”との出会いによって、それまでの進路を全て捨てて高校教師となり、自身の殺害という物語の「登場人物」である周囲の人々の心を操ることも手段として選ぶその躊躇のなさは、「道を逸れた愛(Paraphilia)」に支配されてしまった人間の盲目的な人生を描き出しています。
東山春人はなぜ「少女」に殺されなくてはならないのか
映画作中では「そもそも、なぜ春人は『女子高生』に殺されたいと欲するようになったのか?」という観客の誰もが抱く問いの答えにあたる、春人にとっての“愛の原風景”も描かれていきます。
「16歳はまだ早い」「18歳はもう大人」「少女でいられる最後の季節」「17歳が女子高生として一番輝いている時だから」……作中で綴られる春人の言葉からは、彼の心中において女子高生が「自分を確実に殺してくれる力を要し、同時に“少女”でもある存在」であることが分かります。
ではなぜ、東山春人は“少女”に殺されなくてはならないのか。
春人は映画序盤にて、無条件で自分へ愛を与えてくれるはずの存在に「愛されていない」と実感させられた過去、あまつさえ殺されそうになった過去を語ります。
春人にとっての愛の原風景でもあるそれらの過去の記憶は、春人が“自分に愛を与えてくれない存在とは真逆の性質を持つ存在=自分に愛を与えてくれる存在”として“少女”を認識するようになったことを暗示しています。
そして同時に、死に損なったことでのちに「愛されていない」と実感してしまった、自身の愛への渇望に浸された人生から脱するためにも、自分に愛を与えてくれる存在である少女からの“生とは真逆の事象=死”という贈り物……「自分は他者から愛されている」という証明を欲していることも描き出しているのです。
では、春人にとっての“自分に愛を与えてくれない存在”とは?
それは、オートアサシノフィリアを抱える者の世界というという多くの人々にとっての“特殊”な世界からは程遠い、多くの人々にとっての“普遍”な存在なのです。
まとめ/「欲望」という名からは逃れられないのか
パラフィリアという“道を逸れた”性的嗜好が求めるものは、大抵の人間が思い描く性欲と同様に「自己の快楽」に他なりません。それは「誰かに殺されること」に性的興奮を抱くオートアサシノフィリアも例外ではありません。
映画『女子高生に殺されたい』の主人公・東山春人は、オートアサシノフィリアが持つ“欲望の充足=自己の死”というジレンマと真正面から向き合った上で、欲望を充足させるための自己の殺害を“天命”のように認識。人生という名の物語を自身の満足いく形で完結させようと突き進みます。
そして“自身に死を与える者”である少女を、殺人が違法である現代日本の法律から守るためにも「自己の殺害」を完全犯罪として成し遂げようとするのです。
そうした春人のオートアサシノフィリアを抱えることになった自身の人生への誠実さとその美学には、時には清々しささえ感じられます。しかしここで忘れてはならないのは、たとえどのような欲望の形態であっても、程度に違いはあれど「自己の快楽」という欲望の根幹からは逃れられないという点です。
どれだけ他者を尊重しようとも、どれだけ綺麗ごとを並べようとも、それが欲望である以上は「自己の快楽」という目的を無視することはできない……春人自身もある程度はその自覚を持っているものの、それでも彼は自らの欲望を“美学”へ、そして“天命”に言い換えてしまっています。
春人は果たして、自らの欲望の充足を“天命”として全うするのか。それとも、「自己の快楽」という欲望の根幹に囚われてその天命を破綻させてしまうのか。その姿は、日々欲望なくしては生きられない全ての人間に突き刺さるはずです。
次回の『のび編集長の映画よりおむすびが食べたい』も、ぜひ読んでいただけますと幸いです。
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編集長:河合のびプロフィール
1995年生まれ、静岡県出身の詩人。
2019年に日本映画大学・理論コースを卒業後、2020年6月に映画情報Webサイト「Cinemarche」編集長へ就任。主にレビュー記事を執筆する一方で、草彅剛など多数の映画人へのインタビューも手がける。