《誰かの不幸の上に、誰かの幸せは成り立っている》
古川琴音主演の不条理ホラー映画!
「第1回日本ホラー映画大賞」で大賞を受賞した下津優太監督が、受賞した短編をもとに長編映画化した商業映画デビュー作『みなに幸あれ』。
『偶然と想像』(2021)『十二人の死にたい子どもたち』(2019)の古川琴音が主演を務めます。
『犬鳴村』(2020)などの村シリーズ、Jホラーの金字塔『呪怨』(2003)など多くのホラー映画を手がけてきた清水崇は総合プロデュースを手がけ、『ミンナのウタ』(2023)の角田ルミが脚本を担当しました。
東京で看護の学校に通う“孫”は、久しぶりに祖父母のいる田舎へ。過ごしているうちに孫は、祖父母や近隣住人の言動に違和感を覚え始め、家の中に何か物音がすることに気づいていきます。
この家には“何か”いる……孫だけが知らないこの世界の仕組みとは?ネタバレ有りあらすじとともに、映画を考察していきます。
映画『みなに幸あれ』の作品情報
【公開】
2024年(日本映画)
【監督】
下津優太
【原案】
下津優太
【脚本】
角田ルミ
【総合プロデュース】
清水崇
【キャスト】
古川琴音、松大航也、犬山良子、西田優史、吉村志保、橋本和雄、野瀬恵子、有福正志
【作品概要】
監督を務めた下津優太は、CMやMVの企画・監督など手がける中で「第1回日本ホラー映画大賞」で大賞を受賞。そして受賞した短編作品を基に長編映画化したのが『みなに幸あれ』であり、本作が初商業映画となりました。
主演は『偶然と想像』(2021)『十二人の死にたい子どもたち』(2019)の古川琴音。本作が初のホラー映画出演となりました。また主人公の幼馴染役を『20歳のソウル』(2022)の松大航也が演じています。
映画『みなに幸あれ』のあらすじとネタバレ
東京で看護の学校に通う“孫”は両親と弟とともに祖父母のところに行く予定でしたが、熱を出したということで孫が1人で行くことになります。
子供の頃、祖父母の家で聞いた不穏な音に対するトラウマを抱えていた孫は1人で行くことに難色を示していましたが、仕方なく行くことにしました。
田舎に着くと祖父母は温かく迎え入れます。「東京には慣れた?」と孫の近況を質問し、祖母は突然「今は幸せ?」と聞きます。孫は戸惑いを感じながらも「幸せだよ」と返します。
孫は祖父母と近隣住民に対し言いようのない異変を感じ、居心地の悪さを感じていました。それでも子供の頃の記憶が気になる孫は祖母に「2階の奥の部屋って使っているの?」と聞きます。
「人がいるのよ」と祖母が言い、孫はギョッとしたように「え?」と返しますが、祖母はすぐに笑って「冗談よ。荷物置きに使っているの。どうして?」と言います。孫はそれが冗談とは思えませんでした。
ある日、同級生に揶揄われている中学生に遭遇した孫は、手助けをします。そこに1台のトラックが通りかかり、孫に声をかけます。そこに載っていたのは、幼馴染でした。
父親が倒れ、父の代わりに農家を継ぎ米を作っている幼馴染は、孫に「なぜ看護の道に?」と聞きます。孫は「母親が看護師をしていて、自分も誰かを助けたいと思って」と答えます。
すると幼馴染は呟くように「俺を救ってよ」と言います。孫が驚いた顔をすると何でもなかったかのように「家まで送る」と言います。
孫が家に帰ると、祖父に「あいつとはもう会うな」と言われます。理由を聞こうとしても答えず会うなと言うだけ。孫は次第に祖父母は何かを隠していて、そのことを近隣住民も知っているのではと思うようになります。
そんな中、いつものように朝食を食べていると1人の男性が床を這いつくばっている姿を目にします。しかもその男性は、瞳と口を糸のようなもので縫い付けられています。
あまりの衝撃に声も出ずにいる孫の前に、祖父母は当たり前のように立ち上がり男性を引きずって2階の部屋へと連れていきます。孫はやっとの思いで「何をしているの」と叫びます。
「あなたもいずれわかる」という祖母の言うことが理解できず、孫は家を飛び出します。そこにまたしても幼馴染が通りかかります。孫は幼馴染に話そうとしますが、助手席に幼馴染の父親がいるのを見て言うのをやめます。
そのまま幼馴染の家に行って柿を食べていると、幼馴染の父親が幼馴染が描いたという絵を見せます。「お前も東京に行って好きなことやっていいんだ」と言いますが、幼馴染は「誰もが夢を追えるわけじゃない」と話を終わりにします。
孫は戸惑いながらも、幼馴染に自分が見たものについて話します。「誰か他の人に話した?」と幼馴染は聞きます。「話していない」と孫が答えると「これから何が起こっても俺のことを信じてほしい」と言います。
映画『みなに幸あれ』の感想と評価
「誰かの不幸の上に、誰かの幸せは成り立っている」という世の中の不条理をもとに痛烈に描き出した本作は、人々が見ないふりをしてきたことを突きつけます。
映画終盤で主人公は、その事実を受け入れて幸せを享受する立場になります。主人公が選択をする様子を見て、自分ならどうするかと思わず考えてしまう作品です。
実際に誰かを犠牲にして自分が生き延びているかもしれないという罪悪感と、誰かが不幸であるから自分が幸せだと実感できるという“残酷さの両面を人間とは兼ね備えている”のではないでしょうか。
自分から見て不幸だと思う人は本当に不幸なのか、それは当人にしかわからないことです。しかし「幸せ」はどうでしょうか。人は何を持って「自分は幸せだ」と認識するのでしょうか。
本作では人々の「幸せ」を「生贄」という存在をもって描き出します。主人公の幼馴染は、自身の家には代々生贄がいないと語り、生贄がいないから自分は幸せになれない、やりたいことがあっても諦めなければならないと考えています。
そのような諦念は、孫が助けた中学生も抱いているものでした。「同級生からいじめられるのは仕方ない」と受け入れ、「大人も同じことをしている」という言葉も、家にいる生贄のことを指していたのではないでしょうか。
誰かが犠牲になる社会だから、犠牲となる側も諦めて受け入れている。それは「自分はそういう運命だ」と思い込んでいるからです。
映画だからこそシンプルにされた人間関係の縮図ですが、その構図が現代社会にも及ぶとしたら「生贄の存在を受け入れる者のみが、幸せを享受することができる」という、真に恐ろしい現実を見せつけてきます。
しかし、そのように極端に2分化されてしまいかねない危うさは、現代社会に全くないとは言い切れません。SNSが発展した現代社会は、他者の生活をSNSで垣間見ることができるようになり、様々な理想と現実の間で苦しむ若者が増えています。
幸せは尺度ではないということが忘れ去られたり、SNSによる承認欲求の充足で自身の価値の尺度を図かろうとしたり……世界の各地で起きている戦争や紛争の情報を目にするのも、SNSのツールを通して知ることも多いでしょう。
本作は都合のいい人間の心理と現代社会の混乱を反映させたホラー映画であるとともに、閉ざされた島国・日本に未だ蔓延し続ける閉鎖的な社会を活用した不条理ホラーでもあります。
『ミッド・サマー』(2019)が大きな話題となり、閉鎖的な村の儀式に巻き込まれ主人公1人が狂っているかのような息苦しさを感じる不条理ホラーも増えてきました。
本作もその系譜をたどりつつ、Jホラーらしさと新しさが融合したホラー映画に仕上がってます。気が狂いそうな主人公とは、裏腹に祖父母も両親も当たり前のように平然としている姿が不気味さを醸し出します。
同時に、どこかおかしみも感じるのも本作の魅力です。孫の空想で不思議な儀式やおかしなダンスが繰り広げられたり、車に引かれた男性の吹っ飛び方など随所にコミカルさも散りばめられているのです。
このような映画ならではのシュールさも本作の魅力の一つでしょう。
まとめ
祖父母のいる田舎に帰った孫を襲う恐怖を描いた映画『みなに幸あれ」は、幽霊の存在が出てきません。ジャンプスケアを使った恐怖ではなく、じんわりと背筋が寒くなるような怖さを醸し出します。
それは一見普通に見える人々の言動に感じる“何かがおかしい”という感覚です。得体の知れない恐怖は人間の本能的な恐怖を呼び覚ますのです。
幽霊がいるのか、いないのか、主人公とともに観客に考えさせる『N号棟』(2022)も今までにないホラー映画でしたが、本作も今までの日本映画が得意としてきたJホラー映画とは、また違った恐怖に誘うホラー映画になっているのです。
Jホラー映画らしい、じんわりとした恐怖も有りつつ、どこかシュールで日常の延長にあるような“じんわりとした怖さ”は、新たなJホラー映画の流行の波を作っていくのかも知れません。