中世の社会を舞台に、純朴なアシタカの視点で描く自然と人間、ともに生きる道
宮崎駿監督が日本の中世の日本を舞台にタタリ神によって呪いをうけた青年アシタカと山犬に育てられたサンを中心に人間と自然の争いとともに生きることを描いたアニメーション。
映画『もののけ姫』は、宮崎駿監督が『耳をすませば』(1995)の次に手がけた映画です。
これまでのエンターテイメントの強い作風とは異なり、人間と自然との関わりや中世における自然への崇拝から合理主義へと変わっていく様など様々な問題を散りばめた映画となりました。
カウンターテナーの米良美一が主題歌『もののけ姫』を歌いました。
映画『もののけ姫』の作品情報
【公開】
1997年(日本映画)
【監督・脚本】
宮崎駿
【音楽】
久石譲
【主題歌】
米良美一
【声のキャスト】
アシタカ/(松田洋治)、サン(石田ゆり子)、エボシ御前(田中裕子)、ジコ坊/(小林薫)、甲六(西村雅彦)、ゴンザ(上條恒彦)、モロの君(美輪明宏)/ヒイさま(森光子)、乙事主(森繁久彌)
【作品概要】
『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994)のおキヨの石田ゆり子がサン、『紅の豚』(1992)のマンマユート団のボスの上條恒彦がゴンザ、『風の谷のナウシカ』(1984)のアスベルの松田洋治がアシタカと過去の作品に出演した人々が声を務めています。
また、エボシ御前役の田中裕子は『ゲド戦記』(2006)でクモの声も演じています。
映画『もののけ姫』あらすじとネタバレ
エミシの村に住む青年アシタカ。
ある日、その村にタタリ神が襲来します。その正体は人間によって鉛の玉をうけ負傷した猪神でした。村にタタリ神が襲来するのを防ぐため退治したアシタカは腕に呪いをうけてしまいます。
ヒイ様の進言により、猪神がやってきた西の国で何が起こっているのか見定めるため、相棒のヤックルと村を旅立ちます。
道中でジコ坊という謎の男に出会ったアシタカは猪神の体から出てきた鉛の玉を知らないかと尋ねます。するとジコ坊はシシ神の棲む森の話をします。その森では、動物たちは大きく、太古の姿のままであると言います。
ジコ坊から聞いた森へ向かう途中アシタカは川で倒れている男らを見つけます。そして対岸に山犬と娘を見かけます。
「我が名はアシタカ。東の果てよりこの地にやってきた。そなたらはシシ神の森に棲むという古い神か」とアシタカは尋ねますが、答えず娘は一言「去れ」と言い、立ち去ってしまいます。
シシ神の森でアシタカはコダマという森の精を見かけます。コダマに導かれ森を通り抜けるアシタカは泉でシシ神の姿を見かけます。その後、アシタカら一行は、タタラ場と呼ばれる村にたどり着きます。
タタラ場では、エボシという女性のリーダの指示のもと、砂鉄を溶かして鉄を作っていると言います。客人として迎え入れられたアシタカは男たちと食事をする中で、猪神の話を聞きます。
タタラ場では、山を切り崩し、砂鉄を採掘するため山の神の怒りに触れてしまいます。しかし、掟も何も関係ないエボシがここら辺一体の山の神であったナゴの神という猪神を鉄砲でやっつけたというのです。
エボシと対面したアシタカは、腕の呪いの傷と鉛のつぶてを見せます。そして、曇りなき眼で見定めると言うとエボシは笑います。
私の秘密を見せようと、アシタカを自身の庭に案内します。そこには業病の患者が石火矢を作っていました。女性でも持てるように重さを調節していると言います。
「あなたは山の神の森を奪い、タタリ神にしても飽き足らずその石火矢で更に新たな恨みや呪いを生み出そうというのか」とアシタカは怒りエボシに言います。
「そなたも気の毒だった。呪うなら私を呪えば良いものを」とエボシは言います。
呪いをうけたアシタカの右腕はエボシを殺そうとしますが、アシタカは必死に抑えます。そんなアシタカに業病の長が、「そなたの怒りや悲しみはよくわかる。けれど、その人を殺さないでほしい。この人は私らを人として扱ってくれたたった一人の人だ」と言います。
更にアシタカはエボシからもののけ姫と呼ばれる少女・サンの話を聞きます。山犬に心を奪われた哀れな娘で、エボシを殺そうと躍起になっている、と言います。
その夜タタラ場にもののけ姫が襲来し、エボシと対決します。アシタカは2人の間に入り、戦いを止めます。アシタカの腕には呪いの証が現れています。
これ以上恨みを増やしてはいけないとアシタカはとき、サンを抱えてタタラ場を出ていこうとしますが、石火矢の弾をうけてしまいます。
傷を負ったアシタカはヤックルの背から落ち、気がついたサンはなぜ邪魔をしたとアシタカを殺そうとします。しかしアシタカは、刃向けられてもなおサンに「生きろ、そなたは美しい」と言います。
映画『もののけ姫』感想と評価
封建社会からの女性の解放と合理主義
女性でありながらリーダーとしてタタラ場をまとめ上げているエボシは、売りに出されている娘を見てはタタラ場に連れてきます。
武家社会において、女性の地位は低く、家長を支え、家長の言いなりとなるべき存在でした。しかし、エボシはそんな女性をタタラ場で働かせ、自ら生き、闘う術を与えることで封建社会の中で生きる女性を解放していると言えます。
また、エボシの庭で働く業病の人々はハンセン病患者であると考えられています。そのような業病を患者に対しても一人の人間として接し、仕事を与えています。
明国から伝わった石火矢を改良し、女性でも持てるように軽くしようとしている場面からもエボシが女性が自らの身を守れるようにしようとする姿勢が伺えます。
“神殺し”という禁忌を行ったエボシですが、彼女の目的はタタラ場のために更に砂鉄を採掘するため、そして鉄を生成し武器を製造することでタタラ場を外敵から守るためなのです。
シシ神の命を癒すという力を持って業病の人々の病を治したいとも考えており、エボシ自身の私利私欲のためではありません。
一方の石火矢衆はシシ神の不老不死の力を求め、目的のために平気でタタラ場の人々を囮にし吹き飛ばすような非業さもあり、奴らは信用できず自分達の身は自分で守るしかないとエボシは考えています。
自衛にこだわるエボシの考えの背景は自身の体験からくる男性に対する恨みなどがあるのかもしれません。
また、エボシ自身の考えをしっかりと描くことでエボシという登場人物が必ずしも悪ではないという側面も浮き彫りにしていくのです。
近代以降人々は都市開発や産業の発展のため自然を破壊し続けてきました。その行為とエボシの行為に違いはあるでしょうか。
更に古代日本は八百万の神を信じ、自然災害の際は自然の神に祈りを捧げ怒りを鎮めてもらおうとし、豊作の際は神に感謝を捧げていました。そのように古代の人々には自然を崇拝する精神が宿っていました。
しかし、エボシにはそのような考えがなく、古くからの掟や山々の神を崇拝する精神はありません。非常に合理的に考える人物であり、そのような意味でエボシは現代的な価値観を持った人物であるとも言えます。
ともに生きるということ
アシタカが生まれ育った東と北の間にあるというエミシの村は、ヤマトとの戦いに敗れ500年余り身を隠して生活してきたとヒイさまらが言っています。ヤマトとは大和朝廷のことであり、蝦夷征伐などの戦いのことを指していると考えられます。
中世の武家社会との関わりを避けてきたエミシの村では銭を使わず、狩猟を主とする生活をしており、古代から変わらない生活を続けてきた一族です。シシ神の森でコダマを見たときにここにもいるのかと発言していることから故郷の森にもコダマがいたと推測できます。
ヒイ様は占いを行い、タタリ神となってしまった神に対する態度からも自然を敬いともに生きている姿勢が見受けられます。
そのように古代的な価値観を持ち、私利私欲を知らない“曇りなき眼”を持ったアシタカは西へと赴き、その目で今の社会で何が起きているのか見定め、答えを見つけようとしています。
山犬との争いを避けるため差し出され、山犬の娘として育ったサンにとって人間は敵であり、憎むべき存在でした。また山犬はシシガミの森とともにあり、森が滅びるときは己も滅びるときだという覚悟を持っています。
そんなサンに対しアシタカは憎しみを捨てただ生きろと言います。
ともに生きる道はあるはずだと、サンにもエボシにも訴え続けますが両者は聞く耳を持たず、争いを避けることはできませんでした。
しかしアシタカは絶望せず、憎しみではなくともに生きることを訴え続けます。シシ神の首をとったエボシに対しても迷うことなく救おうとします。
ただ生きろと訴えるアシタカの思いをうけサンもシシ神のいなくなった森で生きることを決意します。
まとめ
アシタカの目を通して自然と人間の対立、ともに生きることを描いた映画『もののけ姫』。
ともに生きることの難しさ、憎しみの連鎖など、どのように生きるべきかを問いかける本作のメッセージは時代をこえ人々の心に突き刺さります。
また、『風の谷のナウシカ』(1984)においても腐海ともに生きる風の谷の人々や、腐海を破壊しコントロールしようとする人々を通して、破壊ではなく自然とともに生きていくことを描いていました。
高畑勲監督作である『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994)においてもニュータウン化が進み、破壊される自然と棲家を奪われていくたぬきらの対立を描いていました。
ともに生きることはスタジオジブリの様々な作品で描かれ続けているテーマでもあると言えるでしょう。