共感できない人物を魅力的に撮った映画『TAR/ター』
国際的に評価の高い演技派ケイト・ブランシェットが孤高のマエストロを演じた『TAR/ター』。今回アカデミー主演女優賞は逃したものの、ヴェネチア国際映画祭のポルピ杯(最優秀女優賞)とゴールデングローブ賞での最優秀主演女優賞(ドラマ)を獲得しています。
監督は俳優として『アイズ・ワイド・シャット』(1999)にも出演しているトッド・フィールド。監督としては『イン・ザ・ベッドルーム』(2001)や『リトル・チルドレン』(2006)でアカデミー脚色賞などにノミネートされたことがあり、今回の『TAR/ター』では作品、監督、脚本ほか計6部門でノミネートされました。
CONTENTS
映画『TAR/ター』の作品情報
【日本公開】
2023年(アメリカ映画)
【監督・脚本】
トッド・フィールド
【キャスト】
ケイト・ブランシェット、ノエミ・メルラン、ニーナ・ホス、ソフィー・カウアー、アラン・コーデュナー、ジュリアン・グローヴァー、マーク・ストロングほか
【作品概要】
トッド・フィールド監督がケイト・ブランシェットを想定して脚本を書いたというこの『TAR/ター』。出演を快諾したという彼女はドイツ語とアメリカ英語をマスターし、ピアノと指揮を本格的に学んですべての演奏シーンを自身で演じているそうです。また劇中の運転シーンもスタントなしだとか。
パートナーのシャロン役はドイツの実力派俳優ニーナ・ホス。ターの助手を務めるフランチェスカに『燃ゆる女の肖像』(2020)『パリ13区』(2021)のノエミ・メルラン。そしてターを翻弄するチェロ奏者、オルガには実際にチェリストであるソフィー・カウアーがオーディションで抜擢されました。
物語は、それぞれ優秀で個性的なアーティストである彼らが様々な感情や思惑でリディア・ターに接し、彼女の心をかき乱し、その未来を動かしていきます。
映画『TAR/ター』のあらすじとネタバレ
アメリカで成功した指揮者リディア・ターはいまやベルリン・フィルの首席指揮者として世界の音楽界を牽引しています。作曲家としても名高い彼女は民族音楽にも造詣が深く、アマゾンのシピボ族の歌を研究していたこともありました。
いまは、ベルリン・フィルで唯一未録音だったマーラーの交響曲第5番のライブ録音に向け準備に余念がないリディア。有名編集者とのトークショー終了後、女性ファンに対応していると助手のフランチェスカが時間がないことを告げ、次の予定に向かいます。
それは投資銀行家エリオット・カプランとの会食でした。彼はリディアが若手女性音楽家育成のため立ち上げたアコーディオン財団を支援している人物です。リディアはそのプロジェクトの参加学生とのトラブルを抱えていますが、今はマーラーの方が問題です。大きな会場を用意したカプランに対しリディアは、サクラを雇ってほしいと冗談ぽく弱音を吐くのでした。
リディアはジュリアード音楽院でも指導するようになり、ここでは男女問わず優秀な学生を受け入れています。ある日指導したマックスというアフリカ系の青年は、緊張のためか足を揺するクセがあり、リディアを苛立たせます。
パンジェンダーだという彼は女性に対し差別的だったといわれるバッハに抵抗があると言いますが、リディアはそういうことで判断しないようにと彼を否定します。いたたまれなくなった彼は、捨て台詞を吐いてその場から立ち去ってしまいました。
ベルリンに戻る日、タクシーの中でフランチェスカは、トラブルになっているクリスタからメールが来たことを伝えます。切迫したその内容に、フランチェスカは危機感をおぼえていますが、リディアは返信せず無視するよう指示します。
自宅に戻ったリディアは、薬が見つからず情緒不安定になっているパートナーのシャロンをなだめ、音楽をかけて抱きしめます。シャロンは娘のペトラが学校で移民いじめにあっているのではないかと心配しており、翌朝リディアはペトラを学校に送りながらそのことについて聞き出します。
そしていじめている子にドイツ語で話しかけ、今度いじめたら容赦しない、誰かに話しても皆大人の私の方を信じるからムダだと脅して去っていくのでした。
オーケストラに生じた欠員を補充するオーディションの日、リディアはここで一番の権力者である自分に見向きもしない若い女性がいることに驚きます。
そして誰が演奏しているかわからないつい立の向こうでチェロを弾いているのが、さっきの女性だと靴音で気づいたリディアは、演奏がよかったこともあり、彼女、オルガを合格させます。
その後、恩師のアンドリスと会食したリディアは新曲の作曲がうまくいっていないと話しますが、彼はリディアの書いた本を読んだよと笑います。
リディアは仕事用に借りているアパートで作曲の作業をしますが、隣の部屋の呼び鈴の音が気になって集中できません。気分転換に外でランニングをするリディア。
リハーサルではオーケストラのメンバーをドイツ語でほめたり、コンサートマスターでもあるパートナーのシャロンの協力で皆に要望を伝えたり、と順調に準備を進めているものの、副指揮者であるセバスチャンのアドバイスは的外れでリディアは困惑します。リディアは以前から考えていた通り、セバスチャンをやめさせるべく根回しを始めます。
そんなある日、仕事場であるアパートにやってきたフランチェスカの様子が変です。「抱きしめてほしい」と涙を流す彼女にわけを聞くと、どうやらクリスタが自死を選んだとのこと。
以前3人で旅行に行ったときは楽しかったが、その後クリスタは情緒不安定になり無理な要求をするようになった。教え子として推薦することができなくなり、こういう結果になってしまったことは残念だが止めることはできなかった。だから忘れよう、とリディアはなぐさめ、彼女とのメールのやりとりを削除し、フランチェスカにもそう指示しました。
自宅に戻ったリディアにシャロンが、新しく加入したオルガについて苦言を呈しますが、薬を飲み忘れていることを指摘されはぐらかされてしまいます。
その日の深夜、規則的な音が気になり眠れないリディアが音源を探すと、書斎の戸棚でメトロノームが動いていました。翌朝、ペトラに書斎へ入ったかとたずねますが、入っていないと否定されてしまいます。
リディアはセバスチャンの部屋を訪れ、ベルリンフィルをやめて他の楽団に行くよう話します。突然のことに動揺した彼は、若い助手が来たときから覚悟はしていた、皆がリディアとフランチェスカのことを噂していると話し、リディアを怒らせてしまいます。
クリスタの件が気になっていたリディアは、フランチェスカにパソコンを借りて彼女に用事を言いつけて席を外させ、勝手にメールをチェックします。案の定、彼女はクリスタとのメールを削除していませんでした。
その後、セバスチャンの退団をフランチェスカに知らせたリディアは後任の人事に含みを持たせつつ、クリスタのメールを削除したかどうか尋ねます。フランチェスカは、あいまいな返事しかしませんでした。
ベルリンフィルでは新入りが指揮者とランチを食べるという慣習があり、リディアはオルガとのランチにやってきました。敬語も使わず、奔放に自分の好みを語るオルガにリディアは興味津々。彼女は動画サイトをよく利用すると言って紹介し、帰宅したリディアは早速それをチェックするのでした。
翌日、リハーサルのあとリディアは演奏会で披露するもう一曲をエルガーのチェロ協奏曲に決めたと発表します。それはオルガが得意としている曲でした。
ソロ奏者は楽団員から選ぶと言って皆は喜びますが、なぜか楽団の第一奏者を指名せず、次の月曜日にオーディションをすると宣言します。
重要な物事は民主的に投票で決めてきたベルリンフィルですが、リディアはセバスチャンの退団などを独断で決めるようになっており、楽団員たちの間に困惑の表情が広がります。
そんな中、クリスタの件で財団に告発状が届いたとの連絡が入り、リディアは弁護士に連絡しなければならない事態に陥ります。
映画『TAR/ター』の感想と評価
序盤の冗長な展開の意図
この映画、冒頭の構成から驚かされます。プライベートジェット内で疲れ切って眠る主人公リディア・ターの姿を盗み撮りしたような動画。
そしてそこに被さってくる不穏なメッセージのやりとり。彼女に何が起こるのかを予感させる幕開けに続くのは、シピボ族というアマゾンに住む民族のシャーマンの歌です。
そこには映画の終わりにあるのが普通であるクレジットが延々と流れ、注意深く見ていると展開のヒントになる文字を見つけることができます。
ようやくそのクレジットが終わると孤高の芸術家らしい神経質そうなリディアの顔が映り、これまた長めの説明をする「ニューヨーカー」誌編集者に紹介され公開インタビューのステージへと彼女が登壇します。そしてそこからさらに(何の苦行か?)と思わせるほど長い時間、ふたりの音楽的なやりとりが行われます。
クラシックや音楽に詳しくないと興味が湧かない会話が続き、とりあえず彼女の功績や女性だから苦労した…といったステレオタイプの女性アーティストではなさそうだということなどを観客は理解します。
その後も彼女を支援する投資家の男性や、師匠と食事をするシーンがあり、長い会話を通じて状況や彼女の人となりを把握させるつくりになっています。
この必要以上かとも思われる長いシーンの意図に気づくのは映画の後半になるのですが、序盤での山場は、ジュリアード音楽院での授業風景です。
レズビアンであることを公言しているリディアは世間の人々や私たち観客にとってジェンダーヴァイアスのない存在といえます。(インタビューでもそう発言しています)しかしクラシック音楽界という、ある意味超男性優位社会でのし上がってきた彼女は本当にそうなのでしょうか。
この授業シーンで彼女に対峙するのはアフリカ系の青年でパンジェンダーという設定です。リディアが評価していない女性作曲家の作品を推す彼に、彼女はバッハを学べと命じます。
バッハは女性に対して差別的だからと嫌悪感をあらわにする青年に対し、それと彼の素晴らしい作品とは別問題だといわんばかりに自分の考えを押し付けるリディア。
おそらく彼女に期待してそこに来たであろう青年は「クソ女!」と言って退席してしまいます。この一連の長いやりとりが映画の後半で、リディアを更なる窮地に追い込む悪意ある切り取り方でSNS上に拡散していきます。
本人の意図に反して、短くまとめられたその動画は彼女の信用を奪うのに効果的でした。そして映画前半で作品の中で君臨していたリディアの生き方、そのリズムを崩す演出として一役買っています。
キャンセルカルチャーへの一石
匿名の見えない集団による糾弾、攻撃は現実でもたびたび問題になります。行き過ぎたキャンセルカルチャーの被害者の立場で考えると、自身の発言が意図しない方向で取り上げられるのは歯がゆく悔しいことでしょう。しかしリディアの場合、そもそも何故そのような事態に陥ってしまったのか?
その原因については〝自業自得〟だと言わざるを得ません。
ではこの一連の糾弾はどのようにして起こり、それを通して監督は何を言いたかったのでしょうか。
クリスタ
リディアのハラスメント被害者で自殺した元プログラム参加学生。彼女の存在はほぼ言葉でしか表されず、序盤で映り込むストーカーのような女性がその人なのだろうとだけ推測されます。観客には、そして映画の中の一般の人々にはメールや会話の内容でしか何が起こったのか知るすべがありません。真相は藪の中だからこそリディアはメールの削除にこだわります。
リディアが実際クリスタに何をしてどう接したのか、意図的に映画はそれを見せません。被害者の苦しむ姿も、リディアが罪を自覚して反省する姿もないので私たち観客はそれを推測して判断するしかないのです。最初これはフラッシュバックを防ぐため配慮された演出なのだと思っていましたが、観終わった後どうやらこれは違うぞ、と思い至りました。当事者ではない者が少ない情報で推測するということこそが、現代のSNSなどの世界で私たちが加担していることなのだと監督は言いたかったのだと思います。
フランチェスカ
リディアの弟子として、そして優秀な助手として仕事もプライベートも把握していたフランチェスカ。劇中の表現で彼女とリディアの間に性的な関係はないといわれていますがその間柄はきわめてグレー。実際オーケストラのメンバーたちは疑っていました。フランチェスカはリディアを尊敬し、彼女の力を利用して成功を手にしようとしていましたし、リディアは彼女の好意とも野心とも取れる微妙な心理を巧みに利用して支配していました。
ただリディアのやり方に納得できない部分もあった彼女は、最も当事者に近いからこそ悩んでいました。そして裏切られたとわかった瞬間に行動を起こし、リディアから離れ彼女を糾弾する立場へと転向したのです。ハラスメント上司の元から逃げ出し被害者救済のために立ち上がったフランチェスカは正義感の強い人物だと言えますが、作品から彼女の存在は消え、証拠のメールだけがリディアを攻撃し続ける展開はきわめて今日的なものだといえるでしょう。
オルガ
運命の女、ファムファタルとしてリディアの前に現れたオルガ。映画の冒頭、眠るリディアとそれを盗撮した動画とメッセージ。リディアがオルガを連れてニューヨークに着いたところで観客はファーストシーンの意味を理解することになります。
映画はそれ以上何も明らかにしてくれませんが、オルガはリディアを失脚させようとする者(リディアを告発したクリスタ側の関係者)が送り込んだ刺客に違いありません。ベルリンフィルのソロを張れる実力で、しかもリディアをメロメロにしてしまう魅力の持ち主という逸材がいたということについては都合の良い展開だと思わざるを得ない部分もありますが、彼女の存在がこの映画の最も重要な要素になっていることに間違いはありません。
リディア・ターの罪と罰
脚本を書いたトッド・フィールド監督は、この作品はケイト・ブランシェットを想定して書いたと公言しています。作品内でのブランシェットの演技は凄まじく、嫌な人物でありながら魅力的です。
ではどうして少しも共感できないのか。ブランシェットの好演・怪演がカタルシスにつながらない理由を考えてみました。
何故リディア・ターに人物として魅力を感じないのか? それは彼女がミソジニー男性だからです。
当初、映画会社はこの映画のプロットを男性主人公で監督に依頼したそうです。傲慢な権力者である男性指揮者が自ら撒いたスキャンダルの種によって糾弾され落ちぶれていく物語。利用され、搾取され、捨てられた女性たちの恨みが形となって男を追い詰めていくというのはよくある話に思えます。
その主人公を女性でしかもレズビアン設定にすることは2020年代の作品らしく、さらにケイト・ブランシェットもノエミ・メルランも、クィア映画での実績がありそのイメージが強い俳優です。同性婚をして移民の養女を育てている夫婦。現代を象徴するようなリベラルな女性の話かと思いきや、リディア・ターの中身は男性そのものなのです。
若い女を集め自分が支配しやすいような財団を作り、そこから好みの女性をピックアップする。パートナーのシャロンにはほぼ子育てを任せきり、普段は別宅で過ごし都合の良いときだけパパとして子どもを甘やかす。そして思い通りに楽団を支配し、人間関係の細かいケアはシャロン任せ。好みの愛人(候補)に要職を与え出張にも連れていくが、逆に奔放な彼女に振り回されてしまう…
いくら仕事や環境に追い詰められ、聴覚過敏になり、次第におかしな行動をするようになっても、彼女に感情移入することはできません。
ラストの意味するものとは?
この映画のラストを希望とみるか絶望ととるか、そこで評価はガラッと変わってくると思います。
直感的に、再出発にアジアの国が選ばれたこと、そしてそれが人気のゲーム音楽の指揮だったことに不満というか、作り手側の〝上から目線〟を感じてしまいます。ただしこれは個人の属性に起因することだと思うので、他の意見も知りたいところではあります。
ただ、新天地で真摯に仕事に向き合い、自然の中で自己を見つめなおすような描写があったのは、リディアが変わろうとしていることを表現していると感じられたので、「希望」的なラストだったのだと思います。
(ちなみにゲーム「モンスターハンター」に詳しければ、もっと違った視点で見られたのでしょうか。この扱いをどう感じたか、ゲーム好きの方に聞いてみたいです)
一点引っかかったのは、マッサージ・パーラーのシーン。なぜリディアがあの店を案内されたのかも謎ですし、あそこで拒否反応を示したリディアの行動は疑問に感じます。つまり、権力勾配を利用して若い女性を性的に搾取してきた(と思われる)リディアはそのことに対して無自覚で、直接的に金で女性を買う現場に来て初めてそのおぞましさを理解した、というのでしょうか。搾取される側からはどちらも同じことなのに、それに気づいていないとは強烈な皮肉に感じます。
まとめ
この映画は人種や国、貧富、ジェンダー、性的指向、権力勾配によるハラスメントなど、様々な現代的問題点をあちこちに散りばめ、そしてそれに対する解釈をすべてを観る者に委ねる作品です。
情報はあえて明らかにされないよう制御され、前半はこちらを煙に巻くような長回しでのセリフの応酬、中盤以降はホラーテイストも感じさせる「音」が主役の展開。そして後半は畳みかけるようにリディアの新天地での異文化体験が描かれます。
本作『TAR/ター』が難解と言われ、賛否両論を引き起こす理由は、徹底的に理由や原因を明らかにしない手法にありそうです。
ただ、多くの人にこの映画を観ていただき、その感想を語り合いたくなる作品であることは事実です。いろいろな立場、考えの人とその解釈について情報交換したくなります。
「考えるきっかけとなる」こと。それこそがトッド・フィールド監督最大のテーマだったのかもしれません。