連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第56回
こんにちは、森田です。
今回は、2021年5月28日(金)よりシネマート新宿、シネマート心斎橋ほかにて公開されるドキュメンタリー映画『狂猿』を紹介いたします。
カリスマレスラー葛西純の「背中」とデスマッチ特有の「痛み」が、格差社会に苦しむ人々に対して、また、コロナ禍にあえぐ社会に対して与える「希望」をみていきます。
映画『狂猿』のあらすじ
本作は、“クレイジー・モンキー”の異名で国内外の人気を博すプロレスラー・葛西純の軌跡を追い、負傷による長期欠場からコロナ禍における復帰興行に挑んだ約1年間の闘いをたどりながら、過酷なリングもありのままに記録した日本初のデスマッチ・ドキュメンタリーです。
血塗られた試合や人気レスラーたちのインタビューをとおして浮かび上がるのは、葛西の際立つ個性、圧倒的なセンス、そして稀代のエンターテイナーとしての魅力です。
そのすべてが“傷だらけの背中”に刻まれており、葛西の生き様からリング外にも伝わってくる普遍的なメッセージを受け取るには、文字どおり背中が語りかけるもの、すなわち「痛み」に耳を傾ける必要があります。
そのためにまず、デスマッチの特徴を確認していきましょう。
ホームセンター=武器庫
読んで字のごとく、それは“死闘”です。
蛍光灯、画鋲、カミソリなど、ホームセンターにあるもの全部が武器になります。
作中では、あくまで比喩として“普通のプロレスが漫才であれば、デスマッチはコントである”という発言も紹介され、まさに多種多様なアイテムが使用可能であることをよく言い表しています。
ガチンコ勝負の「セメント」や「シュート」とも異なり、「どんな痛めつけ方をしてやろうか」と飽くなき闘争心を燃やすデスマッチは、リアル版『アウトレイジ』(2010-17)ともいえ、見慣れない方は同作の残虐性と表裏一体の快感をイメージしてみてください。
その舞台に長年肉体を酷使しつづけてきた葛西が立つことは、映画『レスラー』(2008)でミッキー・ロークがさらけ出した痛ましい輝きに重なるところがあります。
ではつぎに、葛西その人の実存に触れていきます。
痛みの伝わるプロレス
戦線離脱からはじまる本作は、その多くを葛西の日常生活を映し出すことに費やされます。
葛西自身も“父親としての実績も残したい”と素直に語り、妻と買い物に行ったり、娘と息子を思いやったりする姿を隠そうとしません。
このギャップは『お父さんのバックドロップ』(2004)や、『パパはわるものチャンピオン』(2018)で描かれた家族への愛にも似ています。
後輩のレスラーに言わせれば、“こんな大人になりたい”と思わせるほどの常識人。そんな葛西がデスマッチの舞台を選んだ理由にも、父親の存在がありました。
父の影響で、幼いころからプロレス好きだった葛西。しかし、“あれは当たってない”などという父のコメントに嫌気がさし、それならば「痛みの伝わるプロレス」をしてやろうとデスマッチ団体に入門しました。
プロレスにどんな物言いがつこうが、そこで流れる真っ赤な血に嘘はありません。
コロナを忘れさせる興行
デスマッチのレジェンド・松永光弘は、新世代の葛西の台頭を“演出”“最高傑作”“完成”という言葉をもって表現していきます。
人々の感動に嘘がないように、デスマッチはある種の真実を提示してみせます。
これはコロナ禍においてよりいっそう重要な意味をもちます。
葛西は万難を排してどうにか開催までこぎつけた欠場明けの興行で、肩を落とします。
ガイドラインに則って声援ではなく拍手を送る観客をみて、コロナを忘れるほど興奮させることができなかった自分を悔やんだのです。
ここから「コロナを忘れさせる興行」が目標となっていきます。
感染者数も医療状況も大変な惨状を呈していますが、メディアでさまざま言説やパフォーマンスが飛び交うことで、むしろ「切実な痛み」が見えにくくなっているのではないでしょうか。
相手に負けない、自分に負けない、コロナに負けないとはあらゆる闘いの場面で聞こえる声ですが、社会を覆う「痛みの雰囲気」を興行で打ち破れるのは、デスマッチしかないでしょう。
それは逆説的に、コロナ時代に生々しく、赤裸々な「痛みの感覚」を呼び起こせる唯一無二の舞台ともなります。
彼らにとって当たり前のプロレスをすることの意義に思い当たったとき、気持ちが戻らないと嘆いていた葛西は復活を果たします。
そして、若き王者に挑戦状を送りつけました。
“負け組”へのメッセージ
ドキュメンタリーですので試合結果はもう判明していることですが、葛西は激闘の末に敗れました。
相手の強さを認める一方で、葛西は“負けたが、越えられてはいない”とカメラに向かって述べます。
これはじつに示唆に富んだ言葉です。勝ち負けとは別の価値があることを教えてくれます。
そもそも、王者に挑んだのは“チャンピオンとしての振る舞いがない”ことに疑問を抱いたからでした。
振る舞いとは、リング外の生き様を問うものでしょう。観客は単なる力比べを見に来ているのではない。後輩も先輩の背中に傷跡以上の期待を見いだそうとしている。
力だけでは乗り越えられない壁があること、あるいは逆に「負けても乗り越えられない生き方」があることは、勝ち組・負け組と安易に分けたがる世間の風潮を痛烈に批判する価値観になります。
最狂=最強の人生
葛西の背中は、格差社会やコロナ社会を生きる術を語りかけるものでした。
46才の誕生日を“レベル46”になったと喜んでみせ、死ぬ直前に全盛期を迎えようとする男。
私たちも学校や仕事での勝敗を越えて、決して乗り越えられることのない固有の人生を生きているのだと勇気づけられます。