誰も知らないから、市子は本当の“市子”を追い求める・・・
今回ご紹介する映画『市子』は『名前』(2018)、『僕たちは変わらない朝を迎える』(2021)などの戸田彬弘監督が自身の主宰する、劇団チーズtheaterの旗揚げ公演のために書き下ろした「川辺市子のために」を映画化したヒューマンドラマです。
主人公の市子は3年間暮らした、恋人の長谷川からプロポーズされた次の日に突然、彼の目の前から姿を消します。
すぐに帰ってくると長谷川は考えましたが、市子は数日しても戻らず代わりに警察の後藤がアパートを訪ねて来ます。
そして、失踪届けで出した“川辺市子”という人物は存在しないと言い、さらにある事件に関わっている可能性を告げます。
長谷川は困惑しますが、3年暮らしながら市子のことを何も知らない自分に、後藤とともに市子の過去を追うため、彼女に関わった人物たちに接触し、徐々に市子の人生と秘密に迫っていきます。
映画『市子』の作品情報
【公開】
2023年(日本映画)
【監督】
戸田彬弘
【原作】
戸田彬弘
【脚本】
上村奈帆、戸田彬弘
【キャスト】
杉咲花、若葉竜也、森永悠希、倉悠貴、中田青渚、石川瑠華、大浦千佳、渡辺大知、宇野祥平、中村ゆり
【作品概要】
原作の「川辺市⼦のために」はサンモールスタジオ選定賞2015で、最優秀脚本賞を受賞しました。舞台で2015年の初演から熱い支持を受けた作品は、コロナ禍を経て映像化が実現しました。
過酷な境遇に翻弄され生きてきた女性・市子役は『湯を沸かすほどの熱い愛』(2016)で、日本アカデミー賞助演女優賞を受賞し、映画やテレビドラマ、アニメ声優など多数の話題作で、幅広い演技を魅せる杉咲花が務めます。
市子の直近の恋人・長谷川役には、『葛城事件』(2016)で第8回TAMA映画賞で最優秀新進男優賞を受賞、『街の上で』(2021)、『愛にイナズマ』(2023)などに出演した若葉竜也が演じます。
共演に市子の行方を共に探す刑事・後藤役に『罪の声』(2020)、『銀平町シネマブルース』(2023)の宇野祥平が演じ、市子の母・川辺なつみ役には『パッチギ! LOVE&PEACE』(2007)の中村ゆりが演じます。
映画『市子』のあらすじとネタバレ
2015年夏、焼けつくような暑さの中、鼻歌を歌いながら黒いワンピース姿の女性が歩いています。アパートに帰宅した彼女は部屋でテレビのニュースを聞きながら、荷造りを急いでいました。
ニュースは東大阪市の生駒山の山中から、白骨化した性別年齢不詳の遺体が発見されたことを伝えています。
やがてアパートの敷地にバイクが入ってきて、市子は焦りながら荷物をまとめ、階段を上る足音で部屋のベランダから逃げ出そうとしますが、慌てるあまりにまとめた荷物を持ち出せず、そのままどこかへ走って行きました。
そこに一緒に暮らしている男性が帰宅し「市子?」と名前を呼びますが、ベランダへ出る窓が開いたままで、カーテンが風でゆれていました。男性はベランダに残された旅行鞄を見つけ、昨夜のことを思い出します。
市子と暮していた長谷川は彼女が失踪した、前日の夜を思い返していました。彼女の作った夕飯を嬉しそうに食べると、市子は長谷川と穏やかに暮らし、安らぎができて幸せだと言います。
すると長谷川は意を決したように、市子の目の前に“婚姻届”を差し出し、「結婚しよう」とプロポーズしました。感極まった市子はしばらく言葉を失いますが、涙を流し「嬉しい」と応えます。
長谷川は隣りの部屋に行き、市子のために仕立てた浴衣を出すと、これを着て一緒に花火を観に行こうと言い、市子は溢れる涙を拭いながら頷きます。
その市子が突然失踪し、しばらくして後藤と名乗る刑事が長谷川のアパートを訪ねます。彼もある事件を追って、ある女性を探していました。
後藤は何故すぐに失踪届を出さなかったのか聞きます。長谷川はすぐに帰ってくると思ったと答え、市子の写真を差し出します。
ところが後藤は写真を見つめながら「この女性は誰なんでしょう?」と聞き、長谷川が“川辺市子”と言いますが、後藤は「そんな人間は存在しない」と告げます。
続けて後藤は長谷川に聞きます。「病気の時、病院には行きましたか?」長谷川は“病院嫌い”と言って行かなかった・・・と言葉を濁し、ふと婚姻届けを思い浮かべます。
1997年、小学生の下校時間、団地に住む少女たちが男の子にキスをする月子を目撃します。
少女たちは「月子ちゃん」と呼びますが、さつきは記憶をたどるように通りかかった月子に、「市子ちゃん?」と声を掛けます。
しかし、月子はそれを無視して帰っていきます。少女たちはさつきに、月子がキスをしていた少年が好きなのかとからかわれます。
帰宅したさつきは再び家を出ると、父親の行きつけのスナックへ行きます。さつきの父はその店でホステスとして働く月子の母親の川辺なつみが目当てで通う常連でした。
店ではカウンター席の隅で月子が宿題をやっています。なつみは別の客に呼ばれさつきの父から離れ、月子に夕飯の弁当を差し出して帰るよう促します。
月子が店を出るとそのあとをさつきが追いかけ、キスをしていた少年のことをどう思っているのか詰め寄ります。
すると月子は「なんとも思ってないし、あいつ気持ち悪い」と言い、さつきを怒らせ2人は取っ組み合いになります。しかし、腕力は月子の方が強く、さつきはねじ伏せられました。
学年が上がり身体検査の日にクラスメイトのこずえが、体の発育の良いことで男子生徒からからかわれていると、月子は自分の胸を見せて男子を追い払います。
こずえは自分をかばってくれた月子を家に招き、ケーキをごちそうします。貧しい家庭の月子はと美味しそうに頬張ります。
後日、月子はこずえを家に呼びます。こずえは月子の家で介護用のオマルを見て、「これは?」と聞くと市子は「なんでもない」と、はぐらかして飼っている文鳥を見せました。
しかし、そこに母親と付き合っている男が帰宅し、寝室でセックスを始めます。それを黙って見る月子に、男はお金を渡しますが「こんなんじゃ足りない」とせびります。
札を握った月子はこずえにどこか行こうと誘いますが、唖然としたこずえは逃げるように帰ってしまいました。
2006年、高校に通い始めた月子に宗介という彼氏ができます。ある日の教室で宗介は、同級生の北に月子をストーカーしていると因縁をつけ、2度としないと誓わせ土下座させます。
そこに月子が登校してきますが、北がひどい目に合っていようと気にもせず、「きっしょ」と言って席に着きます。
月子と宗介はセックスをするまでの関係になっていましたが、ある時から月子は宗介の求めを嫌がるようになり、数か月経った頃、彼は月子の住む団地で待ち伏せました。
宗介は月子の家でしたいと言い頑なだったため、月子は諦めて家に向かうと、階段の下でビールを飲んでいた男が「やっと帰った。家の鍵・・・」と手を出します。
月子は鍵を渡すと唖然とする宗介の手を取って、団地の裏に行くとキスをして、彼の手をスカートの中に入れようとしますが、宗介はそれを拒み逃げるように帰ってしまいます。
そんな月子に北は思いを寄せていました。ある日、駅の掲示板に貼られた花火大会のポスターをジッとみつめる月子に「花火、見に行くの?」と北が声をかけます。
彼女は「そやな」と素っ気なく答え、その場を離れ歩き始めます。駄菓子屋でアイスキャンディーを買って食べると、北も一緒に食べて他愛もない話しをしました。
2人は付かず離れず下校の時に、アイスキャンディーを食べて会話をする間柄になりますが、ある日、忽然と月子は家族とともに団地から姿を消しました。
映画『市子』の感想と評価
「そんな嘘は、すぐにバレる」
市子の運命は言わば、大人がついた“嘘”から運命が狂わされたと思います。
DVの夫と離婚したなつみは離婚から1ヶ月後には新たな恋人を作ります。妊娠したなつみは前夫の子を恋人の子だと“嘘”をついたのかもしれないし、本当に恋人との子供だったとも言えます。
しかし、出産し再婚して子供も籍に入れようとした時、法の壁にぶつかります。離婚後、300日以内に出産した子供は現夫との子であっても、前夫の籍にしか入れられない法律のことです。
DVが離婚理由だったため、前夫とのトラブルを恐れ籍が入れられず市子を無戸籍にしてしまったのでしょう。名前の由来は戸籍を「市」に拒まれた子という意味なのかもしれません・・・。
その後、なつみは恋人と再婚し2人の間に月子を授かりますが、その子は難病の筋ジストロフィーを発症し夫は事業に失敗し離婚します。
なつみ自身も波乱の人生で心に余裕がありません。月子のことで相談し出会ったのが、市の福祉課に務める小泉だったのでしょう。
市子が小学校入学の年になっても、無戸籍のため通知が届くことはありません。そのためなつみは、市子を人目から避けて育てるしかありません。
ところが月子の年齢が就学年に近づき、月子宛に“就学通知”が届きます。介助がなければ何もできない月子の代わりに、市子を月子に仕立て学校に通わせようと、小泉が提案したと推測できます。
しかし、月子の症状はさらに進行し、介護用の医療機器や介助が必要になります。月子はすでに学校に通っているため、行政の支援を受けることもできません。
福祉課にいた小泉は不正を行って、介護の支援金などを入手しその不正(嘘)がバレ、職を失ったのだと考えられます。そして、生活をなつみが支え、月子の介助をするのは市子の役目になります。
なつみと小泉のついた「嘘」は市子にしわ寄せがいき、かりそめの幸せはたちまち破城していきました。そして、市子自身も“月子”として生きることで、嘘をつくことが平気になっていきます。
“市子”が手に入れたかったものとは
市子が長谷川との穏やかな生活を捨てて、何を求めて逃げ出したのでしょうか?
市子は想像を絶する過酷な人生の過程で、情緒が育たなかったと推測します。大人の都合で戸籍もなく、仮の名“市子”で育ち、妹の戸籍で嘘の人生を歩みます。
普通に成長した若者が経験する、「自分は何者なのか?」という疑問以前に、市子にはアイデンティティのない子供でした。
市子は“市子”になりたかっただけです。高校生の時に就籍ができないと悟っている市子は、月子の遺体が発見されたことで“市子”でいる危険も感じます。
そんな市子には求めていなくても、宗介や北、長谷川が彼女を守るように現れます。ある意味それは母親の男を引き寄せる“魔性”の力に似ていて、それを受けついだようにも思います。
宗介はボディガードのような存在で、北は勝手に手助けしてくれる男くらいにしか見ていません。自分の求める人生に“男の存在”は重要ではありませんでした。
両親のいない天涯孤独の長谷川は、市子にとって好都合の男だったのかもしれませんが、彼女が長谷川との生活を振り返った時、それまで経験のなかった安らぎや穏やかな生活ができたと満足しています。
プロポーズされ浴衣をプレゼントされ、「嬉しい」と言葉を発したのは身バレを恐れた防衛反応かもしれません。しかし、あふれ出た涙は不可抗力で嬉しさが滲み出たのだと感じます。
しかし翌日、山中で月子の遺体が発見されなければ、長谷川が婚姻届けを出さなければ・・・、市子は彼とかりそめの幸せを捨てずに言い訳しながら暮らしたでしょう。
市子にとって生き抜くとは本能的で、目的が曖昧に感じます。こだわっていた“川辺市子”の存在すら消し、別人となって全く違う人生を送るため、そのために北野冬子の戸籍を取引に使います。
波止場に到着した北と冬子。自殺願望の強い冬子にとって、それを阻止しようとする北は邪魔ものです。市子と冬子の利害関係は成立しているので、北と無理心中に見せかけるのはたやすかったでしょう。
しかも冬子は体型や背丈、髪型まで似ているのであわよくば、市子と北が心中したことにもできます・・・。
まとめ
映画『市子』の原作者でもある戸田彬弘監督は、市子の生い立ちから、長谷川の元を去る2015年までの表に出ない背景を緻密に設定し、脚本を手掛けました。
映画は人間関係の詳細が明解にされていないないため、観た人は様々な憶測をし、考察をするでしょう。
まるで市子の家の近所にいる住民のように、市子やその家族を色眼鏡で見て、妄想し噂をするかのように・・・。
現実には子供が“無戸籍”であっても、法務課などに相談をすれば、事情を考慮した手続きで就学することが可能です。
なつみ、あるいは小泉がそのことを知っていたら、市子はボタンの掛け違いのような人生を送り、殺人など起こさずに済んだであろうと歯がゆくなります。
まるで実話かと思わせた映画『市子』ですが、現実に存在する数千人いるといわれる、無戸籍の人達のあらゆる側面と問題点を市子の姿で表していました。
“300日問題”とされる、嫡出推定の制度は見直され2024年4月からは、離婚後300日以内に生まれた子であっても、出産の時点で母親が再婚していれば、再婚した夫の子どもであると推定されることになります。