真相は、初恋の中に沈む──。
全世界にて累計1500万部を超える大ヒットを記録した動物学者ディーリア・オーエンズによる小説を映画化した『ザリガニの鳴くところ』。
ノースカロライナ州の湿地帯で発見された、街の有力者の息子の変死体。その犯人と疑われた、湿地で孤独に生き続けてきた少女の半生と、彼女をめぐる裁判の行方を描いたサスペンス・ミステリーです。
本記事では、小説および映画のタイトルにも冠されている「ザリガニの鳴くところ」という言葉の意味を考察・解説。
ネタバレ有りで、「ザリガニの鳴くところ」の言葉の意味が導き出す「湿地の娘」という言葉の真の意味を探っていきます。
CONTENTS
映画『ザリガニの鳴くところ』の作品情報
【日本公開】
2022年(アメリカ映画)
【原題】
Where the Crawdads Sing
【原作】
ディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』(早川書房)
【監督】
オリヴィア・ニューマン
【脚本】
ルーシー・アリバー
【製作】
リース・ウィザースプーン、ローレン・ノイスタッター
【オリジナル・ソング】
テイラー・スウィフト「キャロライナ」
【キャスト】
デイジー・エドガー=ジョーンズ、デイヴィッド・ストラザーン、テイラー・ジョン・スミス
【作品概要】
原作は動物学者であるディーリア・オーエンズによるミステリー小説。2019・2020年と2年連続で「アメリカで最も売れた本」となり、日本でも2021年に本屋大賞・翻訳小説部門の第1位に輝きました。
原作に惚れ込んだリース・ウィザースプーンは、自身の製作会社ハロー・サンシャインで映像化の権利を獲得、自らプロデューサーを務めました。
主人公カイア役を務めたのは、ドラマ『ふつうの人々(ノーマル・ピープル)』(2020)で注目を集め、『フレッシュ』(2022)でセバスチャン・スタンと共演したデイジー・エドガー=ジョーンズ。共演には『ラストウィーク・オブ・サマー』(2017)のテイラー・ジョン・スミス、『キングスマン3:ファースト・エージェント』(2020)のテイラー・ジョン・スミスなど。
映画『ザリガニの鳴くところ』のあらすじ
1969年、ノースカロライナ州の湿地帯で、裕福な家庭で育ち将来を期待されていた青年の変死体が発見された。
容疑をかけられたのは、「ザリガニが鳴く」と言われる湿地帯でたったひとり育った、無垢な少女カイア。
彼女は6歳の時に両親に見捨てられ、学校にも通わず、花・草木・魚・鳥など、湿地の自然から生きる術を学び、ひとりで生き抜いてきた。
そんな彼女の世界に迷い込んだ、心優しきひとりの青年。
彼との出会いをきっかけに、すべての歯車が狂い始める……。
映画『ザリガニの鳴くところ』タイトルの意味から考察・解説!
「ザリガニの鳴くところ」という逃げ場所
本作のタイトルである『ザリガニの鳴くところ』。
作中ではカイアが幼かった頃、一番年の近い兄ジョディが暴力を振るう父の元を去ろうとする際、父と二人暮らしとなってしまう幼い妹カイアへ残した助言「父に暴力を振るわれそうになったら、“ザリガニの鳴くところ”へ逃げろ」という形で登場します。
その言葉を聞いた後、父との接触をできるだけ、一人でボートを操り湿地で過ごすようになった幼いカイアの行動からも、ジョディが「母の口癖だったろ」とも語っていた「ザリガニの鳴くところ」とは、やはり「湿地」そのものであることが窺えます。
しかしながら、作中の描写により「ザリガニの鳴くところ」が湿地であると推察できた反面、「ザリガニって、鳴き声をあげるのか?」と純粋に疑問を抱いた方もまた非常に多いはずです。
人間の入る余地のない「そこ」
実際、ザリガニは発音行動を特にしないとされており、「鳴き声を聴けた」という証言も大抵は水槽内の砂利が擦れる音、またはザリガニが動いた際に体を覆う殻同士が擦れた音を勘違いしたというのがほとんどです。のちに成長し生物学を学んだカイアも、「ザリガニは鳴かない」という事実をおそらく知っていたはずです。
「鳴かないザリガニが鳴くところ」……本来の人間の聴覚では感知できないはずの音をも感じとれる場所とは、果たしてどんな場所なのか。それはもはや人間が「湿地」と命名した場所ではなく、人間の知性も感性も踏み入れる余地のない場所なのかもしれません。
「自然」……という言葉で表現するのもおこがましく感じられるものの、それ以外に表現のしようがない「そこ」。「畏怖」という言葉でかろうじて距離をとることできるかも怪しい、有無を言わさぬ、あまりにも絶対的な自然。
もし人間が不用意に足を踏み入れたら、気づく間もなく捕食され、誰でもない「そこ」の一部へと還る。どれほど文明が進み豊かな生活を獲得しても、何人たりとも飲み込む自然を内心では恐れ続けているからこそ、街の人々はその心理の裏返しとしてカイアを「湿地の娘」と蔑んでいたのではないでしょうか。
まとめ/「湿地の娘」の真の意味
チェイス殺しの裁判にて無罪を勝ちとり、初恋の人テイトと結婚したカイア。
そして長い年月を経てカイアが亡くなり、ともに暮らし老いていったテイトが遺品整理の際に見つけた物によって、カイアがチェイスを殺した真犯人である可能性が再び浮上したところで、映画『ザリガニの鳴くところ』は結末を迎えます。
あくまでも描写されたのは「可能性」でしかないものの、多くの人々が「カイアが真犯人だったのか」と考えるであろうその結末に想像の余地を見出すとしたら、「湿地の娘」は決して街の人々からの蔑称という意味のみで、原作小説ならびに映画で使われていたわけではないということです。
時に「湿地」と呼ばれ、時に「ザリガニの鳴くところ」と呼ばれてきた、人間の踏み入る余地などない絶対的な自然の「娘」であったカイア。
彼女が人間であると同時に、人間を瞬く間に飲み込む恐るべき自然そのものであったと考えた時、「自然に善悪はない」という作中の言葉通り、カイアは自分という「ザリガニの鳴くところ」に軽々しく踏み入ったチェイスを「親」から学んだように飲み込んでしまったのではないでしょうか。
「私は湿地だった」……映画終盤で語られるその言葉が、人間であり「ザリガニの鳴くところ」の娘であったカイアのすべてなのでしょう。
ライター:河合のびプロフィール
1995年生まれ、静岡県出身の詩人。
2019年に日本映画大学・理論コースを卒業後、映画情報サイト「Cinemarche」編集部へ加入。主にレビュー記事を執筆する一方で、草彅剛など多数の映画人へのインタビューも手がける(@youzo_kawai)。