SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2022・国内コンペティション長編部門
SKIPシティアワード受賞作『JOURNEY』!
肉体から意識を解放することが可能となった近未来で、生きることの意味という普遍的な問いと真正面から向き合った、霧生笙吾監督による哲学的SF映画『JOURNEY』。
SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2022・国内コンペティション長編部門にてワールド・プレミア上映された本作は、同映画祭にて見事SKIPシティアワードを獲得しました。
このたびの受賞を記念し、武蔵野美術大学の卒業制作として映画『JOURNEY』を手がけた霧生笙吾監督へのインタビューを敢行。
本作で描かれた「意識」というテーマ、そして霧生監督の原点に深く関わる「SF映画」に対する想いなど貴重なお話を伺いました。
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「意識」が過去・現在・未来をつなぐ
──SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2022にて SKIPシティアワードを受賞された映画『JOURNEY』ですが、SF映画である本作にて「意識」というテーマを扱われた理由は何でしょうか。
霧生笙吾(以下、霧生):『JOURNEY』は武蔵野美術大学での卒業制作として撮った作品であり、「絶対にSF映画を撮りたい」という想いから撮った作品でもあります。一方で「意識」というテーマそのものは、大学3年の頃から考えていた、自身の肉体が朽ちていくことの意味、その先にある死という喪失への問いが深く関わっています。
僕の両親や父方・母方の祖父母はまだ存命で、今も元気に過ごしています。ただ、逆に生きているからこそ、いつか訪れる死によってその人たちを喪失してしまう瞬間がとても怖いんです。友人・知人と話していると、時たま「もう俺のじいちゃんって死んじゃったんだよね」と聞かされることがあります。そう話す相手は、その人を失った時の悲しみをきっと経験したのだろうと想像する中で、自分はその経験がないからこそ、より一層怖くなってしまうんです。
そして、近しい人がいなくなる時を想像していくうちに「どうしてその人は死ななくてはならないのか?」「それじゃあ、どうしてその人はこれまで生き続けてきたのか?」と考えてもどうしようもない疑問が浮かび上がってくる。別に毎日そんなことを考えてしまうわけではないですが、ふとした時に囚われてしまう。
生の営みという大きな流れの中で人は生まれ死んでいくという考え方もありますが、自分が知覚している世界……世代は本当に小さなものでしかなくて、その前後にはより壮大な広がりがあるはずなのに、それを自分は知覚できないと思うと、人はどこまでも孤独にしか存在できない。それならば、果たして人にとって「生きる」とはベストな選択なのかと考えてしまう。そう立ち返っては「いやいや、そうじゃない」と思い直し、また想像しては立ち返るということをずっと繰り返していたんです。
大学3年の時、4年に進級するための課題制作として約20分の短編を撮ったんですが、それは亡くなった母親が骨壷に入って家に戻ってきて、その息子が骨壷の中から火葬の際焼け残った母親の銀歯を取り出すという話でした。それは決してSF映画ではなく、あえてドラマチックな何かが起こさずにストーリーを構成した作品なんですが、その短編で描こうとした肉体が朽ちていくことへの恐怖は『JOURNEY』に通じるものがあると自分は感じていて、そこに恐怖に抗う方法としての「意識の解放」を加わる形でSF映画としての『JOURNEY』は生まれたのかもしれません。
──映画『JOURNEY』の作中では主人公・慶次が、全身疾患だった自身の父が「意識化」により肉体から解放されたと聞いたのち、月の石を受け取る場面が描かれますが、その短編のイメージとのリンクを感じられます。
霧生):確かにそうですね。実はその短編の作中では、主人公の想念の世界が映し出される場面があるんですが、そこでは最後に月面を彷彿とさせるカットを入れています。全く違うストーリーではあるんですが、根源的なテーマやイメージのようなものは近しいものがあり、つながりがあるんだと思っています。
僕は映画、ひいては映像そのものを、詩的な表現だと感じています。ストーリーという一つの流れはあるものの、作品の中で映し出されるもの……登場人物や風景はもちろん、その人物が食べているものや触れているものなどは、全てが登場人物の心象やメタファーだと感じていて、その連なりをマチエール的に衝突させていくのが映画であると信じています。
映画という詩的な表現
──霧生監督が映画および映像を「詩的な表現」と認識されるようになったきっかけは何だったのでしょうか。
霧生:そもそも自分は、映画を「現実の延長」のようなものだとイメージしていたんです。子どもの頃に観ていた映画は、編集が上手いのもあって特別な演出がある場合を除いては、観客にカットのつなぎ目などを意識させないように作られていました。そのせいもあって、SFやファンタジーといったジャンルの作品でも当時の僕は「虚構感」をあまり感じなかったんです。
ただ高校を卒業した後、武蔵美に入るために一浪して予備校に通うことにした時、そこで映像に関する学科に入りました。そこで「映像とは一体なんなのか?」という映像という現象そのものを疑い、その正体を探ることの意味を講師の方たちに気づかされたんです。
「車窓自体が映像であり、スクリーンだよね」と指摘されたり、それまで二次元なものとしてしか映像を捉えていなかった自分にとって、フレームの概念に対する想像もできなかった視点を教えてもらえた。そこに通う1年間の中だけで、映像への価値観が本当にガラッと変わったんです。
「映像はカットの連なりで構成されている」という、今となっては当たり前なことだけれど、それまでどこか認識できていなかったことを改めて気づかされた。そして、映像が全く異なる素材同士が衝突しつなぎ合わされて作られているのに、幼い自分が勘違いしてしまうほどに、シームレスな形へと映画は完成させられていることに面白さを感じられたんです。
「詩的な表現」でいえば、アンドレイ・タルコフスキーもそうなんですが、自分はテレンス・マリックがめちゃくちゃ好きで、予備校に通っていた頃に初めて観た『シン・レッド・ライン』(1998)には本当に驚きました。
それまで観ていた太平洋戦争に関する映画は「いかに悲惨に、いかに不条理的に描くか」が中心だったのに、「壮大な自然の中で行われる戦い」に着目し、国や人同士の諍いよりも「いかに人間がちっぽけな存在なのか」を描くという彼の視点はとても新鮮だった。
地上では血みどろの戦いが起こっているのに、美しく雄大な自然はただそこに存在し続ける。冷徹である一方でどこか温かみもあるその眼差しはとても詩的な表現であり、映像の可能性というものを強く感じられる表現だったんです。自分が作る映画がそんな表現をできているかというと全くなってないとは思うんですが、ああいう空気感を作っていきたいというのが正直あります。
映像としての説得力を求めた中で
──「詩的な表現」としての映画を作られるにあたって、今回の『JOURNEY』ではどのようなアプローチをされたのでしょうか。
霧生:『JOURNEY』に関しては、本作におけるSFの世界を担保するために何をすべきなのかと考えた中で、詩的な表現を目指す以前に映像としての説得力を持たせる必要があると感じました。そこで本作の撮影では、事前に全てのカット割りを組んでおいた上で、現場では撮影監督と話し合い実際のショットを撮り進めていったんです。
ちなみにその撮影監督とは別作品でも何回か組んでいて、気心も知れている相手なんですが、彼はどちらというと綺麗で安定したショットを撮りたがるといいますか、後々の編集の際につなぎやすいショットを提案してくれるんです。ただ僕は、そういうショットばかりになってしまうのはあまり好きじゃない(笑)。自分が思い描いた、映像の連なりにおけるバランスとかリズムのイメージを伝えながら、それをどう実際の映像として形にしていくのかを相談しカット割りを決めていきました。
『JOURNEY』の映像は多分硬いというか、重いと思うんです。あまり余計なショットを撮らなかったことが作品にいろんな作用を起こしていると感じていて、たとえばば引きの長回しショットが比較的多くなり、映画の中で描かれる時間が現実の時間と同時にゆっくり流れる状態が生まれたことで、映画が描く時間がより情緒的になったように感じられました。
そういう意味で『JOURNEY』は、詩的な表現をあまり意図的にやったというわけではなく、SFというものを計算高く撮る中で、自然と詩的な表現が生まれていったんだと思います。
SF映画がつなげる“意識と意識”
──最後に、霧生監督が「SF映画」にこだわられた理由を改めてお聞かせください。
霧生:もともと映画を好きになった原点がSFで、子どもの頃父親にSF映画をめちゃくちゃ観させられたんです。毎週TSUTAYAでDVDを借りてきてくれて、週末には親子で映画を観るのが日課でした。
「スター・ウォーズ」シリーズや『エイリアン』(1979)に始まり、そこからスティーヴン・スピルバーグが撮った「SF映画」である『ジュラシック・パーク』(1993)を観た中で「インディ・ジョーンズ」シリーズといったスピルバーグのSF以外の映画にも興味を持って「超面白い」と感じて……という風に、いろんな監督のいろんな作品を観たくなったことで、結局映画自体が好きになった。その窓口になってくれたのが、SF映画だったわけです。
やがて大学4年生になって初心に立ち返った時、「自分は何をどう表現したいのか」「自分が映画を好きになった源流は何か」を考えました。そして、「どうにかしてSFを映画として表現したい」と思い立ったんです。
──その当時のお父さんとの映画鑑賞において、現在も記憶に残っている出来事はありますか。
霧生:小学4年生の頃に、父親に『ブレードランナー』(1982)を観せられたんです。今では一番好きなSF映画なんですが、「スター・ウォーズ」シリーズが好きだった当時の僕にとっては眠たくなる映画でした(笑)。
実は父親も、映画の中で『ブレードランナー』が一番好きだったらしいんです。映画を観終えた時「いつかわかるよ」とだけ僕に言った後、その日は何も話してくれなかった。字幕で出てくる読めない漢字を何度も尋ねてくる幼い息子と観るのが疲れたのだろうと、当時の僕は「何なんだよ」と思ったんですが、今となっては何となく父親の考えていたことがわかる気がします。そういうところが、自分と似ているのかもしれません。
多分心のどこかで、そういう父親に恩返しとまではいかなくても、何かしらの形でつながっていたいという想いもあって、SF映画である『JOURNEY』を作ったのかもしれないです。
高校の頃は反発して一切口をきかない時期もあって、ケンカもよくしました。ただ、映画や虚構の世界によって夢見ることしかできない自分に対して、プラグラマーであり、数学・物理学など実際の科学によってSFに触れることができた父親のことは本当に尊敬しています。
反発していた時も、決して父親を嫌っていたわけではなくて、むしろ尊敬するとこが多すぎて近づきがたいイメージを抱いていたんだと思います。そのイメージがあったからこそ、『JOURNEY』はこういう作品になったんだとも感じています。
インタビュー/河合のび・出町光識
霧生笙吾監督プロフィール
武蔵野美術大学造形学部・映像学科卒業。
在学中は実写映画のみならず写真、アニメーション、CGなどを制作。3年時から本格的に実写映画の制作を開始する。過去2作はいずれも短編作品であり、卒業制作として制作した本作が初めての長編作品となる。
現在はフリーで新たな映画の制作と、企画の開発を行っている。
映画『JOURNEY』の作品情報
【日本上映】
2022年(日本映画)
【監督・脚本】
霧生笙吾
【キャスト】
宮﨑良太、伊藤梢、森山翔悟、みやたに、山村ひびき、廣田直己、富永諒、神崎みどり、うつみ敦士
【作品概要】
肉体から意識を解放することが可能となった近未来で、生きることの意味という普遍的な問いと真正面から向き合った哲学的SF映画。霧生笙吾監督は武蔵野美術大学造形学部・映像学科の卒業制作として本作を手がけた。
SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2022・国内コンペティション長編部門にてワールド・プレミア上映され、SKIPシティアワードを獲得した。
映画『JOURNEY』のあらすじ
肉体から意識を解放することが可能となった近未来。
宇宙飛行士になることをあきらめ地球で働く慶次は、心を病む妻の静と暮らしていた。
ある日慶次は新たな宇宙開発の噂を聞き、静は意識のみの存在に憧れを抱き始める。
ライター:河合のびプロフィール
1995年生まれ、静岡県出身の詩人。
2019年に日本映画大学・理論コースを卒業後、映画情報サイト「Cinemarche」編集部へ加入。主にレビュー記事を執筆する一方で、草彅剛など多数の映画人へのインタビューも手がける(@youzo_kawai)。