日本映画初のカンヌ国際映画祭脚本賞受賞『ドライブ・マイ・カー』!
映画『ドライブ・マイ・カー』は、2021年・第74回カンヌ国際映画祭で日本映画としては初となる脚本賞を受賞したのを始め、国際映画批評家連盟賞、AFCAE賞、エキュメニカル審査員賞の独立賞も受賞し、4冠獲得の偉業を果たした注目の一作!
村上春樹の短編小説集『女のいない男たち』に収録された短編「ドライブ・マイ・カー」を原作に、妻を失った男の喪失と希望を綴った映画を作り上げたのは、濱口竜介監督。
『寝ても覚めても』(2018)がカンヌ国際映画祭・コンペティション部門に出品され、『偶然と想像』(2021)がベルリン国際映画祭・銀熊賞を受賞、共同脚本作『スパイの妻』(2020)がヴェネチア国際映画祭・銀獅子賞を受賞と、世界三大映画祭を席巻し、今、世界から最も注目を集めている監督のひとりです。
第79回(2022)ゴールデングローブ賞では最優秀非英語映画賞を受賞。第56回全米批評家協会賞では作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞の4冠に輝き、ニューヨーク映画批評家協会賞作品賞、ボストン映画批評家協会賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞でも作品賞を受賞するなど、全米の各映画祭で高い評価を受けています。
第94回アカデミー賞(2022)では日本映画史上初となる作品賞にノミネートされるなど、監督賞、脚色賞、国際長編映画賞の4部門でノミネート。日本映画としては「おくりびと」以来13年ぶりとなる国際長編映画賞を受賞しました。
第44回日本アカデミー賞でも最優秀作品賞をはじめ、8部門で受賞を果たしています。
映画『ドライブ・マイ・カー』の作品情報
【日本公開】
2021年公開(日本映画)
【監督】
濱口竜介
【脚本】
濱口竜介、大江崇允
【キャスト】
西島秀俊、三浦透子、霧島れいか、パク・ユリム、ジン・デヨン、ソニア・ユアン、ペリー・ディゾン、アン・フィテ、安部聡子、岡田将生
【作品概要】
村上春樹の短編作品「ドライブ・マイ・カー」を濱口竜介監督が映画化。同作品が収録された短編集『女のいない男たち』の中に収められた短編作品「シェラザード」と「木野」も取り入れ、濱口が大江崇允と共に脚本を執筆。
西島秀俊、三浦透子をはじめ、国際色豊かな俳優が顔を揃えています。
2021年・第74回カンヌ国際映画祭で日本映画としては初となる脚本賞を受賞。そのほか、国際映画批評家連盟賞、AFCAE賞、エキュメニカル審査員賞の独立賞も受賞しました。
第79回ゴールデングローブ賞を始め、全米の各映画賞でも高い評価を受け、第94回アカデミー賞では日本映画史上初となる作品賞にノミネートされるなど、監督賞、脚色賞、国際長編映画賞の4部門でノミネート。日本映画としては「おくりびと」以来13年ぶりとなる国際長編映画賞を受賞しました。
第44回日本アカデミー賞でも最優秀作品賞をはじめ、8部門で受賞を果たしています。
映画『ドライブ・マイ・カー』のあらすじとネタバレ
ベッドの上で妻の音(おと)が物語を語っていました。「山賀という同級生の家に毎日のように忍び込む女子高生」の話です。夫の家福は穏やかな表情で耳を傾けていました。
家福は舞台演出家。音は、元俳優で今は売れっ子の脚本家です。彼女は、夫とセックスをしたあと、夫に脚本の草案である物語を語って聞かせるのですが、翌日、目覚めると記憶が曖昧になっており、夫から改めて物語を聞き、それを脚本に仕上げるということを習慣にしていました。
その日の夜は『ゴドーを待ちながら』の初日で、家福は演出と出演を兼ねていました。彼の演劇はいくつもの言語が飛び交う「多言語演劇」という独特のものです。
芝居を終え、楽屋で化粧を落としていた家福のもとに、妻がやってきて、彼女が脚本を書いたドラマに出ているという高槻という若い俳優を紹介しました。高槻は芝居に大層感動したようでした。
ウラジオストックの演劇祭から招待された家福は、早朝、まだ眠っている妻を起こさないように出かけようとしていましたが、妻は目を覚まし、『ワーニャ叔父さん』の上映台本を吹き込んだテープを家福に手渡しました。
家福は車を運転しながら、テープを聞き、ワーニャの台詞の部分を暗唱します。妻が吹き込んでくれたテープを聞きながら車の中で台詞を暗唱するのは、彼にとって欠かすことの出来ない日課になっていました。
空港に着いた途端、演劇祭の事務局からメールが届きました。曰く「寒波のためフライトは一日延期。必要であれば宿泊費は当方で負担する」というものでした。
踵を返し、車を運転して家に戻る家福。そこで彼は妻の浮気現場を目撃してしまいます。しかし、彼はそのまま黙って部屋を出て、空港近くのホテルに宿泊しました。
まだ家福が日本のホテルにいることも知らず、妻は「無事についた?」とビデオ通話をしてきました。妻はいつもどおりでした。家福も笑みを作り何事もなかったかのように振る舞いました。
別の日、雨が降りしきる中、家福と音は喪服姿で寺を訪れていました。彼らは幼い娘を肺炎で亡くしていました。その帰り道、音は口を開き「子供をもう一度持ちたかった?」と尋ねました。
家福は「2人で決めたことだ、誰もあの娘の代わりにはならない」と応え、音は「私はあなたのことが本当に好きなの」と言い、2人は手を重ねました。
その夜、音はあの物語の続きを語り始めました。「毎晩同級生の家に忍び込む少女は自分が前世は「やつめうなぎ」だったことを思い出す。上を通りかかる魚に寄生するのではなく、岩場に吸盤をひっつけてゆらゆらしながら、次第に痩せて海藻のようになっていく、なぜ死んだのかわからない。」
少女は自分が、やつめうなぎが岩から離れられないように、山賀という少年の部屋から逃れられないのだと感じていました。
少年のベッドに横たわり、彼女の心のルールで禁じられていた行いを始めた時、彼女は誰かが帰ってきた音を聞きつけます。長く部屋にい過ぎたのです。
山賀か、父親か。少女はあわてながら、これでこの部屋から逃れられると考えていました。階段を上がって来る音が聞こえ、ドアが開き……。
朝、家福が出かける準備をしていると、今日はどこかへ出かける予定があったのかと音が問うてきました。
「ワークショップだよ」と彼が答えると、音は「聞いてないわ」と微笑み、彼が出かける直前に「今夜時間あるかしら話したいことがあるの」と言いました。家福は微笑みながら「なんだい、改まって」と応え、出かけていきました。
夜遅く彼が戻ると、床に妻が倒れており、あわてて駆けつけましたが、すでに妻は息をしていませんでした。くも膜下出血でした。
2年後。家福は広島で行われる国際演劇祭に招待され、広島へと車を走らせました。広島では演劇祭のプログラマーである柚原とドラマトゥルク兼韓国語通訳を担当するユンスが出迎えてくれました。
演劇祭の規定で滞在中は車を運転できず、専用のドライバーが運転すると聞かされた家福は、自分は車の中で台詞の練習を常にしている。そのため、宿泊場所も一時間ほどの場所を希望したのだと反論します。
しかし、彼の主張は認められず、23歳の女性ドライバー・みさきが彼を毎日送り迎えすることになりました。みさきの運転はまるで車に乗っているのを忘れさせるほど滑らかで、家福もその腕を認めざるを得ません。
家福はみさきにテープをかけてもらい、『ワーニャ叔父さん』の台詞をいつものように練習し始めました。
宿泊所に戻り、オーディションの応募者の書類をチェックしていた家福は高槻が応募してきているのに驚きます。
オーディションを行った家福は合格者を集め、配役を発表しました。国際色豊かな顔ぶれとなりましたが、その中には高槻の姿もありました。
家福がワーニャ役を高槻だと発表すると彼は驚き、年齢もあいませんと述べますが、家福は「メイクをすればいい」と応えました。
毎日のように本読みが行われました。家福は俳優たちに、感情を込めずただ読むように支持します。高槻はその本読みに他の誰よりも手こずっているように見えました。
また、台湾から来たジャニスは「私達はロボットではありません」と意見しますが、家福は「うまく演じなくてもいい」と応えます。まず文字を体に入れることがこの本読みの目的なのです。
稽古が終わった後、高槻がやって来て、話がしたいので一杯やりませんかと家福を誘いました。
みさきは2人を高槻が泊まっているホテルへと案内しました。ホテルのバーで高槻は家福のことをネットで検索したらたまたまオーディションのことを知り応募したと言い、自分が如何に音の脚本に惹かれていたかを語りました。
彼はテレビドラマで売れっ子になりましたが、未成年の女性と関係したことを週刊誌にすっぱ抜かれ、事務所も退所し、役者として崖っぷちにいました。
家福がキャリアを大切にしない高槻に苦言を呈していると近くに座っていた男女が高槻をスマホで盗撮し、高槻は立ち上がって2人に噛みつき始めました。家福は席を立ちました。
本読みの稽古が終了し、ユンスを家まで送ることになった家福たちはユンスから家によって食事をしていってくださいと誘われます。家福さんに実は隠していることがあるのだと彼は言うのでした。
戸惑いながらも、誘いを受けることとなった家福はみさきに「君も食べていけ」と言います。遠慮するみさきを「僕は気にしないが彼が気にする」と言って一緒に家に入るよう促しました。
ユンスの傍らに、ユナが立っていて家福は驚きます。ユナは彼がオーディションでソーニャ役として選んだ俳優で、手話で演技する俳優でした。「これが僕の隠していたことです」とユンスは微笑みました。
ユナのお手製の韓国料理を食べながら、家福は「どうして黙っていたの?」と尋ねました。夫婦だと知ると余計な気遣いをさせてしまうかもしれないと考えたからとユンスは応えました。
「どうしてオーディションを受けようと思ったのか」と問うと、ユナは手話で語り始めました。
彼女はもともとダンサーとして活動していましたが、流産し、活動を休止していました。復帰したいと思ってもずっと体が動かなかったと言います。でもチェーホフの劇が体の中に入ってきて、演じたいと思ったそうです。
穏やかな時間が過ぎ、ユンスがみさきの運転はどうかと話をふると、家福は「こんなに心地いいのは初めて。彼女にドライバーを頼んでよかったと思います」と答えました。
みさきは表情をほとんど変えませんでしたが、急に立ち上がり、ユンスたちの飼い犬のところに行き、頭をなで始めました。
その帰り道、いつものようにテープをかけ、練習を続ける家福。「うんざりしないか」とみさきに問うと彼女は「しません。この声が好きなんです」と応えました。
2人は徐々に言葉を交わし始め、その会話の中で、みさきが北海道出身で、中学生の時から、仕事をしに行く母を駅に送るため、運転していたことが明らかになりました。
車中で眠りたがる母を起こすような運転をすれば背中を蹴られたこと、5年前、18才になって免許が取れた年、実家が土砂崩れに遭い、自分は這い出したけれど母が生き埋めになって死んだこと。車に乗って飛び出し、広島に来たところで車が故障したこと、生きるためにゴミ収集の運転者になったことなどをみさきは淡々と語りました。
ある日の稽古で一行は外に出て公園の一角で立ち芝居を始めました。ジャニスとユナが芝居を終えると、家福は「今、何かが起こった」と感想を述べました。
稽古が終わったあと、高槻が再び声をかけてきました。「ぼくは空っぽなんです。なんにもないんです」と高槻は語り、テキストがなにかを問いかけてくること、音の脚本にそれを感じていたことを改めて語りました。
そこでも高槻に気づき、スマホで盗撮する輩がいました。高槻はその男を追っていき、一旦姿を消しますが、何事もなかったかのように帰ってきました。
車の中の会話の流れから、家福は、娘を幼くして亡くしたこと、妻も亡くしたことで自身の幸せな日々は終わったと高槻に語りました。そして、音と自分の間で行われていた「物語」の誕生について話し始めました。
「物語は娘の死を乗り越えるための僕たちの絆だった。満ち足りていた。でも音には別に男がいた。新しいドラマが始まる度、別の男と関係を持った。音の中にはどす黒い渦のようなものがあった。音を失いたくなかったから僕は知らないふりをした」
家福の話に耳を傾けていた高槻は「音さんは聞いてほしかったのでは?」と問いかけました。高槻はみさきがいるのを気にしているようでしたが、「彼女なら大丈夫だ」と家福は言いました。
高槻は「やつめうなぎの話のラストをご存知ですか?」と問い、家福は何者かが階段を上がってくるが、それが誰かはわからないというところで終わったと応えます。しかし、高槻はこの話には続きがあると言うのでした。
「あがってきたのは、山賀でも彼の父親でもありませんでした。ただの空き巣だったのです。空き巣は半裸に近い格好をしている女子高生をみつけると襲いかかりました。必死で抵抗した少女は男を殺してしまいます。そのままにして家を飛び出しました。翌日、彼女は山賀の様子をしりたくて学校へ行きました。しかし山賀はいつもどおりでした。家に行ってみても何もおかしなところはありません。ただ、玄関に監視カメラが備え付けられているだけで何事も起こらなかったようでした。
少女は彼女が人を殺したことで唯一変化した存在である監視カメラに向かって大きく口をあけて、声が聞こえなくても誰もがわかるように何度も叫びました。“私が殺した”と」
高槻は「他人の心の中を覗き込むことは難しい。本当に他人を見たいなら自分自身を深くまっすぐにみつめるしかないんです」と時折涙ぐみながら、家福に語りかけました。
高槻をホテルで下ろしたあと、みさきは運転しながら言いました。高槻は嘘をついていないと。嘘ばかり付く人の中で育ったのでわかるのだと。
映画『ドライブ・マイ・カー』の感想と評価
濱口竜介は、映画『ドライブ・マイ・カー』で親しい人を病気や事故で失った人々に真摯な眼差しを向けます。
家福(西島秀俊)は娘と妻を病気で、みさき(三浦透子)は母を災害で失い、2人とも自分だけ生き残ってしまったという思いと、自分の行動によっては救えたかもしれないのにという後悔を胸に秘めています。
そこには、濱口竜介が酒井耕と共に制作した被災者の「声」を聞くことをテーマとしたドキュメンタリー「東北記録三部作」や、2018年の作品『寝ても覚めても』に描かれる東日本大震災の記憶が引き継がれているでしょう。
また、前代未聞の事態であるコロナ禍において、尊い命が奪われている現在の状況を思わず重ねたくなってしまいます。
『ドライブ・マイ・カー』では「物語」が重要なテーマとして浮上してきます。子を亡くした夫婦が物語を語り合うことで絆を維持していたように、ときに物語は人々の体に入っていき、活力を与えます。
高槻が、家福を追うようにオーディションに応募してきたのも、空っぽの自分の体に入っていく音の脚本のイメージを追い求めての結果ですし、元ダンサーで、流産したために動けなくなったユナはチェーホフの言葉により体を取り戻していきます。
家福とみさきが徐々に心を開いていけたのも、家福が車内で流すテープとそれに合わせて声を出す台詞を、共有したからこそでしょう。ただ、一緒に車に乗っていただけでは、ここまで心を開けたでしょうか。
そして家福もまた、演劇『ワーニャ叔父さん』のワーニャを自身で演じる勇気を持つことで、自己とワーニャの哀しみを重ね、ワーニャがソーニャの言葉に導かれるように、その言葉を自身へと染み込ませていきます。
ソーニャであるユナがワーニャの家福を背後から抱きしめるように、手話という言葉で語りかける姿はとても感動的です。
人間の実人生と演劇の物語が重ね合わされていき、それらがリンクし交わり、人間が生きていこうとする希望を生み出す瞬間がここには描き出されているのです。
物語、演劇、そして映画というものが如何に人間の人生に深い影響を与えるのか。それが濱口竜介が語りたかった主題であるかどうかは定かではありませんが、本作を見て救われる人も、また確かに存在するのではないでしょうか。
まとめ
もう一つ、本作にとって重要なのは「本当」という主題です。この映画でもっとも驚くべきは、岡田将生扮する高槻が、車中で家福に向かって次のように語るシーンです。
でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛し合っている相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても自分がせつなくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことができるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むなら、自分自身をまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います。
この時、カメラは真正面から岡田の顔を、時々カットを割りながらもほぼ長回しで撮っています。この台詞を口にする岡田将生は神がかっていると表現したくなるほどの素晴らしさで思わず息を呑みました。
それは果たして演技だったのか。岡田将生という俳優と高槻というキャラクターが毅然一体となったような奇跡のような瞬間を観客は目撃するのです。
ちょうど、劇中でジャニスとユナが2人の場面を演じた公園での稽古風景に対して、家福が言った「今、何かが起こった」という言葉が思い出されます。「何かが起こった」忘れがたいシーンが実際ここに生まれたのです。
この台詞は、音は家福に彼女の秘密について、あるいは「裏の顔」について尋ねてもらいたかったのではないかという台詞のあとにつづくものです。
音は秘密を持っていたかもしれないけれど、それは家福が尋ねなかったから。家福は音との生活を維持するために目をつぶり知らないふりをして向き合うことを避けてきました。表面だけを装う生活が本当に幸せと言えるのか!?
これは男女や家族の関係のみならず、社会に向き合うすべての人間にあてはまることではないでしょうか。
おかしいと思ったことに声をあげず、自分の好きなことで楽しめればいいと生活していた結果、気づけば不自由で理不尽な社会に取り囲まれてしまうかもしれないのです。
さすがにそれは深読みだとしても、本作には、ごまかさず、偽らず、目を開けて本当を生きよというメッセージが確かに流れていると言えるでしょう。
それはまた、演劇という舞台においても当てはめられます。物語という虚構を演じながらも、真の演劇となるには、台詞を言い、動くことを超えた本物の息吹が生まれなくてはならない。演劇とは、虚構を演じる人間の生身の姿が真実として炸裂すること、その瞬間があるからこそ、人間の心に響くのだという濱口竜介の信念にも近い思いが、画面から伝わってきます。
『寝ても覚めても』の終盤を思わせるような北海道に向かう車からの風景やフロントグラスを真正面から移したカットなど、「ドライブ」シーンについて触れることが出来ませんでしたが、雪の風景に包まれた途端、音が消え、赤いサーブが白い世界を静かに横移動する素晴らしいショットだけで、原作の黄色を赤に変えたのも宜なるかなと思わずにはいられませんでした。