映画ラストシーンから浮かぶ“残酷な解釈”とは?
2003年にフジテレビで放映されたテレビドラマ『Dr.コトー診療所』。山田貴敏の同名人気漫画が原作の本作は大ヒットを記録。2004年の二つの特別編、2006年のドラマ2期へとシリーズは続きました。
東京から僻地の離島・志木那島へと赴任し、離島医療の過酷な現実に苦悩しながらも、島で暮らす人々の命と心に向き合う外科医・五島健助=“Dr.コトー”の姿は、これまで多くの人々に愛されてきました。
映画『Dr.コトー診療所』は、2006年のドラマ2期から16年ぶりの続編であり、19年以上にわたって志木那島の医療を担い続けてきたコトーが、シリーズが常に抱えてきた「避けようのない現実」とついに直面する様を描き出します。
本記事では映画『Dr.コトー診療所』のラストシーンにクローズアップ。ラストシーンにおける二つの「光」の画から見えてくる残酷な解釈と、その解釈から見えてくるコトー先生が夢見た「未来」考察・解説していきます。
CONTENTS
映画『Dr.コトー診療所』の作品情報
【公開】
2022年(日本映画)
【原作】
山田貴敏『Dr.コトー診療所』
【監督】
中江功
【脚本】
吉田紀子
【音楽】
吉俣良
【主題歌】
中島みゆき「銀の龍の背に乗って」
【キャスト】
吉岡秀隆、柴咲コウ、時任三郎、大塚寧々、高橋海人、生田絵梨花、蒼井優、神木隆之介、伊藤歩、堺雅人、大森南朋、朝加真由美、富岡涼、泉谷しげる、筧利夫、小林薫
【作品概要】
山田貴敏の同名漫画を原作に、2003年に1期・2006年に2期が放映されたテレビドラマ『Dr.コトー診療所』の16年ぶりとなる続編作品。
僻地の離島・志木那島の医療を担ってきた外科医・五島健助=“Dr.コトー”役の吉岡秀隆、診療所を支えてきた看護師・彩佳役の柴咲コウをはじめ、時任三郎、大塚寧々、大森南朋、朝加真由美、泉谷しげる、筧利夫、小林薫、そして俳優業を引退していたが本作のためだけに復帰した富岡涼など、おなじみのドラマ版オリジナルキャストが再結集した。
監督は、ドラマ版の演出を務めた中江功。また脚本も同じくドラマ版の脚本を手がけてきた吉田紀子が担当する。そしてドラマ版主題歌として知られる中島みゆき「銀の龍の背に乗って」が、シリーズを締めくくる本作の主題歌も担った。
映画『Dr.コトー診療所』のあらすじ
日本の端にぽつんと在る美しい島・志木那島。本土からフェリーで6時間かかるこの絶海の孤島に、19年前東京からやってきた外科医・五島健助=“Dr.コトー”。以来、“島にたった一人の医師”として、島民全ての命を背負ってきた。
長い年月をかけ、島民はコトーに、コトーは島民たちに信頼を寄せ、今や彼は島にとってかけがえのない存在であり、家族となった。また数年前、長年コトーを支えてきた看護師の彩佳と結婚し、彼女は現在妊娠7ヶ月。もうすぐ、コトーは父親になる。
コトーは、彩佳、役場の職員・和田、数年前から働く島出身の看護師・那美、そして東京から研修のため訪れた若き医師・判斗とともに、診療所を切り盛りしていた。
しかし2022年現在、日本の多くの地方がそうであるように、志木那島もまた過疎・高齢化が進んでいる。財政難にあえぐ近隣諸島との医療統廃合の話が持ち上がり、コトーにも拠点病院での指導をしてほしいという提案が伝えられる。
もしその話を引き受けたら、コトーは長年暮らしてきた島を離れることになる。それが島の未来のためになると理解しながらも、コトーは返事ができずにいた。
そんな折、島に近づく台風。毎年多くの台風の通り道となっている志木那島だが、想像を超える被害がもたらされているという話が役場に入ってくる。
次々と診療所に運び込まれる急患。限られた医療体制で対応を強いられる診療所は野戦病院と化す。そして再び、コトーたちは“家族”である島民の優しさと人の命の尊さに向き合い葛藤することになる。
時として残酷な自然、時を経て宿った新たな命、失われてゆくもの、立ちはだかる現実。
島は全てを包み込んで、人々は、そこに生きている。
映画『Dr.コトー診療所』ラストシーンを考察・解説!
美しいラストから浮かぶ“残酷な解釈”
映画終盤、重傷を負った美登里の手術を無事終え、酷い陣痛から診察室のベッドで休んでいた彩佳の元へ向かったコトーは、彩佳とお腹の中の子が安らかに眠っているのを見届けると、そのまま力尽きました。
そして映画は、日常を取り戻し再び歩み出す志木那島の島民たち、出産を無事終えた彩佳と映すと、誕生した幼な子が立ち上がり歩み出す姿、その成長を喜びながら子を抱き上げるコトーの姿によって物語を締めくくりました……。
「新たに生まれた命と、その命がすくすくと育ってゆく様を喜ぶ別の命」を象徴した父子の姿は、診察室の窓から差す太陽の光も相まって宗教画のような美しさを放ち、人間にとって「命」とは、「生きる」とは何かを描き続けてきた本シリーズの最後にふさわしい画といえます。
しかしながら一方で、その宗教画的な美しさがゆえに、考えたくない、けれどもつい考えてしまう残酷な解釈を、そのラストから想像できるのもまた“現実”です。
それは、「子を抱き上げるコトーの姿」を映し出した本作のラストは、「コトーの“末期の夢”」なのではないかという解釈です。
「光」が想像させる“願いに満ちた末期の夢”
映画前半にて、急性骨髄性白血病であることが発覚。ただちに治療を受けなくては命に関わるという中で肉体を酷使し、想像を絶する苦痛に苛まれながらも人々の治療を続けたコトー。
また一晩中となった美登里の手術も、マスクに血を滲ませながらも無事に完了させ、麻酔により意識を失っている美登里に対して「彩佳を頼みます」「彩佳と僕の子を」と声をかけていました。
無論、コトーが美登里にかけた言葉は、「これから、自身の治療のために島を離れることになる自分に代わって、彩佳と子を守ってほしい」という想いから出たものと捉えることも可能ですが、一方で「自分の肉体の限界、そして死期を、優れた医者であるがゆえに誰よりも悟っていたからでは」とも受け取ることもできるのです。
そしてベッドで眠る彩佳とそのお腹の中の子のそばで、座ったまま力尽きたコトーの姿も、その後に描かれた父子の姿と同じく、診察室の窓から差す太陽の光も相まって宗教画のような美しさを放っていたことからも、誰もが「コトーの死」を感じてしまったのは否定できないはずです。
「診察室の窓から差し込む太陽の光」という、力尽きるコトーの姿、その後の父子の姿という二つの“美しい画”における共通点……。
そこからは、力尽き息を引き取ったコトーが最期の刹那に見た“末期の夢”こそが、「日常を取り戻し、再び歩み出す志木那島の島民たち」「出産を無事終えた彩佳」「誕生し成長する我が子」、そして「子の成長を感じられる喜び」というコトーの願いに満ちた、その後のラストだったのではないかという解釈を見出せるのです。
まとめ/五島健助という命が見つめ続けた“未来”
二つの「光」の美しい画から見えてきてしまう、「コトーの死」と「コトーの末期の夢」という残酷なラストシーンの解釈。
しかし、映画が「コトーの死」を観る者に感じさせる描写で終わらせず、彼の末期の夢とも解釈できる描写によって物語を締めくくった理由は、決して「コトーの死」を悼むという目的だけでなく、彼が生き抜いた果てに最期に見た夢が「未来」の光景だという点にあるといえます。
「命を助ける」という意志のもと医者という仕事を全うし、自らの精一杯を貫き続けた中で、人々に「コトー先生」と慕われるようになった五島健助。彼が生きて、生きて、生き抜いた果てに見たものは、走馬灯を通じて回想される「過去」ではなく、過去となってゆく今を積み重ねた先に訪れる「未来」であった……。
それは、コトーが死という残酷な現実に屈することなく、傷んでしまった現在の人々の命を助けることで、人々がのちに作り出す「未来」を最期まで見据え続けてきたことの証でもあるのです。
ライター:河合のびプロフィール
1995年生まれ、静岡県出身の詩人。
2019年に日本映画大学・理論コースを卒業後、映画情報サイト「Cinemarche」編集部へ加入。主にレビュー記事を執筆する一方で、草彅剛など多数の映画人へのインタビューも手がける(@youzo_kawai)。