無人島に漂着したセレブ達、その頂点に立ったのは何故かトイレ清掃員だった!
モデル、インフルエンサー、大富豪、セレブ達が漂着した無人島で、サバイバル能力が異常に高い、トイレ清掃員が頂点に立つというブラックコメディ『逆転のトライアングル』。
設定だけ見ると、痛快な大逆転コメディのように感じるかもしれませんが、本作はそんなに甘い内容ではありません。
「格差」「平等」「ルッキズム」などが、問題になることが多い昨今ですが、人間の心の奥底に根付いた意識は、いくら時代が変化し大義名分を掲げても、そう簡単に変わるものではありません。
本作は、その人間の奥底に存在する、ある意味普遍的な感情を、めちゃくちゃ皮肉的に表現した異色の作品です。
現代人が目を逸らしがちな部分を、まざまざとほじくり返し見せつけて来る、本作の魅力をご紹介します。
映画『逆転のトライアングル』の作品情報
【公開】
2023年映画(スウェーデン映画)
【原題】
Triangle of Sadness
【監督・脚本】
リューベン・オストルンド
【キャスト】
ハリス・ディキンソン、チャールビ・ディーン、ウッディ・ハレルソン、ビッキ・ベルリン、ヘンリック・ドーシン、ズラッコ・ブリッチ、ジャン=クリストフ・フォリー、イリス・ベルベン、ドリー・デ・レオン、ズニー・メレス、アマンダ・ウォーカー、オリバー・フォード・デイビス、アルビン・カナニアン、キャロライナ・ギリング、ラルフ・シーチア
【作品概要】
ファッションモデルのカールが、恋人のヤヤと乗り込んだ豪華客船が、難破してしまったことから始まる、人間ドラマを皮肉たっぷりに描いたブラックコメディ。
監督と脚本を手掛ける、リューベン・オストルンドは、2014年の『フレンチアルプスで起きたこと』で、カンヌ映画祭のある視点部門審査員賞を受賞、その後も『ザ・スクエア 思いやりの聖域』(2017)で、カンヌ映画祭のパルムドールを受賞、『逆転のトライアングル』で2作連続でのパルムドール受賞という快挙を成し遂げ、注目されている監督です。
主演は『キングスマン:ファースト・エージェント』(2020)『ザリガニの鳴くところ』(2022)のハリス・ディキンソン。
共演のウッディ・ハレルソンが、酒浸りの船長を演じ、強烈な存在感を見せつけています。
映画『逆転のトライアングル』のあらすじとネタバレ
ファッションモデルのカールは、2年前に香水のイメージキャラクターに選ばれて以降、大きな仕事に恵まれず悩んでいました。
カールにはインフルエンサーの恋人、ヤヤがおり、ヤヤはカールの年収以上に稼いでいます。
ある日、2人はレストランへ食事に出かけます。
ですが、カールは「男性が支払うのが当たり前」と言う態度のヤヤに不満を持ち、2人は口論になります。
インフルエンサーとして、影響力のあるヤヤは豪華客船に招待され、カールはお付きとして一緒に豪華客船へ乗り込みます。
豪華客船には、肥料ビジネスで儲けたロシア人富豪のディミトリや、会社を売却し莫大な財産を持っているヨルマなど、富豪が多く乗船していました。
豪華客船の乗務員、ポーラは何とか旅を成功させ、乗客たちから高額のチップをもらおうと、他のスタッフと共に奮闘します。
ですが、マイペースな富豪たちにかき回され、トラブルが続出します。
それだけでなく、豪華客船の船長が酒浸りで、全く部屋から出て来ないことも、ポーラを悩ませていました。
豪華客船では、船長と食事を楽しむ一大イベント「キャプテン・ディナー」が用意されていましたが、船長は「気分が悪い」を連呼し出て来ません。
ポーラの説得が功を奏し、船長は「キャプテン・ディナー」に参加することを了承しますが、指定されたのは木曜日。
木曜日は記録的な低気圧が迫っている為、ポーラは反対しますが、船長は頑なに木曜日を指定します。
仕方なく「キャプテン・ディナー」が木曜日に開催されることになります。
映画『逆転のトライアングル』感想と評価
現代社会における「ルッキズム」や「格差社会」を、皮肉たっぷりに描いた映画『逆転のトライアングル』。
本作は「カールとヤヤ」「船」「島」の3部構成で展開されますが、かなり特殊な作風となっています。
まず第1部にあたる「カールとヤヤ」は、カールが恋人のヤヤと食事に行き、当たり前のように、料金を支払わされたことに不満を持つのですが、第1部は、カールがヤヤに不満をぶつける場面が、ただただ延々と続きます。
このエピソードは、本作の監督、リューベン・オストルンドの実体験らしいです。
いつまでもネチネチと、不満を漏らし続けるカールの姿が逆に面白くなってくるのですが、この第1部で「男女平等社会」の難しさを、本作は表現しています。
「君の方が稼ぎが多いのに」「君が伝票を受け取らなかったから」と延々と愚痴るカールは、誰が見ても女々しい性格に見えますが、この「女々しい」という表現も今の時代に合わない訳ですね。
カールの愚痴を一通り聞かされた後、第2部では豪華客船での旅が始まります。
この豪華客船に乗船しているのは、富豪などのセレブばかり。
そして、そのセレブたちにサービスを提供する立場となる、客室乗務員たちが翻弄される姿が、第2部のメインになります。
厄介なのが、セレブたちは、自身がワガママを言っているという自覚が無いこと。
さらに船の底で、豪華な旅を楽しむセレブたちをもてなす為に、料理や清掃など裏方として働いているのは、有色人種ばかりという、かなり皮肉的な構図となっており、第2部では「格差社会」を描いていることが分かります。
この豪華客船による船旅ですが、ウッディ・ハレルソン演じる船長の登場により、地獄絵図と化します。
波が大荒れの中で始まった「キャプテン・ディナー」。
セレブたちは、上品に振る舞い、次々に運ばれる高級ディナーを楽しむのですが、船の揺れが凄すぎて、ほぼ全員の気分が悪くなり、あっちこっちで嘔吐し始めます。
セレブが吐こうが倒れようが、客室乗務員はセレブとして対応を続け、次々に高級料理を運び続けます。
この場面では、高級料理を食べては、吐いて倒れるセレブたちの姿を、しつこいぐらいに描いています。
さらに、トイレが詰まり逆流したことで、汚れた水が船内に流れ出し、もはや「何が豪華客船か?」という光景となります。
泥酔した船長がマイクで「税金を払わない金持ち共」と演説を開始するので、最初からこれが船長の狙いだったのかもしれません。
そして、海賊に襲われ、手榴弾で船が破壊されて以降、漂流した島で始まる第3部。
いよいよセレブと清掃員の立場が逆転する、本作の本題に入る訳ですが、凄いのが、ここで主導権を握る、トイレ清掃員のアビゲイルが、映画中盤までほとんど登場しないということです。
アビゲイルが台詞を喋った時、多くの人が「誰だ?」と思ったでしょう。ですが、ここまでの主役は、モデルのカールや大人気インフルエンサーのヤヤ、そして莫大な資産を持つセレブたち。
トイレの清掃係にすぎないアビゲイルは、文字通り出番ではなかったのです。
ですが、島に漂流して以降、卓越したサバイバル技術を見せるアビゲイルが、主導権を握るようになるのですが、映画全体においても、これまでの登場人物を差し置いて、映画全体を乗っ取る程の存在感を見せます。
アビゲイル役のドリー・デ・レオンが、意識的に「幸の薄い中年女性」として、アビゲイルを演じている為、本来なら映画のメインになるキャラクターではありません。
ですが、美男美女のカールとヤヤを差し置いて、映画の中心にアビゲイルが鎮座する。
これは、完全に第3部は「ルッキズム」問題をテーマにしています。
そして、本作のクライマックスでは、助かる道を見つけ出したヤヤに、アビゲイルが襲いかかります。
アビゲイルからすれば、この島から出てしまえば、またトイレ清掃で食いつなぐ、苦しい毎日が待っているだけ。
さらにヤヤの「ここから出たら、付き人にしてあげる」という言葉が、決定打になったのかもしれません。
ただ、アビゲイルがヤヤを実際に殺したのか?は、作中でハッキリと描かれていません。
ラストは、山の中を疾走するカールの姿で本作は幕を閉じます。
このカールの失踪の意味は、ヤヤが殺されたからか、出口がみつかったからなのか、それもハッキリと描かれていません。
第1部でカールの愚痴を長々と聞かせ、第2部で嘔吐しまくるセレブをしつこい程に見せておいて、肝心のラストは、ここで終わり?と思い「今まで何を見せられてたんだ!」と戸惑いましたが、考えてみれば全部が特殊な構造の作品なので、このラストは「綺麗な映画作品」を求めている観客への、監督からの最大の皮肉なのかもしれませんね。
まとめ
『逆転のトライアングル』が最も厄介なのは、この作品を語るのに、非常に言葉を選ばないといけない部分です。
セレブと清掃員の立場が逆転するという内容は、本来なら痛快なはずなんですが、本作から感じるのは、なんとも言えない不快感です。
その不快感の要因は、アビゲイルのキャラクターなんですが、極端な悪人でも無く、かと言って善人でもない生々しさがあります。
「幸の薄そうな見た目」から、アビゲイルは本来なら、映画の中心になるキャラクターではないのです。
ですが「ルッキズム」問題が叫ばれる昨今、美男美女を差し置いて、アビゲイルのようなキャラクターが、主役になる映画作品が増えるでしょうし、増えるはずですよね?
この点に、なんとなくモヤモヤするのですが、このモヤモヤを語るには、言葉を選ばないとならず、本作は非常に評価が難しい作品で、一言で表現すれば「非常に底意地が悪い映画」です。
なんとなくですが、監督のリューベン・オストルンドは「建て前や綺麗な言葉でしか、物事が表現しづらくなった世界」に向けて、この風刺的な作品をあえて作り上げ「世の中の矛盾」を問題定義しているのかもしれません。
とにかく本作は、いろいろ特殊な構造の作品なので、リューベン・オストルンドの「意地悪な演出」を存分に楽しめる作品だと言えます。