日米の名優たちが、大阪の街を駆ける!
『エイリアン』(1979)、『ブレードランナー』(1982)、『グラディエーター』(2000)など数々の名作を世に送り出してきたリドリー・スコット監督の『ブラック・レイン』は、日本とアメリカの刑事の友情と激闘を描くサスペンスアクションです。
『ウォール街』(1987)のマイケル・ダグラス、『アンタッチャブル』(1987)のアンディ・ガルシア等、今なおハリウッドの最前線に構える名優に加え、日本からも高倉健、松田優作、神山繁や若山富三郎など、日本映画の屋台骨を支えたシブい俳優の面々がそろい踏み!
ヤクザの佐藤役を演じ、強烈な印象を残した松田優作の遺作となった作品です。
CONTENTS
映画『ブラック・レイン』の作品情報
【公開】
1989年(アメリカ映画)
【監督】
リドリー・スコット
【キャスト】
マイケル・ダグラス、高倉健、アンディ・ガルシア、松田優作、ケイト・キャプショー、若山富三郎、神山繁、内田裕也、國村隼
【作品概要】
『ブラック・レイン』は、日本とアメリカの刑事の友情と激闘を描くサスペンスアクション。『ゲティ家の身代金』(2018)『オデッセイ』(2016)など話題作の監督を務めるリドリー・スコットがまとめ上げました。
『ウォール街』(1987)のマイケル・ダグラス、『アンタッチャブル』(1987)のアンディ・ガルシア等の名優たちに加え、日本からも、高倉健、松田優作、神山繁や若山富三郎など実力派俳優が揃いました。故・松田優作演じるネオ・ヤクザ佐藤の凄みが光る作品です。
撮影には『スピード』(1994)のヤン・デ・ボン、編集は『タクシー・ドライバー』(1976)のトム・ロルフ、ハリウッド映画音楽の重鎮ハンス・ジマーなど、各分野の傑出した才能が集った超豪華オオサカ・ノワール巨編!
映画『ブラック・レイン』のあらすじとネタバレ
汚職による内部調査班からの査問、子供の養育費などの問題を抱えたニューヨーク市警所属のニック・コンクリン。彼にはまだ年若の相棒・チャーリーがいました。
ある日、2人が昼食をとっていると、レストランに日本人ヤクザの佐藤が現れ、店内にいたもう1人のヤクザの首を掻っ切って逃走します。
ニックとチャーリーの2人は佐藤を無事取り押さえますが、彼は日本で指名手配中の犯罪者だったので、大阪府警に身柄を引き渡さなければなりませんでした。
さらに2人には佐藤を大阪まで護送する任務が与えられ、内心不満のまま飛行機で大阪へ向かいます。
無事に佐藤の身柄を大阪府警側に渡し、任務完了と思われましたが、実は彼らは佐藤の一味で警官に変装していたことが判明。佐藤は一味とともに逃亡しました。
府警に協力するために2人は大阪に残ることになりました。ニックとチャーリーは府警内で部外者として扱われ、保護役として松本警部補(通称:マサ)が当てられます。ニックとマサは互いに反発し合いますが、捜査はある核心に迫っていきます。
映画『ブラック・レイン』の感想と評価
1980年代、ハリウッドはバディムービーの季節でした。
ポリスアクションでいえば、『48時間』(1982)、『リーサル・ウェポン』(1987)などが有名ですね。両作とものちにシリーズ化されています。
真逆の性格を持つ2人のキャラクターが嫌々ながらも捜査をつづけ、幾多の危険を冒しながら、最後には固い友情で結ばれる。これがバディムービーの定石と言えるでしょう。
今回取り上げる『ブラック・レイン』も基本的には同じです。
マイケル・ダグラス演じるニック(なぜかこの人が演じる役名には「ニック」が多い)と、高倉健演じる松本警部補(通称:マサ)。
ニックはニューヨーク市警のはぐれ刑事で、自分は危険を買う捜査官だから押収品をくすねるぐらいのことは当然、という考えの持ち主。早い話が汚職警官です。
一方、マサは典型的な組織人で、不正を看過せず、捜査手順に則って行動する。ただ、行動規範に縛られるあまり、独善的に捜査を進めようとするニックと比べると、やや及び腰な人物に見受けられます。
そんなヤクザ刑事と頭でっかち刑事が贈る、笑いあり涙ありの感動ドタバタ・ポリスアクション!! ───とはならないのが、本作『ブラック・レイン』です。
先に挙げた2作品のように、この映画にはカリフォルニアのカラッとした風は吹かず、気の利いたギャグも登場しません(キャストの島木譲二もガッツ石松もギャグは封印しています)。
舞台は陰気くさい大阪の夜の街、いわくありげな女が現れ、頭上には煌々とネオンサインが瞬き、行き交う人々の間にはスモークが立ち込めている。『ブラック・レイン』は、ただのバディムービーではなく、まさに「オオサカ・ノワール」とも言えるでしょう。
そして、この雑然とした世界観と、それを構築したリドリー・スコット。この並びに見覚えがありませんか。
ネオ・ノワールとしての『ブレードランナー』
参考:映画『ブレードランナー ファイナル・カット』
1968年にSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』がフィリップ・K・ディックにより刊行され、同作は1982年、リドリー・スコットによって『ブレードランナー』として映画化されます。
『ブレードランナー』で描かれたのは、近代以降に華々しく謳いあげられた「科学の進歩」や「人類の進歩と調和」をまるっきり覆した世界でした。
2019年のロサンゼルスには、酸性雨が降りしきり、建物は朽ち果て、路上では貧困者が徒党を組んで悪さをしています。街には洋の東西を問わず様々な建築、ネオン看板が乱立し、多言語が飛び交い、秩序だった様子はありません。
たしかに科学は資本主義と連携しながら進歩しましたが、その過程で環境問題や貧困問題は反故にされ、地球は耐えきれず、富は大資本家に集中し、もはや都市としては進歩どころか退化しているかの様です。
大資本家(タイレルコーポレーション)は「レプリカント」なる人造人間を製造し、奴隷として労働に従事させましたが、やがて彼らの一部に感情が芽生え、ロイ・バッティを首謀者に人類への復讐を企てます。
科学技術の推進はかえって混沌を招き、ロイ・バッティという悪魔の産物を生みだしてしまった。人類は、みずから敵を作り出してしまったのです。
ブラック・レイン=「黒い雨」の意味
「ブラック・レイン=黒い雨」について、作中の菅井(オヤブン)は以下のように説明しました。
「戦時中、アメリカの爆撃は黒い雨を降らせた。黒い雨とはお前たちアメリカ人の価値観だ」
終戦後、日本にはアメリカ軍が進駐し、その時点を分水嶺に、アメリカの資本が日本に流入しました。資本主義、民主主義を拡大させる中で、伝統的な文化や民族的な思想を隅に置き、あらゆるものをアメリカナイズしたのです。
菅井のような伝統的ヤクザ達は本来、疑似的な血縁関係で結ばれ、地域に根差し、上下関係や「仁義」を貴びますが、戦後生まれの佐藤にはその考えがまるでありません。
菅井は組の秩序を乱す拝金主義的な男・佐藤を生みだしたのは、アメリカのせいだと指摘。そして、ヤクザが偽ドル札を大量に刷るのも当然の「仕返し」だとします。
欧米が大手を振って推し進めた戦後資本主義体制は、佐藤という国際秩序を脅かす反乱分子を作り上げてしまったのです。
ニックを通して世界が目の当たりにしたのは、従来のステレオタイプな日本人ではなく、暴力性と知性を兼ね備えた新たな日本人像でした。
まとめ
今でこそカルト的な人気を誇る『ブレードランナー』ですが、1982年の公開当時は興行的に難航を強いられました。80年代のヒーローアイコンを思い描いてみてください。
スタローン、シュワルツェネッガー、チャック・ノリスなど、数々の肉体派ヒーローがスクリーンを席捲しましたね。しかし、同じヒーローの位置づけでありながら、なぜハリソン・フォード演じるデッカードは受け入れられなかったのか。
それは、リドリー・スコットが『チャイナタウン』(1974)の世界を、1982年にそのまま再現してしまったからです(とはいえ、監督の意向ですから「してしまった」という表現は語弊があるかもしれませんが……)。
ロマン・ポランスキー製ノワール『チャイナタウン』は言わずと知れた名作ですが、主人公の探偵ジェイクは巨大な陰謀に、なすすべなく敗北してしまいます。
もう一度、先の3人の映画を思い出してみてください。彼らは外敵に勇猛果敢に立ち向かい、自らの正義を大上段に構え、最後には必ず打ち勝ちました。
しかし、デッカードはバッティを前に手も足も出ず、しまいには敵前逃亡しようとします。最後には、自分と恋人をつけ狙う組織を相手取って戦うのかと思いきや、不安な面持ちで額に脂汗をかきながら、またも逃げてしまいます。
『チャイナタウン』に代表されるリアリズム映画は、とっくに衰勢を迎え、80年代の大衆は「弱腰」のデッカードを受け入れなかったのです。
対して『ブラック・レイン』では、ニックとマサが手を組み、幾多の困難を乗り越えながら、映画はハッピーエンドで幕を閉じ、大衆はヒーローとしてニックを迎えたはずです。ここが『ブレードランナー』と『ブラック・レイン』の相違点と言えます。
ただ、もし『ブレードランナー』が当時そのまま受け入れられたとしたら、本作『ブラック・レイン』もまた違った趣の映画に仕上がっていたでしょう。