まるで自分をみているような映画『わたしは最悪。』
優秀で才能あふれる20代後半の女性・ユリア。なんでもそこそここなすけれど、行き詰まるといつも思う「これじゃない」感。
大胆で好奇心旺盛な彼女が出会った運命の男性・アクセル。年上で知的な彼との幸せな生活の中で感じ始めた違和感は、やがてユリアを彼とは全く違う男性・アイヴィンへと向かわせます。
ユリアの選んだ未来とは?
映画『わたしは最悪。』の作品情報
【公開】
2021年(ノルウェー・フランス・スウェーデン・デンマーク合作映画)
【原題】
The Worst Person in the World
【監督】
ヨアキム・トリアー
【脚本】
エスキル・フォクト、ヨアキム・トリアー
【キャスト】
レナーテ・レインスヴェ、アンデルシュ・ダニエルセン・リー、ハーバート・ノードラム、マリア・グラツィア・ディ・メオ、ハンス・オラフ・ブレンネル、マリアンヌ・クローグほか
【作品概要】
ノルウェーの首都オスロの街を舞台に、チャーミングなアラサー女性がタイプの違う2人の男性の間でゆれうごくロマンティックなラブストーリー。と言い切ってしまうのははばかられるほど、この映画は人生の岐路に立ったすべての人の共感を呼ぶ普遍的な作品です。
監督はデビュー作『リプライズ』(2006)でノルウェー・アカデミー賞の最優秀ノルウェー作品、監督賞、脚本賞を受賞したヨアキム・トリアー。その『リプライズ』と『オスロ、8月31日』(2011)、そして本作は「オスロ三部作」といわれ、いずれもアンデルシュ・ダニエルセン・リーが出演しています。
脚本はトリアーと、彼の全作品で共同脚本を担当しているエスキル・フォクト。前作『テルマ』(2018)のスーパーナチュラル・ホラーテイストから一転、リアルでオシャレなオスロの生活と、そこに暮らす人々のさまざまな問題を描き出しています。
主演のユリヤを演じたのは、『オスロ、8月31日』(2011)にも出ていたレナーテ・レインスヴェ。まだ大人になりきれていないと感じている大人のための映画を撮りたいと思ったトリアーは、彼女を想定してユリア像をつくり上げたといいます。
その期待に応えたレインスヴェは本作でさまざまな表情で観るものを惹きつけ、第74回カンヌ国際映画祭の女優賞を受賞しました。
映画『わたしは最悪。』のあらすじとネタバレ
序章
医大に進んだユリヤは、自分が興味あるのは“肉体”ではなく“魂”だと気づきあっさりと心理学の道に転向してしまいます。
恋人と別れ、講義担当の教授と寝たりしたもののこれもなにかちがう。そして自分は“視覚”の人間だとひらめき「写真家になる!」と母に宣言します。
大学を辞め、本屋で働きながら写真の仕事を始めたユリヤは、関係を持ったモデルの男と訪れたギャラリーカフェでグラフィック・ノベル作家のアクセルと出会います。
「ボブキャット」というひどい性差別表現のある作品を描いている彼はユリヤより15歳年上で、本人は知的で穏やかな人物でした。
その日すぐに彼のアパートで夜を共にしますが、年齢差を理由に彼はもう会わないと言います。その一言でユリヤは恋に落ち、ふたりはその部屋でいっしょに暮らし始めます。
第1章:ほかの人々
週末、ふたりはアクセルの実家で過ごします。海辺の家には兄夫婦も子どもたちを連れて来ていました。
その夜、アクセルはユリヤに子どもがほしいと言ってきました。40歳を過ぎ、成功も手に入れたアクセルは安定した家庭を望んでいます。
しかしユリヤはまだ自分探しの途中。いつかは欲しいけど今じゃない。ふたりは険悪な雰囲気になってしまいます。
第2章:浮気
アクセルの出版記念パーティに出席しているユリヤ。所在なさげな彼女はバルコニーでタバコを吸い、戻るとだれかに「なんの仕事をしているの?」と聞かれます。
本屋でパートをしていると答える彼女の視線の先には、サインを求められるアクセルの姿。
「先に帰るね」とユリヤはひとり、エーケベルグの丘を歩いておりていきます。しばらく夕陽を眺め、彼女は涙ぐんでいました。
通りがかりに見かけたパーティに勝手にまぎれこむユリヤ。そこで知り合った同年代の男性に興味を持ったユリヤは積極的に話しかけます。
お互いパートナーがいるので際どい会話を楽しみながらも一線は越えないふたり。しかし行動はどんどんエスカレートしていきます。
結局キスをすることなく朝まで過ごした2人は、「ユリヤ」「アイヴィン」とファーストネームだけを教え合って帰ります。浮気じゃないよね、と確認しながら。
第3章:#MeToo時代のオーラルセックス
ユリヤは突然目覚めたように原稿を打ち始めます。「#MeToo時代のオーラルセックス」というタイトルのその文章を読んだアクセルは、全部は賛同できないけれど独創的でよく書けているとユリヤをほめ、発表するよう促します。
ブログにアップしたその文章は反響を呼び、ユリヤは少し自信を持ちました。
第4章:わたしたちの家族
ユリヤの実家で迎えた30歳の誕生日。幼いころ離婚した父は腰痛がひどいと言って欠席です。女手一つでユリヤを育てた母は怒りますが、ユリヤとその祖母に諭されます。
数日後、ユリヤとアクセルは父の家を訪れます。いまは妻とティーンエイジャーの娘のいる父。身体の具合は悪そうですが、娘のことは大層可愛がっているようです。
愛情を受けずに育ったユリヤの気持ちを察して父を責めようとするアクセルを彼女は力なく制します。
帰りのバスでアクセルは「君は自分の家族を持った方がいい」とユリヤに声をかけるのでした。
第5章:バッドタイミング
ユリヤの働く本屋に偶然アイヴィンがやってきます。彼はパートナーの女性といっしょでした。忘れ物をしたとひとりで戻ってきた彼は「ずっと考えてた」と言い、湾岸地区のオープンベーカリーで働いていると言って去っていきました。
その夜、アクセルの兄夫婦と夕食をともにしたユリヤは彼らの会話には加わらずぼーっと聞いていました。
翌朝。ユリヤのためにアクセルがコーヒーを入れようとしたとき、ユリヤが電気のスイッチを押した瞬間彼の時が止まりました。
ユリヤが外に出ていくと、彼女以外のすべてが止まっていました。ユリヤはオスロの街を走り、アイヴィンの店へと向かいます。
そこでは彼だけが動いており、ふたりはすかさずキスをします。外へ出てまたキス。そしてオスロの恋人たちが巡るコースを歩いていきます。
一日中歩き回り、薄闇の夜がきても2人は高台の公園のベンチに座っています。これからどうするべきか悩む2人。やがて朝になり、キスをして2人は別れます。
再びキッチンでユリヤがスイッチにさわるとアクセルの時が動き始めます。そして彼女は「話があるの」と言って別れ話を切り出します。
アクセルは動揺し、別れるくらいなら子どもはいらないとまで言いますが、ユリヤの決心は変わりません。
どこに住むとか何も決めてはいないし1人になるのはこわいけど、ずっと考えていたと話すユリヤ。最後に身体を重ね、「いつか元に戻るかも」と言いながらユリヤは出ていきました。
第6章:フィンマルク高地
アイヴィンと恋人スニバは高地にテントを張っています。早朝、気配を感じたスニバは大きなトナカイに遭遇し触れることに成功します。
その神秘的な体験に感動した彼女は、その地の先住民族サーミ人について調べ始めます。DNA鑑定でサーミ人の血が3.1%入っていることを知ったスニバは、気候変動を憂い、先住民族の権利を擁護する活動に傾倒していきます。
アイヴィンがそんな生活に疲れ始めたとき、ユリヤと出会ったのです。
第7章:新しい章
アイヴィンと暮らし始めたユリヤ。彼は別れたあともスニバのインスタをフォローしていました。
スニバはヨガのポーズをアップしていてそのフォロワーは3万人。ユリヤはセクシーなポーズのスニバに嫌悪感を抱き、フォローにも不満そうですがアイヴィンは環境問題にアクセスしやすいのではずそうとはしませんでした。
映画『わたしは最悪。』の感想と評価
序章、終章とそれにはさまれた12章からなる物語。最初に映画の構成を提示することで、観客の現在地を明確にし先の展開を期待させることに成功しています。
出来事が短い章でまとめられ、簡潔なタイトルのおかげでこれから起こることへの対応速度が上がり、理解が深まったことはこの作品の満足度を大きく上昇させました。
物語の内容としては、観る前のイメージを良い意味で裏切られました。
予告編をみたときはちょっとファンタジックな要素のある不倫物?と思わされ、映画の序盤ではこの調子でこの主人公大丈夫なの?と危うい印象を持ちましたが、やがてそれはあっという間に“共感”へと変わっていきました。
根拠のない自信、いつか何者かになれるという期待、家族やしがらみに縛られず自由に生きたいという願望、才能ある他人への嫉妬…
この映画は若い女性の成長物語として描かれていますが、これらの感情はだれにでも経験がある、またはおそらく経験するものであり、年齢や性別を問わず共感できるものでしょう。
人生はうまくいかないこともある。ではそこから何を学ぶのか。経験者の意見を聞くことと同じくらい、聞かないことも大切なのかもしれません。
失敗して初めて知る痛み。その痛みの分だけ人は優しくなれるのだと教えられた気がします。
ジェンダー先進国・ノルウエー
絶賛自分探し中の主人公ユリヤはなにをやっても長続きしません。でもおそらくそれは「まだ本気出してないだけ」と本人は思っています。または本気を出せるものにたどり着いてないだけ、かもしれません。
そしてユリヤは他人から仕事について質問されるたび、現実に打ちのめされていきます。この映画では何度もそういった場面が出てきます。
ノルウエーは男女平等の先進国で、最近は常に世界のトップ3に入っています。とはいえ実際には非正規で働く女性もまだまだ多く、国民の意識として女性も男性に負けないようにどんどん働くべき、という意識が強いようです。
そのプレッシャーの中、女性たちは何者かにならなければともがき、子どもを持てば仕事と子育てを両立させなければと焦っているのです。
ユリヤはフェミニズムを意識して#MeTooについて文章を書いたりしていますが、それほど強い関心は持っていないように見えます。
そもそも「ボブキャット」の作者とつき合ったりする時点で違います。それは父親不在で育ち、父性を求めていたからかもしれません。
その後彼女は父と決別し、アクセルとも離れますが、人の生死と向き合うことで成長していきます。
この作品の脚本は2名の男性ですが、性差別を含む作品を発表するアクセルとも、彼にかみつくフェミニストとも適度な距離を置き、バランスの良い立ち位置になっていると感じました。
主人公ユリヤもアクセルも日常生活ではあまり感じさせませんが、作品や酔ったときのふとした発言からその考え方が表れます。そのさじ加減が絶妙で、過激に、時に滑稽に描かれる活動家スニバとは対照的です。
魅力的なオスロの街
この映画を観るまで、正直オスロのことはノーベル平和賞の授賞式が行われる街というくらいしか知りませんでした。
でも、俳優たちの演技に匹敵するくらいの大きな魅力となっているのがこのオスロの街なのは間違いありません。
特筆すべきは空、そして空気感の美しさです。
序盤はまず夜の闇がありません。詳しい時刻はわかりませんが、夕方のような明るさの時分に子どもたちは寝かしつけられ、大人たちはその後も外で酒と会話を楽しみます。薄闇のまま時間は過ぎ、いつの間にか美しい朝が訪れるのです。
山に囲まれた緑の多い土地で海もあり、なだらかな坂道、街を見下ろせる高台の公園からは美しい街や入り江の風景を望むことができます。
そして自然豊かなのに街中はスタイリッシュでオシャレ。コーヒーを愛するお国柄なので人々はいつもそれを飲み、バリスタのいるコーヒーショップも多いそうです。オスロ、一度は行ってみたい場所になりました。
ちなみにアクセルのパーティが行われたエーケベルグの丘は有名な絵画・ムンクの「叫び」の舞台だそうです。
まとめ
監督のトリアーは、我々が選択肢の多い時代に暮らしているといいます。
インターネットで常に膨大な情報に触れ、SNSで世界中の人と瞬時につながることのできる現代。結局何を、誰を選べばいいかわからなくなってしまっています。
自由だけど複雑。我々はむずかしい時代に生きているといえます。それでも「現代の女性は結婚する必要も、ある程度の年齢で子供を持つ必要もない。」という監督の視点が、この映画を優しく包み込み、ユリヤに希望を与えています。
自己肯定感の低い自分を「最悪」と感じる、それは誰にでもあることです。そして他人との関わりの中で成長し、大切に思ってくれるだれかに「最高」と思われる、それこそが本当の幸せなのだと、この映画は教えてくれました。