世界各国の映画祭に正式出品され、ショッキングな内容から新宿シネマカリテの「カリコレ2018」上映時にも話題となった映画『歯まん』。
待望の作品が2019年3月2日(土)からアップリンク渋谷にて公開されます。
そんな衝撃作の『歯まん』のあらすじと、作品の見どころをご紹介していきます。
映画『歯まん』の作品情報
【公開】
2019年3月2日(日本映画)
【脚本・監督】
岡部哲也
【キャスト】
馬場野々香、中村無何有、小島祐輔、水井真希、宇野祥平
【作品概要】
モントリオール世界映画祭、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭などの映画祭で話題沸騰。
石井裕也監督や豊島圭祐監督の現場で助監督を務めた岡部哲也監督が、満を持して書き下ろし脚本を映像化。
インディーズ界からも珠玉の俳優陣が揃い、衝撃のラブストーリーが綴られます。
映画『歯まん』のあらすじ
ホテルの一室。高校生のカップルが初めてのセックスに臨んでいます。
遥香(馬場野々香)と洋一(中村無何有)は互いに身体を求め合い、体位を変えながら、息を荒げていきます。
そのまま絶頂に達すると思った瞬間でした。妙に鈍い音が響き、あたりはたちまち鮮血で染め上げられるのです。
洋一は激痛に悶えますが、茫然自失の遥香は血しぶきを顔に浴び続けます。鮮血は二人の交接部分からなおも噴き上げています。
我に返った遥香の呼びかけに洋一は応えません。すでに息はありませんでした。
遥香は、鏡に映る自分の姿に思わず恐怖します。「私は初めてのセックスで人を殺した。愛する人を」遥香はやっと状況を把握するのでした。
翌朝、ホテルでの出来事がすぐにニュースになっていました。
病院に搬送された洋一はそのまま息を引き取ったのです。遥香は生きた心地がしません。「人殺し」という言葉が頭をよぎり、幻聴や幻覚に悩まされ、悪夢をみるようになります。
その日から彼女は学校へも通わなくなりました。遥香はあまりの不安と苦しみからカフェで突然泣き出してしまいます。
すると近くの席にいた男性がそっと駆け寄ってきてハンカチを渡してくれるのです。男性はすぐに店を出ていき、遥香はハンカチで涙を拭います。
学校へは行かずに道草をしてやり過ごすを日々を続けて、何日かが過ぎたある日、橋の上で悲しみに暮れていると、トラックで通りかかった八百屋の男(宇野祥平)が話しかけてきます。
初めは心配する様子の男でしたが、遥香を無理矢理車に乗せ、連れ去ります。豹変した男は山奥で遥香を犯すのです。遥香は泣き叫びます。しかしその抵抗むなしく、女性器が再び男性器を食いちぎるのでした。
八百屋の死体を引きずっていく遥香。相当な重量があり、なかなか前へ進めません。そこへまたしてもトラックが通りかかります。
しかし今度は、カフェでハンカチをくれたあの男性でした。帰り道だからといって、何も理由を聞かずに死体を一緒に運び始める祐介(小島祐輔)。
共犯関係になった二人は急速に心を通わせていきます。遥香は束の間の幸せを過ごしますが、好きな人を殺してしまうという宿命がこの後、彼女をさらに苦しめていくことになるのでした……。
映画『歯まん』の感想と評価
『歯まん』で描かれる深遠なテーマ
「人を殺したいほど愛する。殺されてもいいほど誰かを愛する。そういった究極的な愛に憧れていたんです」
とにかく性描写に拘ったという岡部哲也監督のこのコメントからすぐに思い至るのは、フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユによる“エロス”の発想です。
バタイユは「エロティシズム」を「死におけるまで生を称えること」(ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』)と定義しています。
それは、わたしたちの生がもともと死によって貫かれているということを意味します。相手を殺したいほど愛しているというような表現があるように、人間の生の最たる形である愛は、その対極にある死と表裏一体なのです。
性行為の時、わたしたちは日常では得られない快楽を感じ、今まさに生きていると実感するわけですが、快楽が絶頂を迎えるとエネルギーが放出され、今度は極度の疲労感を覚えます。それはまさしく死に近い感覚と言え、生の充溢は死への強い欲求(タナトス)を導くのです。
絶頂を迎えると女性器で男性器を食いちぎってしまう遥香は相手に文字通りの死を与えることになります。
しかしそれこそが監督が思い描いた「究極の愛」(エロスとタナトス)なのです。本作では人間という存在の“生と死”のあり方そのものを問い続けていきます。
少女の受難劇
参考映像:大島渚監督の『愛のコリーダ』(1976)
本作に似たモチーフをもつ作品に『愛のコリーダ』(1976)があります。
1936年に実際に起きた「阿部定事件」を扱った巨匠・大島渚監督の代表作です。
愛人男性を独り占めしたいがために、相手の局部を切断してしまいます。ショッキングな内容では両作の間には通じるものがありますが、“愛の闘牛”(コリーダ)となった定と、本作の遥香ではキャラクターに大きな相違があるでしょう。
定は徹底して男性器に拘る愛欲に駆り立てられているのに対して、遥香は男性器に対する強い恐怖を抱いています。
いずれの場合も、所謂“ペニス羨望”と呼べる心理状態と言えるでしょう。これはオーストリアの精神医学者ジークムント・フロイトが提唱した学説です。
先ほどのエロスとタナトスという概念もフロイトによるものですが、ペニス羨望は、女性がもともと自分にはない男性器、つまりペニスを追い求める心理のことを指し、出産を経験すると、生まれてきた子どもがペニスの代理物となることで欲望は自然となくなっていくと言われています。
定の場合は母親になることでペニス羨望を解消することが出来るかもしれませんが、そもそも生殖が困難である遥香には終止符の打ちようがありません。そんな終りなき“受難劇”が意味するものとは何でしょうか。
この世の“絶望”を背負う主人公の宿命
遥香の孤独にはまるで希望がありません。誰かを愛したくても愛せない。しかしこれは別に彼女にだけ限ったことではなく、すべての人に同じく言えることです。
わたしたちは、日々、日常の雑事に精神を擦り減らしながらも、一方で精神の深い部分では正常を保つために、自分に寄り添ってくれる優しい“他者”をもとめています。
わたしという存在は一人でいることは出来ないのです。
ではもし思うような相手が見つからなかった時にはどうなってしまうのでしょう。
“かけがえのない人”がいないことに焦りを感じ、いつしかそれがオブセッションとなってわたしたちの精神をさらに疲弊させていきます。
ここで思い出されるのは、祐介と出会った直後に遥香の前に現れた、祐介の姉を名乗るみどりという女性が語っていたことです。
セックスをしている時だけ、自分は必要とされていて、この世界と繋がっているという実感が湧いてくる。それはまさに遥香にも言えることでしたが、彼女の場合、そうした繋がりが自らの宿命によっていつでも断ち切られてしまうのです。
自分はこの世界には位置づけられていないという感覚。絶対的な孤独を強いられている遥香というキャラクターは、この世の“絶望”を一身に背負う、マージナルな存在として生きていく他ないのです。
まとめ
罪のない一人の少女のあまりに孤独な姿を目撃したわたしたちは、何とか彼女に愛を知ってほしいと願わずにはいられません。
主人公の魂の彷徨に寄り添う内に、それまでおぼろげだった愛の謎が解きほぐされていく映画体験には不思議な感動があります。それこそが監督の真の狙いであったはずです。
この作品は観客の“祈り”と“信頼”によって支えられているのです。そうして初めて、『歯まん』は映画としての価値を自ずと持ち始めるのではないかと思います。
岡部哲也監督の初監督作品『歯まん』は2019年3月2日(土)よりアップリンク渋谷ほかで全国順次公開!