第67回米国アカデミー賞にて作品賞ほか6部門を受賞した名作『フォレスト・ガンプ/一期一会』
今回ご紹介する映画は『フォレスト・ガンプ / 一期一会』です。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズのロバート・ゼメキス監督と『グリーン・マイル』(1999)『プライベート・ライアン』(1998)などで知られるオスカー俳優トム・ハンクスが贈る、米アカデミー賞で作品賞含む部門を受賞した感動作です。
1995年の日本劇場公開からおよそ25年の時を経た今年、時代に翻弄されながら懸命に生きるフォレスト・ガンプの姿が、色鮮やかな4Kニューリマスター版でスクリーンに蘇りました。
人生を豊かにしてくれる沢山のの名言・名ゼリフや時代を象徴する名曲の数々。大きな変革を迎えた現在、激動の時代だからこそ胸に響く、今なお色褪せない映画史に残る傑作『フォレスト・ガンプ / 一期一会』は、どういう評価だったのでしょうか。
CONTENTS
映画『フォレスト・ガンプ / 一期一会』の作品情報
【公開】
1994年(アメリカ映画)
【監督】
ロバート・ゼメキス
【脚本】
エリック・ロス
【出演】
トム・ハンクス、サリー・フィールド、ロビン・ライト、ゲイリー・シニーズ、ミケルティ・ウィリアムソン、ハーレイ・ジョエル・オスメント、マイケル・コナー・ハンフリーズ、ハンナ・ホール
【作品概要】
1985年のウィンストン・グルームの小説「フォレスト・ガンプ」を『アリー/ スター誕生』『DUNE/デューン 砂の惑星』の脚本で知られるエリック・ロスが脚色し映画化。
監督を『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズのロバート・ゼメキスが務め、第67回アカデミー作品賞、第52回ゴールデングローブ賞ドラマ部門作品賞を受賞。
音楽を手掛けたのは、ロバート・ゼメキス監督作品や『アベンジャーズ』シリーズの音楽で知られるアラン・シルヴェストリ。
映画『フォレスト・ガンプ / 一期一会』のあらすじ
空から舞い降りてきた羽根が、バス停のベンチに座るフォレスト・ガンプの足元へと落ちます。それを拾ったガンプはカバンの中の絵本に挟み、同じベンチに座った女性に、自分の人生について話し始めました。
はじめて学校へ行った日。
スクールバスに初めて乗ったガンプは他の子どもたちが一緒に座るのを拒否するなか、隣に座るように言ってくれるジェニーという少女と出会います。当時を回想するガンプはその時のことを「世界中で一番美しい声を聞いた時のことは覚えてる」と語ります。
ジェニーと仲良くなり、一緒に遊ぶようになったガンプ。彼女はアルコール依存症の父親から性的虐待を受けており、しばらくして祖母に引き取られることになります。
脚が不自由なガンプはそのことでいじめられっ子から目を付けられており、石を投げられていました。
車で追いかけてくるいじめられっ子から必死に走って逃げていたとき、足につけていた矯正具が外れ、ガンプは走る才能に目覚めたのです。
やがて彼は足の速さを認められ、アラバマ大学へアメフト推薦で入学。ボールを渡されたら必死に走るという役目を全うし、チームを優勝へと導きます。
1963年、アラバマ州知事ジョージ・ウォレスが黒人の入学を認める大統領令を拒否する騒動が起こった際にガンプはその場に居合わせていました。結局大学側も入学を認め、ウォレスはその後大統領選へと立候補。暗殺されかける事態になったとガンプは語ります。
全米代表のアメフトチームの一員にまで選ばれたガンプは、ケネディ大統領と面会します。
大学卒業後、進路が決まっていなかったガンプは軍隊に入隊。言われたことだけを行い、全ての受け答えが「はい、軍曹殿」で済む軍隊はガンプに向いていました。
初日のバスで黒人の入隊兵ババ・ブルーと出会うガンプ。ババは、エビ採り船を買うために入隊したのです。
入隊からしばらくして、ジェニーがメンフィスのナイトクラブに出演していることを知ったガンプは、彼女の様子を見に行きます。
ストリップ芸でフォークソングを歌わされているジェニーを絡んでくる客から助け出そうとするガンプ。ジェニーはガンプのお節介を鬱陶しく思っていました。
60年代末期のガンプはベトナムの戦場にいました。ガンプとババは、ダン・テイラー中尉の隊に入ります。
ババとガンプは戦争が終わったらエビのビジネスを一緒にやろうと話していました。
しかし彼らの分隊はベトナム兵の銃撃を受け、多くの仲間が殺されてしまいます。
ガンプは負傷した隊長のダンを救出した後、重傷のババも見つけ運び出しますが、「家に帰りたい」と言い残してババは死んでしまいます。
軍の病院にて、ガンプの横のベッドには膝から下両足を失ったダン中尉が入院中でした。
入院中特にやることも無かったガンプは、何の気なしにはじめた卓球に夢中になり、みるみる上達していきます。
アメリカへ帰国したガンプは、ジョンソン大統領から名誉勲章を受けました。
それからワシントンで反戦集会に出会したガンプは、成り行きで群衆の前でのスピーチを求められます。ベトナムでの悲惨な経験を訴えようとするガンプでしたが、マイクの配線を切られてしまい、彼の訴えは群衆に届きません。
演説するガンプの姿に気付いたジェニーがガンプのもとへと駆け寄り、2人は再会を果たします。
ガンプはジェニーが出入りしていたブラックパンサー党の会合に参加するも、ジェニーに手をあげるヒッピーの仲間を殴り倒したことで会合から追い出されてしまいます。結局ジェニーはヒッピー仲間たちとバスで去っていきました。
兵役を無事勤め上げたガンプはその後腕を買われ、卓球のアメリカ代表となり、中国での試合に望みます。
彼の活躍はアメリカ中に知れ渡り、それがキッカケでジョン・レノンとのトークショーにも出演。収録を終え、スタジオの外に出たガンプを待っていたのは車イス姿のダンでした。再会を果たしたダンとガンプは一緒に新年を迎えます。ガンプはダンに、ババとの約束通りエビ採り船を買って船長になる計画を話します。
ウォーターゲート事件に出くわした後、ガンプは軍を除隊し、アラバマの自宅へと帰ってきました。
卓球のラケットを宣伝して2万5千ドル手に入れたガンプは、エビ採り船を購入。船に世界一美しい名前「ジェニー」と名付けました。
70年代はコカイン全盛期。当のジェニーはその頃、薬漬けの生活を送っていました。
足を失い自暴自棄になっていたダンでしたが、ベトナム戦争中「おまえがエビ採り船の船長になったら、おれが一等航海士になってやる」というガンプとの約束を果たし、エビ漁に合流。
はじめはなかなかうまくいかないものでしたが、沖にでているとき、ハリケーンがやって来てガンプのエビ採り船が唯一被害を受けなかったことから、大量のエビが採れるようになり、2人は大金持ちに。エビ採り漁を約束していた今は亡き親友、ババの名前を取った会社「ババ・ガンプ・シュリンプ」も急成長を遂げました。
映画『フォレスト・ガンプ / 一期一会』の感想と評価
序盤と終盤にて印象的に登場する、バスを待つフォレスト・ガンプのもとに舞い落ちる羽が象徴しているのは、人生の巡り合わせや運命。監督のロバート・ゼメキスは「人生は風によって彷徨うようなもの、人生の不思議さこそが本作のテーマである」と語っていました。
クー・クラックス・クランの最高指導者、ネイサン・フォレストにちなんで名づけられたフォレスト・ガンプ。
「人間は馬鹿なことをする」という戒めのために名付けたというガンプの母親は、決して奴隷制を礼賛していたわけではないということは、ガンプのモノローグから理解できます。
「馬鹿な行いをする者が馬鹿である」と母親から教わったガンプは、生まれながら純粋ゆえに正直者として育っていきます。
ガンプの生まれながらの純粋さには、他の子どもよりも知能指数が非常に低いという理由付けがされています。
激動の時代に翻弄されながらも、その純粋さゆえにガンプはある種、悟りの境地に至っているかのように一貫した姿勢を見せます。
知能指数が低いから純粋であるという理屈からは、無心を体現する朴念仁のようなガンプの人物像が見えてきます。
では、難しいことを考えず(考えられずに)行動することが監督がガンプに託した理想的なアメリカ人の姿なのか。フォレスト・ガンプという「理想化」された人物を主人公にした本作を鑑賞する上で最も考えさせられるテーマ、問題提起はここにあります。
無心のままアメフト選手になり、従軍し、卓球アメリカ代表になり、エビ漁で儲け、アメリカを横断し、純粋だからヒッピーで自堕落な生活を送り感染症で余命僅かの身になりながら自分の子供をひとりで育ててきた幼なじみのジェニーと結婚したガンプの人生こそが正直者が送るべき理想の人生だったのでしょうか。
「純粋に生きることこそ理想」という前提自体に疑問を抱いてしまう観客は本作をどう受け取れば良いのか。
結論を先に言ってしまうと、本作は現代的な映画ではない、少なくとも今の映画として評価することは出来ないということになります。
しかしながら、映像技術、語りのテンポ、後付けの説明に依存しない鮮やかな回想シーンなど、本作が映画作品で非常に優れた傑作であることは疑いようがありません。
理想のアメリカとは何だったのか
18世紀の英国貴族を描いたスタンリー・キューブリック監督作品『バリー・リンドン』(1976)が当時のロマン主義の絵画を絵コンテがわりにしたように、本作もガンプの少年時代を描く回想シーンにおいてアメリカの画家、ノーマン・ロックウェルの郷愁を誘うようなイラストを意識した画面作りをしています。
アメリカの古き良き時代を描いた絵画を踏襲したことにより、ガンプによる人生の回想がノスタルジーに結びついていると分かります。
本作最大の見どころは、「歴史上の重大な事件の影には常にフォレスト・ガンプがいた」という描写を実際の映像を使用して演出しているところでしょう。ジョン・レノン、ケネディ、ニクソンの映像にガンプの姿を合成することで、20世紀アメリカ史とガンプとの関わりにリアリティをもたらしています。
今でいうところの別の人物の顔に俳優の顔を合成するディープフェイクのはしりのようなもので、偽の歴史のクオリティを何段も向上させた本作のILMによるVFXは前年に公開された『ジュラシック・パーク』(1993)同様に革新的なものでした。
人生の歩み方にまつわる名言の多い本作は感動のヒューマンドラマという脚色に印象を引っ張られがちですが、本質は実際の映像を使用してまで、しょうもないホラ話にリアリティを与えようとするコメディです。
歴史的重大事件に毎度立ち会っていながら、そのどれにも干渉していないというご都合は、ガンプが個人的な思惑や動機を一切持たない空虚な人物だからこそ成立するギャグでした。
ただ、本作で描かれる20世紀アメリカ(50年代~80年代まで)の重要事件は重要度に関わらず選ばれており、その点が問題視されています。
端的に言えば、監督や脚本家が伝えたいメッセージを補強してくれる事件だけを選り好みして都合の良い歴史を描いているように見えるのです。
政治的バイアスがかかっているのか批評する際に取り上げられるのは、ガンプとジェニーの対比です。
純粋なガンプがアメリカの理想を象徴しているのに対し、ジェニーは満たされない思いを抱えるアメリカを象徴しています。
反戦を訴え、セックスとドラッグとロックンロールに耽溺する彼女は、幸福で満たされたアメリカを象徴するガンプの対局として描かれており、カウンターカルチャーの負の側面だけがカリカチュアされた存在です。
当時の潮流を否定的に描くために、不幸のツケを払わされるのはジェニーという個人。暴力を振るわれるのも女、妊娠する方も女、生む方も女、育てるのも女。
ひとりの女性キャラクターに時代が抱える大きな不幸を背負わせ過ぎた結果、本作の物語は全体的に女性蔑視的に見えてしまいました。
作劇上損な役回りを一手に担う女性キャラクターの不憫さは『スパイダーマン』(2002)におけるメリー・ジェーンのそれと非常に似通っており、主人公に対し思わせぶりなモーションをかけながらも、次から次へと別の男性と関係を持っていく部分だけを切り取ると、どちらもインセルのヘイトを煽りそうなキャラクターと言えます。
これはロビン・ライトの演じたジェニーの問題ではなく、純粋で聖人のような男性と相似形を描く主体性の無い女性の物語を均等に描き切れなかった作劇上の欠点と言えます。
例えば2人が並行して描かれるシーン。
ガンプはベトナム戦争従軍し、ベトナムで銃撃戦真っ只中にいるのに対して、ジェニーは反戦と平等を訴えながらヒッピーとしてアメリカをヒッチハイクしてドラッグに溺れる様子が描かれます。
このシーンから政治的意図を汲み取ろうとすると、正しいアメリカ人(ガンプ)は従軍し、不幸なアメリカ人(ジェニー)は幻想に逃避するばかりという対比に見えます。更には敵であるベトナム人を意図的に描かない、リンカーン記念館でのデモ演説における反戦メッセージをオフマイクにするなど恣意的な演出が重ねられたこともあり、アメリカによる暴力を不透明化したベトナム戦争の正当化とも受け取れてしまいます。
当時のアメリカを知らない世代からすれば、本作は歴史修正とも受け取られかねません。
歴史修正との向き合い方
前述の女性蔑視的描写を加味せずとも、本作の無自覚な差別を内包した笑えないギャグが本当に許せないという評価には納得がいきます。
フォレストの名前の由来になったKKKのネイサン中将のシーンでは、白い頭巾をかぶって馬にまたがる姿しか描かず、黒人へのリンチ、選挙妨害、虐殺など、その悪行について一切描いていません。これは南部アメリカのルーツに対し不誠実と言うよりも、そもそもこのシーン自体が不必要でした。
黒人奴隷が料理に詳しいというギャグも、ババの母親が料理を作るのを辞めた(=奴隷からの解放)を意味しており、ガンプから大金を受け取った彼女が今度は白人の給仕を雇ったという顛末含めて笑える小話として語られます。更には(映画本編ではカットされているものの)ここに奴隷制廃止を残念がるような一言まで当初は付け加えられていました。
それは気の利いた冗談のつもりであったのかもしれませんが、現在の観点からすれば本作は差別的作品と断罪されて然るべきです。
「黒人指導者を白ブタどもから守る戦いをしている。奴らは黒人の女を犯し黒人社会を潰そうとしている」
ラディカルな”白人”レイシストの常套句を逆転させ、ブラックパンサー党の黒人運動家の口から言わせたシーンからは、過激な人権運動の過激さだけを取り上げ、彼らの主張の正当性自体をないがしろにしている印象を受けます。
ここまで明らかな問題ある描写の多い本作がどこまで作為的に白人至上主義、右傾化したメッセージを訴えかけていたのか、想像の域を出ません。しかしベトナム戦争自体を否定せずに戦争への後悔を描くというアクロバティックな手法で反戦を訴えていました。
正しい行いと信じて赴いた戦争は間違いであった。戦後、自暴自棄状態のダンが吐露する「こんなはずじゃなかった」という台詞には反省と後悔、常に正しくあり続ける理想的なアメリカの崩壊を意味していました。
70年代のアメリカはイデオロギー別に分裂していたものの、ガンプを主人公にした本作は、分裂と衝突、社会運動を単純化しており、全てのセリフ、描写、演出を深読みせず、表層的に観ることが出来ます。
コメンタリーやインタビューにおいてゼメキスは本作を「純粋に楽しめる映画」であると繰り返しますが、史実に基づいて本作に向き合うと、そこには歴史修正、差別に対して無批判というネックがあり、作品と作り手の政治思想、歴史認識など、複雑なレイヤー越しでしか鑑賞が難しい作品です。
分かりやすく、観やすい映画としての演出は抜群なだけに良くも悪くも非常にズルい映画です。
まとめ
フォレスト・ガンプという1人のアメリカ人の人生を通して描かれる歴史上の人物との交流や重大事件への関与といった出来事は、大河的なカタルシスがある見ごたえ抜群のコメディ映画です。
監督は本作に政治的宗教的メッセージは一切込めていない娯楽作品を目指したと強調していましたが、「右でも左でもない政治」が存在しないのと同様に、作り手の潜在意識や思想が一切反映されていない映画は存在しません。
興味深く観ることは出来ても面白いとは思えない「笑える」シーンには露悪的なメッセージや作り手の思想が色濃く反映されており、その臭いが強過ぎるが故に笑えないシーンがあるのも事実。
しかしそれは監督のゼメキスが意図したものと脚本家エリック・ロスの大河的な感動ドラマに仕上げる手腕との奇妙な食い合わせの結果生まれたものであり、右派のプロパガンダ映画をはじめから標榜していたわけではありません。
無心でアメリカ横断を繰り返すガンプの姿に人々が触発され、彼の無意味で無作為な営みにそれぞれ勝手な意味を見出してしまうのと同様に、本作には作り手の思惑や政治的意図は本当になかったのでしょう。
差別的で歴史修正主義的ととれる描写が意図していなかったとすれば、本作は映画として素晴らしいゆえに非常に無責任でずるい傑作で、笑えるコメディに泣かせようとする感動的なドラマを1つの映画の中に共存させてしまうロバート・ゼメキスの監督力と長い時間をかけて感動の強いカタルシスをもたらすエリック・ロスの脚本力に圧倒させられます。
個々のエピソードに納得がいかなかったり、受け入れられない描写があるにも関わらず、面白く最後まで観れてしまう不思議。
映画作品としての完成度の高さを愛でるべき映画という評価が政治的思想を超えて納得いくものではないでしょうか。
タキザワレオのプロフィール
2000年生まれ、東京都出身。中学時代に新文芸坐・岩波ホールへ足を運んだのを機に、古今東西の映画に興味を抱き始め、鑑賞記録を日記へ綴るように。好きなジャンルはホラー・サスペンス・犯罪映画など。過去から現在に至るまで、映画とそこで描かれる様々な価値観への再考をライフワークとして活動している。