第35回東京国際映画祭『1976』
2022年にて35回目を迎える東京国際映画祭。コンペティション部門に1970年代、軍事政権によって支配されたチリの姿を描いた映画が登場しました。
タイトルは『1976』。1973年9月11日のクーデターでアウグスト・ピノチェトが社会主義政権を倒した、その3年後のチリの姿を1人の主婦の目を通して描いた作品です。
本作は東京国際映画祭における上映が、”アジアン・プレミア上映”となり、出演したアリン・クーペンヘイムは、コンペティション部門の最優秀女優賞を獲得しました。
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映画『1976』の作品情報
【製作】
2022年(チリ・アルゼンチン・カタール映画)
【原題】
1976
【監督・脚本】
マヌエラ・マルテッリ
【キャスト】
アリン・クーペンヘイム、ニコラス・セプルベダ、ウーゴ・メディナ、アレハンドロ・ゴイク、カルメン・グロリア・マルティネス
【概要】
軍事政権に反対する者が次々と姿を消す、1976年のチリを姿を描いたポリティカル・サスペンス映画。
『ネイキッド・ボディ』(2013)などに出演している女優、マヌエラ・マルテッリの初監督長編映画になる作品です。
主演は『ナチュラルウーマン』(2017)のアリン・クーペンヘイム。本作は彼女の目を通して軍事政権時代の闇を描きました。
映画『1976』のあらすじ
1976年のチリ。医師の妻カルメン(アリン・クーペンヘイム)は。海辺の別荘を自らの好みに改装しようと孫たちと共に訪れます。
家族と共に幸せに暮らすカルメンは、ある日街中で当局の手によって市民が強制連行される姿を目撃します。しかし権力の暴力に怯えて暮らす市民たちは、誰1人抗議の声を上げません。
そしてカルメンは別荘近くの教会の司祭から、治安機関の手により負傷した反体制活動派の青年を、どうか匿って欲しいと頼まれます。
カルメンは良心に従い司祭の言葉に従います。その結果、悠々自適に日々を過ごしていた彼女の平穏な生活は終わりを告げました。
青年を救おうとしたカルメンは、やがて自らの身に迫る独裁政権の闇に翻弄されていきます…。
映画『1976』の感想と評価
1973年に軍事クーデターで誕生したピノチェト政権。自由を求めるチリの人々は、権力からの激しい弾圧にさらされました。
当時のチリ社会のを以前から撮影していたパトリシオ・グスマン監督は、クーデター後に逮捕されるも釈放後撮影済みのフィルムを持ち出して亡命、ドキュメンタリー映画『ブルジョワジーの叛乱』(1975)、『クーデター』(1976)、『民衆の力』(1979)を完成させます。
この“『チリの闘い』3部作”と呼ばれるドキュメンタリー映画は、『1976』をより深く理解する助けとなるでしょう。
チリの軍事政権は長らく続きます。同じく軍事政権誕生後に亡命したミゲル・リッティンは身分を偽りチリに入国、密かに撮影を行いドキュメンタリー映画『戒厳令下 チリ潜入記』(1986)を発表しました。
1988年ピノチェト大統領の任期延長の是非を問う国民投票が、この体制が終焉するきっかけとなります。この選挙キャンペーンの舞台裏を描いたガエル・ガルシア・ベルナル主演作『NO』(2012)は、第25回東京国際映画祭で上映されます。
このような過酷な時代の、一番厳しい時期を平凡な1人の女性の視点を通して描いた作品が、今回ご紹介する『1976』でした。
マヌエラ・マルテッリ監督は、東京国際映画祭での本作上映終了後に登壇し、観客とのQ&Aに応じて自作について語っています。
チリの最も暗い時代に祖母の姿を重ねた映画
「この物語は1976年に亡くなった、母方の祖母に由来しています」と紹介したマルテッリ監督。「晩年の祖母は暗く落ち込んで鬱のような状態でしたが、家族はそれを個人的な理由によるものと信じていました」
「しかしその時期は軍事政権下の暗黒の時代、最も暗く厳しい時期でした。それが祖母に与えた影響を、家族はよく理解していなかったように思います」
「私は家庭の中から見た、独裁政権が人々に与えた影響の物語を書こうと思いました」「そして、今までチリには無かった“女性の視点でとらえた歴史の物語”を作ったのです」と本作を製作した理由を語ってくれました。
当時教会がどのような役割を果たしたのか問われた監督は、「チリのカトリック教会は、行方不明になった人…軍事政権に拉致され、中には命を奪われる人もいました…、それを助ける役割を果たしていました」と説明します。
教会はチリに軍事政権誕生直後、政治犯とその家族に対する支援活動を行う「平和委員会」を設立します。それが解散させられると映画に描かれた時期に「連帯委員会」を設置,クーデター以降、行方不明になった人々の所在の確認を軍事政権に要請しました。
「それだけに、この映画でカトリック教会について言及しない事は考えられず、絶対に描こうと思いました」と話す監督。
映画に登場する浜辺に流れ着く女性の死体。このエピソードについて解説を求められた監督は、1976年に起きた実際の事件に着想を得たと語りました。
「彼女は失踪した活動家たちの中で、初めて遺体で発見された人物がモデルです。遺体は飛行するヘリコブターから海に棄てられたものでした」
監督は当時マスコミが彼女の死について様々な憶測を書くだけで、真実に迫ろうとしなかった事実を話します。しかし多くの人々に、チリで何が起きているのかを悟らせた事件でした。
本作が今作られた理由は、近年のチリの政治情勢を反映したものと言えるでしょう。
現在、南米諸国では続々と左派政権が誕生しています。チリでも2019年10月地下鉄の運賃値上げをきっかけに、貧富の格差拡大など社会に不満を持つ学生らが抗議活動を行います。それはやがて「チリ暴動」と呼ばれる騒動に発展しました。
その結果、革新的な憲法への改憲案が示され、2022年に格差是正を訴えるボリッチ大統領が選ばれ左派政権が誕生します。しかし政権は権力を得る過程で中道派を取り込み、コロナ禍やウクライナ情勢で経済が悪化した結果、革新色を薄めます。
そして改憲を巡る国民投票も反対派が6割以上を占め、チリ国内の保守的傾向の強まりを示す結果となりました。こうした風潮に不満を持つ人々が、映画『1976』を支持したのでしょうと話した監督。
チリの近現代史や現在の状況を知らずとも、本作が描いた日常生活に忍び寄る軍事政権の恐ろしさは充分に感じられるでしょう。
しかし映画が描いた当時の背景を知ると、平凡な生活を送っていた女性に降りかかった恐怖は、より切実に感じられるはずです。
まとめ
ブルジョア階級に属し恵まれた生活を送る女性カルメンが、徐々にパラノイア的恐怖に支配されていく姿を描いた『1976』。
映画の中で、彼女の”敵”は明確な姿を現しません。しかし当時、軍事政権の誕生を歓迎する人々…社会主義的政策がとられる事に危機感を抱く、富裕層を中心とする者が存在していました。
カルメンが周囲の人々の言動に苛立ち、密告される恐怖を覚える…それは彼女の思い込みかもしれません。しかし人々に相互不信の念を与える事が、独裁者が体制を維持する最善の方法なのでしょう。
映画は登場人物の言動だけで、テーマを表現する訳ではありません。背景に流れる音、音楽、色彩…様々な要素が主人公の境遇や心境を表現します。
マヌエラ・マルテッリ監督は上映後のQ&Aで、本作に登場する”色”についてこのように語りました。
「冒頭、ブルジョアである主人公は別荘をピンク色…ベネチアの風景に憧れた幸せな色に塗ろうと思い立ち、その色を業者に依頼して作らせます」
「その時、店の外から拉致された女性の悲鳴が聞こえます。彼女は映画の後半で別荘をこのピンク色のペンキ…この時には軍事政権の弾圧で流れた血の色を意味しています…で塗装します。これは、軍事政権の残酷さが家庭内にまで入り込んできた事を象徴しています」
“色”は彼女の周囲を、彼女の心を染めていきました。監督の言葉を踏まえて本作を振り返ると、”色”の表わしている意味を改めて理解できるでしょう。
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増田健(映画屋のジョン)プロフィール
1968年生まれ、高校時代は8mmフィルムで映画を制作。大阪芸術大学を卒業後、映画興行会社に就職。多様な劇場に勤務し、念願のマイナー映画の上映にも関わる。
今は映画ライターとして活躍中。タルコフスキーと石井輝男を人生の師と仰ぎ、「B級・ジャンル映画なんでも来い!」「珍作・迷作大歓迎!」がモットーに様々な視点で愛情をもって映画を紹介。(@eigayajohn)