連載コラム『シニンは映画に生かされて』第17回
はじめましての方は、はじめまして。河合のびです。
今日も今日とて、映画に生かされているシニンです。
第17回にてご紹介させていただく作品は、イギリスの「サタデー・タイムズ」紙の特派員として数々の戦場を取材し、“黒い眼帯”というトレードマークとともに“生ける伝説”と称されてきた女性記者メリー・コルヴィンの生涯に迫った映画『プライベート・ウォー』。
2019年9月13日(金)より、TOHOシネマズ シャンテほか全国でロードショー公開される本作は、『カルテル・ランド』『ダッカは静かに虐殺されている』などのドキュメンタリー映画で知られるマシュー・ハイネマン監督の初の劇映画作品です。
CONTENTS
映画『プライベート・ウォー』の作品情報
【公開】
2019年9月13日(イギリス・アメリカ合作)
【原題】
A Private War
【原作】
マリエ・ブレンナー
【脚本】
アラッシュ・アメル
【キャスト】
ロザムンド・パイク、ジェイミー・ドーナン、トム・ホランダー、スタンリー・トゥッチ
【作品概要】
世界各地の戦場を取材し続け、スリランカ内戦で左眼を失明、その後もPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみながらも戦場とそこに隠された真実を追い続けた女性記者メリー・コルヴィンの生涯を描いたヒューマン・ドラマ。
監督を務めたのは、数々の優れたドキュメンタリー映画を制作し、2017年の『ラッカは静かに虐殺されている』では武装勢力ISIS(イスラム国)に支配されたシリア北部の惨状を世界に発信しようとする市民ジャーナリスト集団に密着した経験を持つマシュー・ハイネマン。
そして自らの強さと弱さに苦悩しながらも戦場と対峙し続けたメリー・コルヴィンを演じたのは、デヴィッド・フィンチャー監督作『ゴーン・ガール』(2014)にて圧倒的な演技力を見せつけた女優ロザムンド・パイクです。
さらに『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』(2015)のジェイミー・ドーナン、『ボヘミアン・ラプソディ』(2018)のトム・ホランダー、『ラブリーボーン』(2009)のスタンリー・トゥッチなど実力派俳優陣が出演しています。
映画『プライベート・ウォー』のあらすじ
英国サンデー・タイムズ紙の特派員として活躍するアメリカ人記者メリー・コルヴィン。
2001年、メリーは入国が禁止されていたスリランカ・バンニ地域を取材していた最中に銃撃戦に巻き込まれ負傷。左眼の視力を失ってしまいます。
スリランカから戻り、左眼には黒い眼帯を着用するようになった彼女は、PTSDがもたらす戦場の記憶に苦しみながらも戦場での取材を続けます。
2003年のイラク。2009年のアフガニスタン。2011年のリビア。そして、2012年のシリア。
自ら強さと弱さ、戦場と日常の狭間でもがきながらも、彼女は運命の日を迎えることになります…。
見つめることしかできない人間
映画『プライベート・ウォー』について紹介させていただくために、まず、触れなくてはならない点。本作の主人公にして実在した戦場記者メリー・コルヴィンに言わせれば、見つめなくてはならない点。
それは、本作の劇中全体を通して描かれる世界のあらゆる戦場と、そこで不条理に殺され死にゆく人々の在り様です。
スリランカ。イラク。アフガニスタン。リビア。そして、シリア。時間や場所、情勢や勢力は違えど、戦場にあるのはいつも死体の山と嘆き悲しむ人々だけ。マシュー監督は「本物のシリア難民をエキストラとして起用する」「シリアの隣国である故に多くのシリア難民が流入し、かつては戦場でもあったヨルダンでの長期ロケ」といった手法によって、映画というフィクションの中にその真実を再現しようと試みています。
そして、そのような「目を背けたくなる」としか形容のしようがない無惨をメリーは見つめ続け、戦争がもたらす耐え難い苦痛と死という真実をひとりのジャーナリストとして伝えてゆきます。
なぜ彼女は、戦場とそこに彷徨う真実を見つめ続けることができるのか。
狂気と暴力が繁栄する戦場に足を踏み入れ続けた果てに、メリー自身もまた戦場の一部と化してしまったためとも捉えることはできますが、彼女がPTSDに苦しみながらも戦場に立ち続けた理由をその一点だけで語ることはできないでしょう。
メリーは自らを、“見つめることしかできない人間”だと捉えていた。
だからこそ、彼女は遠い地で増殖し続ける無惨、それに巻き込まれてゆく罪なき人々から、どうしても目を背けることができなかったのではないでしょうか。
2012年。内戦が激化するシリア・ホムス地区で取材を敢行していたメリーと彼女に同行した報道写真家ポール・コンロイは、親たちの手によって診療所へ次々と運ばれてくるものの、致命的に不足する医療物資と人材が原因で次々と命を落としてゆく子どもたちと遭遇します。
銃撃や爆撃による苦痛にもがき喘ぐ声も次第に小さくなり、やがて息を引き取る子どもたちと、自らの子が死にゆく様を見つめることしかできない親たち。息子を亡くしたとある父親は信仰する神に訴え続けますが、その沈痛なる声に返事をする者はいつまで経っても現れません。
戦争がもたらすある意味普遍的な無惨の一景を目撃し、ポールはカメラのシャッターを切ることを止め、メリーもまたメモを取ることを止めます。ただ二人は、その無惨を前に立ち尽くし、その様を見つめ続けていました。
見つめることしかできない人間。それは一見すると“何もできない人間”のようにも認識できます。
ですが、のちにメリーと口論に至った新聞社の上司ショーンが放った「人は君のようにはできない」という言葉通り、そもそも“見つめる”という行為自体がメリー以外の人間にとってはあまりにも困難で耐え難いことなのです。
それでも、メリーは「あらゆる戦場で無惨を見つめてきた」という自らが積み重ねてきた事実に対し、抗いようのない罪悪感を抱いている。それ故に、彼女は自らを“見つめることしかできない人間”という否定形として捉え、その罪悪感を背負い続けるために、戦場の記憶に苦しみながらもその足を戦場へと運ぼうとするのです。
“母になれない自分”を隠すための眼帯
そして、本作の鑑賞を通じて「メリーが自らを“見つめることしかできない人間”と捉えていたのではないか」という推測に至った大きな要因がもう一つあります。
それは、やはり本作の劇中全体を通して描かれていた「自分は“母”という存在にはなれない」ということについて思い悩むメリーの姿です。
イラクでの取材後に悪化したPTSDによって入院したメリーは、見舞いに訪れたポールに対し、自身が二回の流産を経験していること、自身の母のように家庭に入り生きるのはどうしても耐えられなかったことを告白し、涙を流します。
また、鏡の前に立っては自身を見つめ、時には衣服を脱いで“女性”という自身の肉体を見つめる彼女の様子が度々描き、メリーは自らの“女性”という肉体、生まれながらの属性としての“女性”を深く意識していることを強調しています。それは同時に、“母”という存在となるための性質としての“女性”を深く意識しているとも考えられます。
さらに、幼い娘を育てている女友だちののリタ、パーティで彼女が恋に落ちた風変わりなビジネスマンでシングルファーザーのトニーなど、独身で子どももいないメリーとは対照的な“母”或いは“親”という存在でもある人物が幾人か登場していることも見逃せません。
そして何よりも、メリーを苦しめる戦場のトラウマであり、彼女の精神と肉体に最も鋭く突き刺さっている記憶が、流れ弾によって心臓を貫かれたパレスチナ人の12歳の少女の亡骸であること。
映画劇中におけるその描写は、メリーが特に戦場の子どもたちや女性の姿を記録し報道し続けた理由、精神的にも肉体的にも“母”という存在にどうしてもなれなかった理由と大きく関わっていることは想像に難くないでしょう。
戦場に足を踏み入れ続けた結果、“女性”という性質を強く意識する一方で、自らが“母”という存在になれないことを思い悩むメリー。
それが明確に表出されていったきっかけと言えるのが、戦場での左眼の負傷によって着用するようになり、“戦場記者メリー・コルヴィン”の象徴にもなった黒い眼帯です。
戦場で左眼を負傷したスリランカから戻り、黒い眼帯を身に着けるようになったことで、“戦場記者メリー・コルヴィン”の伝説化・神話化はより一層拍車がかかり、“ひとりの人間”であるメリー自身もまた“生ける伝説”とさえ呼ばれるようになった“戦場記者メリー・コルヴィン”として生きようとします。
メリーは自らが“戦場記者メリー・コルヴィン”であることを証明する黒い眼帯を身に着けることによって、それまで思い悩んできた“母になれない自分”を覆い隠そうとしたのです。
けれどもその行為は、自らの在り方として貫いてきた“見つめることしかできない人間”というアイデンティティの否定であり、“母になれない自分”という苦悩からの逃避でしかありません。それ故に、メリーの苦痛は激しくなり、ついに戦場から足を遠ざけてしまうという結果に至ったのです。
“見つめることしかできない人間”としての苦痛と、“母になれない自分”としての苦痛。
本作は戦場記者としてのメリー・コルヴィン、ひとりの人間としてのメリー・コルヴィンを時には交錯させつつも描写することで、“生ける伝説”という“人でなし”の名で称されてきた彼女の実像、彼女が戦場記者であったが故に経験した戦争の苦痛を映画というメディアによって伝えようとしたのです。
マシュー・ハイネマン監督プロフィール
映画『プライベート・ウォー』メイキング写真より:マシュー・ハイネマン監督(左)とメリー・コルヴィン役のロザムンド・パイク(左)
1983年生まれ、ニューヨーク在住。2005年にアメリカのダートマス大学を卒業後、2009年に現代アメリカの若者を追ったドキュメンタリー『Our Time(日本未公開)』にて長編監督デビュー。
2012年にはアメリカの医療制度を描いた『Escape Fire: The Fight to Rescue American Healthcare(原題・日本未公開)』を制作。同作はCNNにて放映され、エミー賞候補にも挙げられました。
2005年に発表したメキシコ麻薬カルテルと自警団の戦いへの密着ドキュメンタリー『カルテル・ランド』は、アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞にノミネート。さらに『ラッカは静かに虐殺されている』(2017)では、武装勢力ISIS(イスラム国)に支配されたシリア北部の惨状を世界に発信しようとする市民ジャーナリスト集団に密着し、この2作が連続して全米監督組合賞(DGA)ドキュメンタリー部門賞を受賞するという快挙を果たしました。
そして今回劇場公開を迎える『プライベート・ウォー』は、麻薬問題を扱った5部構成のTVシリーズ「The Trade(原題・日本未公開)」に続く、彼にとって初の劇映画となります。
まとめ
映画後半にて、メリーはリビアでの取材以来遠ざかっていた戦場、アサド政権とその支持勢力の手による虐殺が続くシリアのホムス地区へと足を踏み入れます。そして想像以上に酷いホムス地区の現状を目の当たりにした彼女の左眼に、例の黒い眼帯は影も形もありません。
なぜ彼女は、黒い眼帯を外して戦場へと向かったのか。
その理由が劇中にて明確に語られることはありませんが、彼女が再び“見つめることしかできない人間”という自身の在り方に立ち返ったこと、“母になれない自分”から逃避するのを止めたことだけは明らかでしょう。
自らが“見つめることしかできない人間”であるならば、その“見つめる”という行為だけでも、何としても続けなくてはならない。そして、自らがなることの叶わなかった名もなき“母”たちとその子どもたちを救うため、“生ける伝説”ではなく“人間”として、戦場とそれを生み出した権力が隠匿しようとする真実を報道する。
その姿こそが、メリー・コルヴィンが行き着いた“人間”としての在り方であり、「子どもたちとその母たちを生かすために命を懸ける」という行為に行き着いた、彼女の“母”としての在り方なのです。
そして、人間として、何より母として戦場を見つめ続けたメリー・コルヴィンの姿を、ひとりの人間として劇場に足を運んだ観客もまた、映画というメディアを通じて見つめる必要があります。そうすることで初めて、現在も苦痛と死が増殖し続ける戦場で命を落とした彼女に最低限の敬意を払えるのです。
次回の『シニンは映画に生かされて』は…
次回の『シニンは映画に生かされて』では、2019年9月20日(金)より公開の映画『アイネクライネナハトムジーク』をご紹介させていただきます。
もう少しだけ映画に生かされたいと感じている方は、ぜひお待ち下さい。
編集長:河合のびプロフィール
1995年生まれ、静岡県出身の詩人。2019年に日本映画大学・理論コースを卒業後、2020年6月に映画情報Webサイト「Cinemarche」編集長へ就任。主にレビュー記事を執筆する一方で、草彅剛など多数の映画人へのインタビューも手がける。
2021年にはポッドキャスト番組「こんじゅりのシネマストリーマー」にサブMCとして出演(@youzo_kawai)。