連載コラム「未体験ゾーンの映画たち2021見破録」第23回
様々な事情で公開が危ぶまれる映画どころか、映画史に残る問題作まで紹介する「未体験ゾーンの映画たち2021見破録」。第23回は『さらばアフリカ』。
世界各地の奇習・風習を、ヤラセを含めて紹介した『世界残酷物語』(1962)と『続・世界残酷物語』(1963)。
ヤコペッティは自身の集大成となる作品の製作に挑みます。当時植民地支配からの独立に沸き、同時に混迷を深めたアフリカを描くものでした。
完成したのが大作映画『さらばアフリカ』。しかしこの映画はスキャンダラスな事態を引き起こし、本作を最後にヤコペッティは”モンド映画”の監督から手を引きます。
あまりにも衝撃的な内容と、迫力ある映像に誰もが圧倒されるでしょう。
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CONTENTS
映画『さらばアフリカ』の作品情報
【製作】
1965年(イタリア映画)
【原題】
Africa addio
【監督】
グァルティエロ・ヤコペッティ、フランコ・プロスペリ
【撮影】
アントニオ・クリマーティ
【作品概要】
3年の歳月をかけアフリカ各地で撮影された、ヤコペッティ”モンド映画”最大の問題作。
『世界残酷物語』と『続・世界残酷物語』が正方形に近い画面、スタンダードサイズで会ったのに対し、本作はワイドなシネスコ画面。
スケール大きく描いたアフリカの美しく雄大な風景。それとは対照的に動物や人間を殺戮する、人間の残虐な姿を壮大な音楽にのせて描きます。
はたして映像は真実か、やらせか。”本物”の処刑シーンが撮影できたのは、製作者の殺人教唆があったのでは、とヤコペッティは告訴され裁判となります。
現在では描けない場面の数々にどう向き合うか。見る者が試される問題作です。
なお、あらすじとネタバレはこの映画を製作した当事の状況と、映画の製作者の視点が伝わる表現を意識した記述になっています。あらかじめご了承下さい。
映画『さらばアフリカ』のあらすじとネタバレ
偉大な探検家たちのアフリカ、子供たちに狩猟と冒険の舞台として愛されたアフリカは、永遠に姿を消しました。
古いアフリカは驚異的な速さで破壊されます。私たちの支援がもたらした荒廃と虐殺が、新しいアフリカの姿です。
植民地からの独立を果たし、式典で多様な民族が喜び舞い踊ります。様々な地で政治家が演説し、人々は沸き立ちました。
アフリカの人々の手で生まれた新たな軍隊が行進し、植民地の支配者の軍隊は去ってゆきます。
イギリスの最後の植民地総督も去ります。この大陸から急いで去るヨーロッパ。
欧州はアフリカに多くを与え育てましたが、もはや黒くて大きな赤ん坊を管理できません。
植民地の白人兵は装備を、新たに誕生した軍隊の黒人兵に引き渡します。
独立したばかりのケニアは、統治能力も警察能力も欠けていました。
独立に狂喜した人々は、外国製品の破壊を始めます。ポルトガルの卵、南アフリカ産のオレンジとビール。
これらの商品が略奪され、熱狂する群衆の目前で潰され破棄されます。
お祭り騒ぎは終わり、新たに採用された警察官の訓練が始まります。歴史上初の総選挙が行われる事になりました。
緑の広がるケニアの高地は、100年に渡り白人入植者が住み、スコットランドの風景が持ちこまれます。
彼らは馬に乗り故郷のキツネ狩りを再現しますが、この地にキツネはいません。
代わりに黒人男性にキツネ代わりの囮を持たせて走らせます。地元民に見守られ、狐役の黒人を追う白人たちの馬の群れ。
イギリス統治下のケニアで、独立運動を行ったマウマウ団に所属し、逮捕された男たちの裁判が行われました。
白人の検事が読み上げる、マウマウ団が白人入植者に行った殺人と残虐行為の数々。
黒人女の乳母は侵入者を手引きして白人の母子の惨殺に関与し、刑務所から脱獄し凶悪犯罪に関与した男は、400頭以上の家畜を傷付け処分させました。
白人の裁判官は被告らに重い禁固刑を科します。これらマウマウ団の乱に参加した重罪人が、独立後に恩赦で釈放されます。
ケニア初代首相、後の初代大統領ジョモ・ケニヤッタは、彼らを国民的英雄と宣言し、白人入植者の土地を与えると約束しました。
それを聞いた白人入植者は不動産を売り始め、先祖伝来の家財道具をオークションにかけます。それを買い叩くインド人商人。
白人たちはそれを見守るだけです。後には空っぽの豪邸が残されました。その美しい土地にブルトーザーが入り、爆破される木々。
英国領になった東アフリカにはイギリス植民地法が施行され、白人が家を建てることを許可しました。
入植した白人が2世紀に渡り、この地を緑豊かな大地に変えたのです。
その黄金時代は終わりを告げます。150人の白人が住んでいた土地に、1万人の黒人が現れます。彼らに与えられたのは、1家族に対し1エーカーの土地。
黒人は多く、土地は少な過ぎです。瞬く間に豊かな土地は荒廃していきます。
白人入植者の墓地も掘り起こされ、インド人商人はそれすら売り物にしました。
有名な競走馬を飼育した入植者も、マウマウ団に殺されました。彼の息子たちは、この地から去る時サバンナに馬を放します。
野生に戻った馬を、黒人たちが集団で追い詰めます。広大な土地で馬を追う人間の群れ。
黒人にとり馬は、それに乗る¥った白人の象徴です。黒人を恐れて乗せることを拒否する馬は、まさに生粋の人種差別主義者。
馬は白人のような繊細な肌を持つ高貴な存在で、アフリカでは白人のように臆病で、白人のように役に立たぬ存在です。黒人たちは馬を食べるしかありません。
ボーア人(17世紀以降アフリカに入植した、オランダ系を中心とする白人)はケニアを棄て、ケープタウン(南アフリカ)へ帰ります。
他の交通手段も利用出来ますが、先祖に倣い抗議の意味を込め幌馬車を連ね家畜と共に旅しました。
まるで彼らの歴史を物語る、叙事詩のような光景です。
植民地を支配した白人の法律は廃止されました。しかし新しい法はまだありません。
サバンナを守る自然保護法は機能しなくなり、我が物顔で振る舞う密猟者やハンター。
2台のジープの間にロープを張り走らせ、歓声をあげシマウマをなぎ倒す狩猟者たち。
車で母象を挑発して後を追わせ、その隙に子象を奪う密猟者。子象は動物園に3000ドルで売れます。
捕えた子象の10頭の内9頭は死にますが、かまいません。代わりはいくらでもいますから。
ヘリコプターは水牛やカバの大群を追いつめます。空から象を射殺するヘリに乗ったハンター。
狩猟愛好家はホテルからヘリに乗り、狩場へと飛んでいきます。「15分で象のサファリ(狩猟)」と呼ばれるハンティングです。
倒した象に足を乗せ、笑顔で記念写真を撮るハンター。
現地のアフリカ人は、おなじ事を1万人の人海戦術で行います。槍を持った黒人たちが集団で動物を追いつめ、次々殺していきます。
映画は執拗に、殺される動物たちの姿を映します。無数の槍により命を奪われる象やカバ。
スパイ映画のような制服を着た白人女性たちが働く野生動物協会本部。主に民間の白人たちにサポートされた組織です。
無線からの報告を指令室に集約し、密猟者や動物の動きを掴み野生動物を守ろうと活動しています。
川には彼らが用意した餌付きの風船が無数に浮かんでいます。風船を目印に捕らえられ、保護区へと移送されるワニ。
この川で過去6ヶ月で2万匹のワニが殺され、82匹のワニが保護され、安全な場所へと300マイル輸送されました。
負傷した動物は保護され治療を受けます。手押しポンプで輸血される象が映し出されます。
1964年2月18日、野生動物協会のヘリはケニアとタンザニアにまたがる地域を調査し、750頭の象の死骸を確認しました。
象牙を切り取っていた密猟者は、ヘリの出現に驚き身を隠します。
ケニアやタンガニーカ、ウガンダの政情不安がもたらした1年以上の無政府状態を脱すべく、イギリス統治時代の旧法が復活しました。
ただし1ヶ月後には失効されます。それでも警察は410人の密猟者を捕らえて動物の虐殺を一時的に終了させ、毛皮などを押収します。
密猟者は土産物に加工する象牙やしっぽを取るために、300頭の象を手榴弾で殺害しました。
82tの象牙が押収され、2800枚のシマウマ、そして様々な猛獣の毛皮が発見されます。無為に殺された動物の死骸に火が放たれます。
野生動物協会は、母親の死骸に寄り添う幼いシマウマを見つけます。このままでは仔馬も命を落とすでしょう。
無線で呼ばれたヘリが、幼いシマウマを吊るし安全な場所へ移送します。
夕陽をバックにヘリが吊るした仔馬の姿に、壮大な風景と音楽が重なります。
ただし、不必要なまでに同じ場所で、日が沈むまでじっくり時間をかけて撮影したシーンです。
私たち撮影スタッフが乗ったセスナ機はタンガニーカを出発し、3人のドイツ人ジャーナリストがチャーターしたセスナ機と共に、ザンジバル革命後の混乱を取材に向かいます。
英国保護国のザンジバル。イギリスが手を引くと1964年1月12日ソビエトに支援されたジョン・オケロが革命を起こし、アラブ人虐殺を引き起こします。
ザンジバルとの連絡は絶たれ、空港も閉鎖されます。空港上空に到着したセスナは、着陸を拒否されました。
それでもドイツ人機に続き着陸を試みますが、多くの黒人が現れ銃撃を受け断念します。
先に着陸したドイツ人機には火が放たれ、炎と煙が立ち上りました。
改めて1月19日、ヘリに乗って反乱者を混乱させる赤旗をなびかせ、ザンジバルを目指した撮影スタッフ。
オケロは暴徒たちに850丁の銃を配っていました。それがこの地に長らく住む、アラブ人の虐殺を引き起こします。
多くの黒人にとりアラブ人は忌まわしい奴隷商人の子孫。それがプロパガンダに利用され、悲劇を引き起こしました。
これから紹介する映像は、1月18日から20日に起きたアラブ人虐殺を捉えた、唯一のものです。
偽りの謙虚さで新たなアフリカの誕生を許し、偽りの約束を与えた結果が、新たな人種差別を助長し惨劇を引き起こしました。
焼き払われた住居の周囲に倒れている、白い衣服の無数のアラブ人の遺体。
遺体を山積みにしたトラックが走って行きます。
長く伸びた1列で歩かされるアラブ人の列。彼らは虐殺される現場に向かっているのです。
イスラム教の墓地が収容所となり、そこで死を待つアラブ人たち。
深く掘られた穴の中に無数の遺体があります。ヘリが近づくと周囲に立っていた男たちは身を隠しました。墓地に無数の遺体が倒れています。
僅かな脱出の望みを託し、多くのアラブ人が船に乗ろうと浜を絶望的に走ります。
そして翌日。そこには無数のアラブ人の遺体が横たわっていました。
遺体から略奪していたのでしょうか、ヘリが近づくとその場にいた者が逃げていきます…。
映画『さらばアフリカ』の感想と評価
強烈な映画です。様々な感想を抱くでしょうが、まずは当時の反応を紹介しましょう。
壮大なスケールで描かれた本作に、イタリア映画界は『世界残酷物語』と同じダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の、プロダクション賞を授けました。
イタリア国内の幾つかの保守系メディアは本作を称賛します。しかし左派メディア、多くの映画人・評論家は不誠実で人種差別的な作品と非難します。
ニューヨークタイムズの批判記事は凄まじく、ショックシーンに対する嫌悪感を露わにしました。
リベラルな人物として知られるアーサー・ゴールドバーグ米国連大使(当時)は、歪められた内容を持つ無責任な映画と非難し、アフリカ諸国の国連大使の抗議にも言及します。
ドイツでは左派・アフリカ出身の学生グループの抗議活動で、映画の上映は中止されます。
ヤコペッティとプロスペリはこの動きに、「アフリカの真実を知らない人々の抗議」「映画の目的は植民地主義の正当化ではなく、アフリカを惨めな状態にした状況への非難」と説明します。
動物が、人間が次々と殺されてゆく…
参考映像:『ハタリ!』(1962)
多くの動物が殺されるシーンに心を痛めた方に、”モンド映画”とは異なるハワード・ホークス監督、ジョン・ウェイン主演の、猛獣狩り映画『ハタリ!』(1962)をご覧いただきましょう。
これが健全な、当時欧米の方々が見たいと望むアフリカです。猛獣狩りという題材は人気ですが、映画で殺害描写は避けられます。『ハタリ!』が動物を捕らえる話になるのも当然です。
それに対して本作は、これでもかと動物の射殺・解体を見せます。人間の死を描いたシーン、政治的メッセージを無視しても、これらのシーンだけで猛烈な抗議が起きるでしょう。
動物殺害のシーンは撮影クルーが狩猟者に同行しただけ、殺害に関与した訳ではありませんが、現代ならその姿勢は倫理的に追及されるでしょう。
同じことが問題の、物議を呼び裁判沙汰になった傭兵部隊のシンバ反乱軍討伐シーンにも言えます。
軍隊に同行し、人が殺される場面を撮影するのは許されるのか。撮影に適するよう軍事行動に注文を付けたり、示唆を与えるのは殺人への関与ではないか。
『さらばアフリカ』でヤコペッティ監督が殺人教唆で告訴された、映画の中に実際の処刑がある、いやヤラセだという話題が一人歩きしていますが、もう少し詳細に見てみましょう。
撮影に同行していた、かつてヤコペッティと働いていたジャーナリスト、カルロ・グレゴレッティが証言しています。
ブエンデの戦闘が終わった時、傭兵たちはゲリラを捕虜にします。ある傭兵が、カメラは撮影準備中だと気付きました。
傭兵は撮影クルーの準備完了を確認してから捕虜を射殺します。そして先に帰国したグレゴレッティは記事を書いて告訴します。
「ヤコペッティが傭兵に、カメラの前で3人を殺害するよう説得した」と。
1965年4月、ヤコペッティはイタリアの法務大臣に戦争犯罪容疑で起訴されます。この問題は映画の完成前に表面化し、世間を騒がせていました。
ヤコペッティは殺人に関与したのか?倫理的責任はあるのか?
参考映像:『ワイルド・ギース』(1978)
追及に対しヤコペッティとプロスペリは、自分たちと撮影クルーは殺害直前に現場に到着したと説明しました。
また多くの関係者(モイーズ・チョンベ コンゴ民主共和国首相(当時)を含む)から、無実であるとの証言を得ます。
この結果、1965年12月ヤコペッティは無罪となります。ここまでは確認することが出来ました。
ここからは憶測を含みます。ブエンデの戦闘シーンは、傭兵部隊に同行した形で撮影しています。
中には注文に従って動いている様に見えるシーン、戦闘中このアングルからは撮れないと思われるシーンも存在します。
該当の射殺シーン以外から、撮影クルーと傭兵たちに何らかの協力・信頼関係があったと推測できます。
また裁判でコンゴの最高権力者の証言を得るなど、ヤコペッティが有力者との人脈を持っていたのは確かです。
ヤコペッティと現地に詳しいプロスペリ、そして撮影クルーはこの映画の撮影中、タンザニアとコンゴで逮捕されています。
彼らには人間的魅力があったようです。殺し文句は「自分たちは(アフリカを支配した)白人ではない、イタリア人だ」。
こういった態度のおかげか、彼らは解放され撮影を続けることが出来ました。
様々な方法と人脈を駆使して映画を作ったヤコペッティ。彼が自作の再現・捏造シーンについて多くを語らぬ背景に、多くの人を巻き込む複雑な事情があるようです。
余談ですが本作に登場するレオポルドヴィル空港へ降下、人質救出するドラゴン・ルージュ作戦に参加した、傭兵部隊隊長はマイク・ホアーです。
彼は映画『ワイルド・ギース』(1978)の主人公のモデルであり、同作のアドバイザーを務めた人物です。
まとめ
誰もが話題にする『さらばアフリカ』の、本物の殺人とされるシーンを中心に解説しました。
ヤコペッティが裁判沙汰に巻き込まれたコンゴ動乱には、革命の理想に燃えたキューバのチェ・ゲバラも参加していました。
ところが支援する社会主義諸国の思惑や、国家意識が低く民族単位で動くアフリカの人々の軋轢が生む、泥沼の戦いに絶望した彼はアフリカを去りました。
植民地主義・人種差別反対の立場で外部から理想を語り、現地の惨状を見ない欧米の知識人への憤りが、『さらばアフリカ』のメッセージであることは確かです。
ヤラセにしか見えないシーンもあれば、逆に捏造であって欲しいシーンも存在します。
本作の映像の多数は性格上、歴史資料と認められていません。一方でザンジバル革命時のアラブ人虐殺は、この映画のシーンは数少ない映像資料の1つと評されています。
いかがわしい内容が売りの”モンド映画”を生んだヤコペッティは、間違いなくジャーナリスト的使命感を持つ人物でした。
しかし彼の価値観は、あまりに西洋文明・白人優位・キリスト教に寄ったものです。アフリカの黒人が欧米の豊かな生活を望むなら、その価値観を受け入れれば良い。
西洋文明の伝道者である、植民地に定住した白人とは共存すべきで、安定と発展を自然保護を求めるなら植民地統治もやむを得ない。
ヤコペッティはこの主張を堂々と繰り返します。本作はケニアのマウマウ団の乱での、白人入植者の無残な犠牲を紹介しています。
100人程度と言われる白人入植者の犠牲数に対し、掃討戦によるマウマウ団側の犠牲者は11000人以上。
隔離政策で死亡した20000人以上のキクユ族、そして膨大な戦費に疲弊するイギリス経済。これらの事実は紹介していません。
力強い映像で描かれた『さらばアフリカ』を評価する時には、ぞの映像がいかなる方法で作られたか、そして映画が何を描かなかったのかに注目して下さい。
映画が攻撃されたのも当然です。批判に晒られたヤコペッティは、ドキュメンタリー映画=”モンド映画”のスタイルを棄てます。
次に彼が製作した映画『ヤコペッティの残酷大陸』(1971)は、アメリカの奴隷制度の歴史を描いた劇映画です。
この映画は失敗します。ラストでは黒人たちが白人に逆襲する姿を描いているのに、黒人たちはこの映画を支持しません。
あまりにも白人視点で、黒人の歴史を侮辱的に描いた作品だと多くの人が受け取りました。
“モンド映画”の生みの親、ヤコペッティは作家性の強さゆえに、純粋に金儲けだけが目的の”モンド映画”を作ることが出来なかったのです。
ヤコペッティ映画の魅力は、彼の個性から発しています。彼が映画の中で正直にさらけ出した個性は、自分の価値観だけで他者を評価する危険性を教えてくれます。
ヤコペッティ自身は自らを知的で、高い問題意識を持つ人間だと考えていました。経歴を見ると褒められない部分もありますが、確かに人間的魅力を持つ人物です。
しかし彼に映画で描かれた結果、傷付いた人間も確実に存在します。『世界残酷物語』と『続・世界残酷物語』、『さらばアフリカ』を検証してその事実を確認しました。
現代はSNSの世界で、誰もが自分の意見を発信できる時代です。
自分の価値観しか認めぬ者、一部を見ただけで結論を下す者、営利や承認欲求を満たしたい者、無責任に同じ意見に同調する者がいます。
ヤコペッティの”モンド映画”にその全てが存在し、それが持つ危うさを教えてくれます。彼の映画はSNS全盛の時代、様々な教訓を我々に与えてくれます。
次回の「未体験ゾーンの映画たち2021見破録」は…
次回第24回は、謎のドラッグに溺れる女流画家が遭遇する悪夢を描く、戦慄のホラー映画『BLISS ブリス』を紹介します。お楽しみに。
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