連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第66回
こんにちは、森田です。
今回は、2022年4月22日(金)より全国公開された『映画クレヨンしんちゃん もののけニンジャ珍風伝』を紹介いたします。
アニメ放送開始から30周年となる「クレヨンしんちゃん」の劇場版30作目。その記念すべき本作では、しんのすけの出生をめぐる過去に焦点が当てられます。
ここでは作中で提示される忍術・呪術類の解釈から、同シリーズが次のステージに掲げるメッセージをネタバレを交えつつ読み解いていきます。
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『映画クレヨンしんちゃん もののけニンジャ珍風伝』のあらすじ
激しい雨が降りしきるある日、野原ひろしとみさえの間に男の子が生まれました。
ひろしは子の名前に「しんいち」「とものり」「すぐる」「けんた」などの候補をいくつか考えていましたが、急いで病院へ駆けつけたためそのメモが濡れてしまい、どうにか読み取れた文字が「し」「ん」「の」「す」「け」の5文字でした。
「しんのすけ」の誕生から5年。突然、野原家に屁祖隠(へそがくれ)ちよめと名乗る女性が5歳の少年を連れて訪れ、自分がしんのすけの本当の親だと主張します。
その子は珍蔵といい、しんのすけと病院で取り違えられたというのです。ちよめの隣には当時の医師もいて、土下座してひたすら謝っています。
戸惑いを隠せないひろしとみさえでしたが、身ひとつでやってきたちよめを追い返すわけにもいかず、ひとまず彼女を家に泊めることに。
するとその夜、謎の忍者集団が野原家を襲い、ちよめに加えて珍蔵と間違われたしんのすけまで連れ去られてしまいます。実はちよめは「忍者の里」を抜け出して追われているくノ一でした。
忍者の里には地球の奥底につながる「へそ」があり、地核を満たすマントルならぬ「ニントル」というエネルギーが漏れ出さないよう、大きな栓がされています。
屁祖隠家は「もののけの術」を使ってその栓が抜けないよう代々見守ってきました。いまは珍蔵の父・屁祖隠胡麻衛門(ごまえもん)がその役目を負っていますが、もののけの術は使い続けると姿が動物に変わってしまうことから、彼の体はもうすっかりゴリラになっています。
そこで村長は、屁祖隠家の子である珍蔵から忍術を引き出そうとしますが、里に帰ってきたのはしんのすけでした。しかし忍者たちはそのことに気づいていません。
地球の存亡は、しんのすけの“忍法”に委ねられていきます。
へその栓の意味から見えてくる「人災」の原因
30周年の記念作にふさわしく、“へそ”をモチーフに本作の物語は展開していきます。
結論から言いますと、本作を読み解くには「へその栓とはなにか?」「へそはどこに(何と)つながっているのか?」を考える必要があります。まず前者からみていきましょう。
栓は巨大な純金からできています。地球の圧力で地上に浮かび上がってくるたびに、胡麻衛門が忍術で大きなゴリラを召喚し、辛うじて押し止めている状態です。
ちよめは密かに地質学者や研究者に連絡をとり、忍法ではなく機械で栓を押さえる方法を探っていました。それはなにより、大事な夫を守るためでもあります。
しかし、村長は伝統であることを理由に“忍法の機械化”を拒否します。習慣だから、前例がないからと、惰性で物事を判断する姿勢を「大人の思考」と呼んでおきましょう。
大人の思考には、打算も絡んできます。村長の真の狙いは金そのものであり、近ごろ頻繁に栓が抜けそうになるのも、村長一味が金を少しずつ採掘しているからでした。
いっときの利益誘導と、確率は低いけれども将来的に破滅を招くかもしれない行動とが「金の栓」にかかっているのをみますと、やはり「原発」を想起せざるをえません(栓は制御棒とみなせるかもしれません)。実際に本作は、このような大人の思考が引き起こす人災をめぐるディザスタームービーの様相を呈していきます。
親心という教えの忍法
しんのすけは連れ去られる際に、みさえの携帯電話を持っていました。ひろしとみさえはその位置情報をたどって、大急ぎで忍者の里へ向かいます。
珍蔵はもののけの術を使って追っ手をかわそうとしますが、どうやってもうまく発動できません。一方で、普通の人間であるはずのひろしとみさえは、臭い靴下を振り回したり、馬鹿力を発揮したりと次々に敵陣を突破していき、珍蔵にはそれが「忍法」に見えていきます。
実の子かどうかはわからない。でも、しんのすけというこれまで育ててきた我が子にただ会いたい。その一心で、一行はついに忍者の里でちよめとしんのすけに再会します。
ちよめはこれまでの嘘を認めます。医者もまた、忍術で操っていた人形でした。
いわく、しんのすけが生まれた時に同じ病室にいて、幸せそうなひろしとみさえの姿を見て、いつか珍蔵を“普通の家”に託すのを思い描いていたとのこと。そして、取り違いでつながった“兄弟”同士、野原家と屁祖隠が一緒に暮らすのを夢見ていたと明かします。
みさえは、なんでも1人で立ち回ろうとするちよめを責め、困ったときは助けを求めればよいと諭します。しんのすけが忍者の里で駆使していたのも「忍法・わからないことは人に聞く」でした。
そんな彼らについに危機が訪れます。胡麻衛門が珍蔵を長老の手から守った瞬間、金の栓が弾け飛び、勢いよくニントルが噴出し始めたのです。金塊は遠く、花火大会を行っていた春日部の地まで飛んでいきました。
しんのすけたちがもののけの術を使えた理由
ニントルが尽きれば、地球は自転を止め、明日が来ることもなくなります。ちよめは地球のへそを塞ぐため、1人で作ってきた例のからくり人形を金塊の回収に出動させます。
野原家は文字どおりちよめの手となり足となり、慎重に無理のないように、大きな人形の歩みを進めていきます。彼女のお腹には新たな命が宿っていたからです。
折しも、彼女は産気づいてしまい、しんちゃんと珍蔵が生まれた産婦人科に立ち寄ることに。そのまま入院となり、地球の明日は野原家と花火大会に来ていたかすかべ防衛隊、そして珍蔵に委ねられます。
一方で長老一派は替えの栓があるからと、金塊が出てきたのをこれ幸いとし、それを溶かし始めます。自作した代替の栓などニントルの圧力で一瞬で吹き飛んでしまったのですが、それならば溶かした金でシェルターを買えばいいと長老は言ってのけます。「大人の思考」ここに極まれりです。
対する珍蔵は、もののけの術で金塊を運び戻すことに期待をかけます。しんのすけはじめ、トオル、ネネ、マサオ、ボーのかすかべ防衛隊は珍蔵ともすぐに仲良くなり、忍術をまるで「ごっこ遊び」かのように「教えて!」とねだります。
それまで内なる獣を召喚できずにいた珍蔵は、みんなと忍法を実行することで大きなモモンガを出現させることに成功し、防衛隊の5人もそれぞれの動物を心から解き放ちました。
珍蔵ばかりでなく、しんのすけたちも忍術を使えたのはなぜでしょうか? ここからが、いよいよ本作のメッセージの核心となっていきます。
「大人の思考」に対抗する忍法は「子どもの想像力」
胡麻衛門の先代、つまり珍蔵の祖父が語るには、“もともと忍法は、子どもが遊んでいるときに生まれたもの”だそうです。
ずっと1人でがんばってきた珍蔵がもののけの術を使えるようになったのは、同世代の友だちと触れ合うことで「子ども心を取り戻したから」と言えるでしょう。
そしてその「子ども心」の本質は、おそらく「自由な想像力」です。
子どもは怪獣にもヒーローにもなれますし、空を飛ぶことも宇宙を旅することもできます。思いついたらすぐ“それ”になれるのです。本作はこれを忍法のルーツとし、「大人の思考」には「子どもの想像力」を対置させます。
そして“忍法”を共有することで、地球規模課題に立ち向かうという点では、たとえば『天気の子』(2019)が見せた“明日”とは異なるアンサーを示しています。
何ものにも縛られない想像力
ニントルが彗星のように空に尾を引いて流れていく様子は、新海誠監督の作品世界をイメージせずにはいられません。そして『天気の子』では、“超能力”を持つ少女が気象を操り、その力を手放す代わりに東京は水没してしまいます。
一方、本作のしんちゃんは得意のユーモアで「特殊/普通」の構図を解体し「自分が特別と思っている力は、案外、特別ではない」ということを知らしめます。
代々受け継がれてきた秘伝の術。それが終盤では「いとも簡単にみんなが使っている」と語られる爽快さ。
これは前作『謎メキ!花の天カス学園』が「知の独占」を崩してみせた延長線上にあるとも言えますし、『天気の子』に代表される「君か世界か」の問いに対する一つのアンサーとも受け止められます。
「超能力はみんなで共有しよう」「考え方一つで、案外できるじゃん!」というノリは冗談に聞こえますが、上述したポイントから実際に諸課題に有効だと思います。
絶対に無理だ、もう変えられないという姿勢は「大人の思考」に毒されてはいないか。「子どもの想像力」は年齢を問わず、自由のあるところに芽生えます。不透明な時代の答えなき課題には、考え方も縛られてはいけないのです。
しんのすけと珍蔵は、巨大なシロとモモンガのアバターをもって、金塊を地球のへそに見事押し戻しました。
「名もなき子ども」の誕生という新たな出発
さて、金の栓のもう1つのポイント「へその先にあるもの」ですが、栓を押し込んだ際のショットを確認してください。
時を同じくして「産声」が広い空に響き渡ります。もちろん、ちよめが無事に出産したことを教えていますが、肝心な赤ちゃんの顔をあえて映していません。
この産声は人類への祝福であり、へそは“人類の産道”につながっていたと捉えられます。そしてそれは、“家族もの”としての「クレヨンしんちゃん」が見出した1つのブレイクスルーでもあるといえます。
子どもは一家族のものではなく、地球上のみんなで育てるもの。だから誰もが親であり、誰もが兄弟である。ちよめが産んだ「名もなき子ども」は、まさにシリーズが今からまた始まる意義を説くものです。
いま求められる「もののけ」の力
本作のキャッチコピーは「明日を、生きて。」です。
『もののけ姫』(1997)のそれは「生きろ。」でしたが、地球規模課題が山積する時代においては「もののけの力」が求められるようです。
それはひとえに固定観念を打ち破る想像力であり、原作者亡き後も「明日」を紡ごうとしてきたスタッフたちの努力からも、その力強さと柔軟性をうかがい知ることができます。