連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第61回
こんにちは、森田です。
今回は、2021年10月15日(金)よりテアトル新宿ほか全国ロードショー公開される映画『かそけきサンカヨウ』を紹介いたします。
サンカヨウという植物の特徴から弱さが強さに転じる本作のテーマを見いだし、それが原作小説にはない発展的な脚色で示されていることまで、概説していきます。
映画『かそけきサンカヨウ』のあらすじ
高校生の陽(志田彩良)は、幼いころに出ていった母・佐千代(石田ひかり)の代わりに家事をこなしがら、父・直(井浦新)とふたりで暮らしていました。
しかし、父が美子(菊池亜希子)との再婚を決め、4歳のひなたを連れ子に家に迎い入れてから、その静かな日々は終わりを告げます。
新しい暮らしへの戸惑いを、陽は同じ美術部に所属する陸(鈴鹿央士)に打ち明け、陸もまた、親身に寄り添う姿勢をみせていきます。
生みの母への想いを募らせていった陽は、絵描きである佐千代の個展に陸を誘い、そこでサンカヨウの水彩画を目にします。
その植物の特徴から、本作の見どころも浮かび上がっていきます。
特徴① 濡れると透明になる
この植物は、朝露や雨を吸うと花弁が透明になることで知られています。
それにかかる“かそけき”とは古語の“幽けし”で、淡い、薄いといった意味です。
実体がありつつも、霞んでしまう存在。この幽幻な草花はまさに陽の母親のようで、実際、陽を背負った佐千代が山中で「サンカヨウ」と口にしたのを陽は原体験として覚えているといいます。
しかし開花まで数年もかかるサンカヨウに対し、その後、陽は早すぎる成長をみせていきました。
放課後に級友たちと喫茶店でおしゃべりするなか、スカートにひなたがつけたご飯粒に気づきそっと隠すショットなどは、“時々おかん”という呼び名以上に痛烈なものです。
父親の直も“はやく大人にさせてしまった”ことを詫びますが、これは今泉力哉監督作品のテーマのひとつだとうかがえます。
つまり、大人にならざるを得なかった少年少女をとおして、ほんとうの大人、成熟とはなにかを繰り返しテーマに掲げています。
本作の主演を務める志田彩良は、今泉監督の映画『mellow』(2020)においても、花屋の店主に恋い焦がれる大人びた少女を演じました。
そこで改めて“花”を変えて、本作のテーマを掘り下げていきましょう。
特徴② 環境の変化に弱い
“早咲きのサンカヨウ”ともいえる陽は、環境の変化に弱く、日に当たりすぎると枯れてしまうという点でも、その花に似ています。
再婚で家族構成が変わったのはもちろんのこと、美子もひなたも“太陽”のように明るく朗らかな性格で、寡黙な直との生活に慣れていた陽は動揺を隠せません。
原作者の窪美澄は、文芸誌「小生 野性時代」での連載にあたり、編集長の「夏は朝に水をやると水が熱せられてダメになってしまうから、深夜にやったほうがいい」という言葉が、自分のなかでのキーワードになったといいます。
本作でも、ナイーブな陽の成長に必要な“夜”が訪れる場面があります。感情を抑えきれなくなった陽と直が向き合い、ふたりのあいだに水のようにあふれ出る感情をワンショットで捉えたシーンは必見です。
陽が特に思い悩むのは、直によれば自分を愛していたはずの佐千代が、それでも家を出ていったという事実です。
その疑問に対して、直は真面目に話し合ったがゆえに、破局を避けられなくなってしまったことを明かします。
窪は映画化にあたり「人と人との境目はがっちりとした強固なものではなく、淡く滲んでいたほうがいい」とのコメントを寄せており、小説内では直と佐千代の関係を“ねじをしめすぎて、動かなくなったモーター”に例えています。
あるいは遊びのないハンドルにもなぞらえられるでしょうが、その危うさをのちに陽も身をもって経験することになり、それが原作にはない発展的なポイントになっています。
特徴③ 開花期間が短い
本作は短編集『水やりはいつも深夜だけど』の一編で陽視点の「かそけきサンカヨウ」を原作に、文庫化の際に書き下ろされた陸視点の「ノーチェ・ブエナのポインセチア」をかけ合わせ、全体の物語を独自に脚色しています。
そのことで、陽と陸との関係が原作より深められ、周囲の人間模様も群像劇ふうに丁寧に描かれています。
心臓に病を抱えた陸は、一挙一動に注意を促す過保護な祖母と、その姑に小言をいわれてばかりのおとなしい母が同居する家庭で、息苦しい日常を送っています。
そんななか、陽の食卓にたびたび招かれるようになった陸は、血縁よりも強い家族のつながりを感じ取っていきます。
そのまなざしをあらわすかのように、食事のシーンは全編に渡り印象的に撮影されています。
直とふたりの夕飯、美子とはじめて会った中華、陸を迎えての手巻き寿司など多くの品々が出てきますが、カメラの焦点はあくまで「料理」ではなく「食事」に当てられています。
料理がなんであろうが、相手がだれであろうが、食卓を囲めばみな家族なんだ。そう問いかけているようです。
むしろ花盛りが一瞬で曖昧な関係だからこそ、生活のたったひとつの接点で、つながっていられるのではないか。この視点に基づき、映画では美子だけでなく、佐千代を含めた新たな関係構築が模索されます。
そしてそれは、ある事情で破れてしまった佐千代の画集を修復する行為にもっともよく象徴され、だれが繕うかという点で、原作にはない演出がなされています。
絵を継ぎ接ぎする小さな手は、過去の記憶ではなく、ただ一家の将来だけを無心に紡いでいます。
「佐千代と直」から「陽と陸」の関係へ
だれかと一緒にいるために必要な“淡さ”があることを、映画では最終的に陽の立場にも落とし込み、提示していきます。
陸もまた一人の主人公として登場することにより、陽と陸の関係までテーマが及んでいくのです。
顛末は伏せますが、『mellow』で鍵となった「告白」が、本作でも重要な行為に位置づけられています。
ここでひとついえることは、直が陽に反省してみせた“ぼんやりとさせておくべきだったこと”を、陽も理解できるようになったのではないかという、原作にはない境地が映画では切り開かれていることです。
陸は陸で、長く海外で単身赴任をしている父を母が寂しく思わないのか疑問をぶつける一幕があるのですが、大人の関係は好き・嫌いという言葉の外にあることを知ったとき、陽との本当の恋がはじまるのかもしれません。
あくる日のサンカヨウ
振り返れば、水彩画のサンカヨウというのも、輪郭がぼやけ、滲んでいます。
今泉監督が“弱さは曖昧で強さとも表裏一体である”と述べているように、「雨に打たれて透き通った強さ」が、いずれの登場人物たちからも確認できます。
これは実にすがすがしいことで、絵画のタイトル「あくる日のサンカヨウ」が、まさしく本作の別名といえることでしょう。