連載コラム『だからドキュメンタリー映画は面白い』第60回
今回取り上げるのは、2021年7月9日(金)よりシネスイッチ銀座全国順次公開の『83歳のやさしいスパイ』。
83歳の素人スパイが、入居者への虐待行為の疑いのある老人ホームへ潜入して見つけた真実とは?実際の新聞広告から生まれたハートフルなドキュメンタリーです。
【連載コラム】『だからドキュメンタリー映画は面白い』記事一覧はこちら
映画『83歳のやさしいスパイ』の作品情報
【日本公開】
2021年(チリ・アメリカ・ドイツ・オランダ・スペイン合作映画)
【原題】
El agente topo(英題:The Mole Agent)
【監督・脚本】
マイテ・アルベルディ
【音楽】
ビンセント・ファン・バーメルダム
【キャスト】
セルヒオ・チャミー、ロムロ・エイトケン
【作品概要】
老人ホームの内定のため入居者として潜入した83歳の男性セルヒオの調査活動を通して、ホームの入居者たちのさまざまな人生模様に密着したドキュメンタリー。
小さな世界で起こる日常の物語を通して、登場人物を非常に近い視点から描き出すドキュメンタリーを撮ることに定評のあるマイテ・アルベルディが、監督・脚本を担当。
昨年の第33回東京国際映画祭では『老人スパイ』のタイトルで上映され、第68回サン・セバスティアン国際映画祭で観客賞・最優秀ヨーロッパ賞を受賞。米映画批評サイトRotten Tomatoesでは95%フレッシュ(6月4日時点)と、世界中で高く評価されました。
映画『83歳のやさしいスパイ』のあらすじ
南米チリで、80~90歳の高齢男性を募集する新聞の求人広告が探偵事務所から出されました。
依頼内容は、老人養護を主とする施設、聖フランシスコ特養ホームの内偵。依頼人の母が虐待や盗難に遭っているのではないかという疑念から、施設での生活の様子を誰にも気づかれずに毎日報告するというものです。
事務所の代表ロムロとの面接の末、多くの応募者の中から選ばれたのは、妻を亡くしたばかりで新たな生きがいを探していた83歳のセルヒオ。
彼は素性を隠して施設に入居するも、今までスマホを使ったことがないため、写真撮影やメールなどの電子機器の使い方に悪戦苦闘するありさまで、ロムロを心配させることに。
そんな中、誰からも好かれる性格の持ち主であったセルヒオは、すぐに施設内で人気者になっていき…。
真の目的を伏せて老人ホーム内を密着撮影
本作『83歳のやさしいスパイ』は、監督のマイテ・アルベルディ自身、かつて探偵事務所で数ヶ月働いていたという経験に想を得ています。
事務所に勤めていた際、実際に身内が暮らす老人ホームの内部調査の依頼が多かったことから、「老い」についてや、施設に入居している人たちに起こり得ることについての現状に密着したいとして、製作を開始。
スタッフは、施設で横行するとされる虐待を調査するという本来の目的を伏せ、職員と入居者の関係性や新しい入居者なども焦点を当てたいという名目で撮影を行いました。
スタッフは、撮影を開始する2週間前から施設に入り、ほかの入居者たちとコミュニケーションを図ることで、カメラを意識させない状況を作っていったとのこと。
「ドキュメンタリーというのは小さな瞬間の積み重ね。些細な会話だけで3日過ぎる時もあるから忍耐が必要」とアルベルディ監督が語るように、施設内の様子を3ヶ月間じっくりと撮り続けた結果、延べ300時間もの映像素材を集めました。
やさしさライセンスを持つ男
映画の歴史でスパイを題材にした作品といえば、「007」シリーズや「ミッション:インポッシブル」シリーズ、「キングスマン」シリーズなど無数にあります。
さらに老人スパイに絞れば、東西冷戦下で暗躍する老スパイたちの攻防を描く『裏切りのサーカス』(2011)や、老いた父親が凄腕スパイだったというコメディ『SPY TIME -スパイ・タイム-』(2015)があり、若かりし頃スパイだった80代老婆の実話をベースとした『ジョーンの秘密』(2020)もこの系統に入るかもしれません。
でも、本作のメイン被写体となる83歳のセルヒオは、妻を亡くして新たな生きがいを探す目的でスパイ募集に応募した、れっきとした素人。
初任務(?)は、老人ホーム内で行われているという虐待や盗難の証拠を掴むことですが、スパイ経験などあるはずもない彼にとっては、ターゲットとなる女性の名前を覚えるのにもひと苦労。
隠しカメラが仕込まれたペンはおろかスマホの扱い方も分からないため、写真撮影もメール送信も一から学ぶ必要があり、いきなり悪戦苦闘することに。
なんとか準備を整えて施設に入るも、電話での調査報告時に交わす秘密の暗号を忘れて大声で喋ってしまう、堂々と隠しカメラで盗撮してしまうなど、探偵事務所のロムロばかりか製作スタッフまでもヒヤヒヤさせる行動を取る始末です。
こんな有様で本当にスパイが務まるのか。ロムロやスタッフ同様に観る者誰もがそう思った中盤以降から、セルヒオの潜入調査は意外な方向に進みます。
任務遂行のためには時として非情となり、妨げになる者は容赦なく排除する――ジェームズ・ボンドに代表されるように、映画に登場するスパイは“殺しのライセンス”なるものを所持しています。
しかしながらこの老スパイは、非情になるどころか、入居者の大半を女性が占める施設にて、聞き込み調査として一人ひとり話しかけていくうちに、いつしか良き相談相手のポジションを確立する人気者に。
“やさしさライセンス”を持つ彼の紳士的かつ親切なふるまいにハートを射抜かれた女性たちは、身を任せるように各々の悩みを打ち明けていくのです。
それは男性(つまりセルヒオ)への恋煩いだったり、徐々に記憶力が薄れていくことへの不安だったり、そして体力が衰えていくことへの恐怖だったりと、悲喜こもごもでした。
高齢化社会に潜む現実
撮影を続けるうちに、被写体のみならずスタッフも予想だにしない展開に転がっていくことは、当連載で取り上げてきたどの密着形式のドキュメンタリーにも該当しますが、本作でもその定説は当てはまります。
スパイとして潜入調査をしていたセルヒオは、入居者たちとの信頼関係を築いていくうちに、ある大きな現実を突き止めることに。
はたして、施設での虐待や盗難は存在したのか?セルヒオの最終調査報告の内容は、是非とも劇場で確認して頂きたいのですが、それはチリだけではなく、高齢化が進む日本も無関係ではないと断言しましょう。
年齢を重ねた親や祖父母と気軽に顔を合わすのが難しくなったこのご時勢だからこそ、やさしき老スパイが見つけた現実を、心のルーペでじっくり凝視すべきなのかもしれません。
次回の連載コラム『だからドキュメンタリー映画は面白い』もお楽しみに。
【連載コラム】『だからドキュメンタリー映画は面白い』記事一覧はこちら