映画『ある男』のラストが映し出す「肖像画」の演出を考察解説!
亡くなったことで初めて「他人になりすましていた」と発覚した男とその妻、戸籍不明・正体不明の「ある男」を追う弁護士の各々の人生を描いたミステリー映画『ある男』。
原作は、『マチネの終わりに』(2019)など知られる作家・平野啓一郎のベストセラー小説です。
本記事では原作小説の「序」で言及され、映画では冒頭・ラストにて印象的に映し出されていた、画家ルネ・マグリットの絵画『複製禁止』にクローズアップ。
ネタバレ言及有りで、絵画『複製禁止』と映画オリジナル演出との密接な関係性、そこから見えてくる映画『ある男』が小説『ある男』と異なるラストになった理由について解説・考察していきます。
CONTENTS
映画『ある男』の作品情報
【日本公開】
2022年(日本映画)
【原作】
平野啓一郎『ある男』
【監督】
石川慶
【脚本】
向井康介
【キャスト】
妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝、清野菜名、眞島秀和、小籔千豊、坂元愛登、山口美也子、仲野太賀、真木よう子、柄本明、きたろう、河合優実、カトウシンスケ、でんでん
【作品概要】
作家・平野啓一郎の小説を原作に、亡くなったことで初めて「他人になりすましていた」と発覚した男とその妻、戸籍不明の男の「顔」を追う弁護士の人生を描いたミステリー。
弁護士の城戸役には、石川慶監督とは『愚行録』以来5年ぶりのタッグとなる妻夫木聡。
戸籍上は「谷口大祐」として生きていた謎多き「ある男」を『初恋』の窪田正孝が演じ、謎の男と幸せに暮らしていた妻・利恵里枝役を『万引き家族』(2018)の安藤サクラが演じる。
映画『ある男』のあらすじ
弁護士の城戸(妻夫木聡)は、離婚調停を担当したかつての依頼者・里枝(安藤サクラ)から、亡くなった夫・大祐の身元調査をしてほしいという奇妙な相談を受ける。
里枝は離婚を経て、子どもを連れて文房具屋を営む実家へ帰郷。やがて出会った「谷口大祐」という男(窪田正孝)と再婚し、新たに生まれた子どもとともに幸せな家庭を築いていたが、ある日彼は不慮の事故により命を落としてしまう。
悲しみに暮れる中、長年疎遠になっていた彼の兄・恭一(眞島秀和)が法要に訪れるも、遺影を見た恭一は「これ、大祐じゃないです」と衝撃の事実を告げる。
愛したはずの夫は、全くの別人だった……。
「谷口大祐」として生きた「ある男」は、いったい誰だったのか。
なぜ彼は、別人として生きたのか。
「ある男」の正体を追い真実に近づくにつれて、いつしか城戸の心に別人として生きた男への複雑な思いが生まれていく……。
映画『ある男』冒頭・ラストの絵画の謎を考察解説!
『複製禁止』──「顔」のない肖像画
映画『ある男』の冒頭とラストで映し出される一枚の絵画。鏡の前に立つある男の背中と、鏡に映る「その男の背中」という現実世界ではあり得ない光景を描いたその作品は、原作小説の「序」でも言及された画家ルネ・マグリットの『複製禁止』(1937)という名の絵です。
小説『ある男』との関わりについて、「この物語は、それに似たところがある」と小説内で記された絵画『複製禁止』。富豪の詩人にして、マグリットをはじめ当時のシュルレアリストたちのパトロンでもあったエドワード・ジェームズに「自宅の舞踏室に飾るための絵」として制作を依頼されたといわれています。
画面内で背中のみが描かている男もエドワード・ジェームズその人であり、『複製禁止』という名の絵画はエドワード・ジェームズの「“顔”のない肖像画」でもあるのです。
二人の「ある男」が描いた「真実」の姿
現実に実在する男の「“顔”のない肖像画」……それは、「人物の“背中”のみを描く」と「人物の“眼”を描けない」という表現の差はあれど、映画オリジナルの演出として描写された、「谷口大祐」として暮らしていた原誠(窪田正孝)がスケッチブックに遺した自画像と重なります。
「真実の自己を映し出すもの」であるはずの鏡ですら、その人物の正体としての「顔」を映し出せないがゆえに、ただ「背中」だけがそこに映ると想像したのであろうマグリットの絵。そして、鏡に人殺しの息子という「真実の自己」が映ると囚われ、人体における「鏡」でもある眼という「真実の自己を映し出すもの」を描かなかった誠の絵。
鏡や、それと同じ機能が備わる事物(車の窓ガラスやサイドミラー、刑務所の面会室を仕切る窓、城戸の自宅のテレビの液晶、父の殺人を映した幼い誠自身の眼など)を用いた演出が多く登場する映画『ある男』。
二人の「ある男」が描いた二枚の絵もまた、時代や場所、制作の経緯は異なるものの、互いが互いにとっての「写し鏡」であり、それぞれの思う真実が同じく反映された肖像画であることを、映画では演出したかったのではと考えられるのです。
誰でもないはずなのに、誰にでもなれる者
また忘れてはならないのは、マグリットの絵画に名付けられた『複製禁止』という題名です。
マグリットは自身の絵画の題名について、「絵の題名は説明ではなく、絵は題名の図解ではない」「題名と絵の関係は詩的である」「その関係によって、二つの相反するものに共通する側面が表現されなければならない」と語ったとされています。
題名と絵という異なる事物同士が同じ空間に組み合わされる時に、新たな意味やイメージが生み出される……マグリットが用いたシュルレアリスムの表現手法「ディペイズマン」は、小説『ある男』には存在しない誠の「“顔”のない肖像画」を作中へ登場させ、原作内で言及されたマグリットの絵画と「映画作中」という同じ空間に配置した映画『ある男』でも用いられています。
鏡とともに映し出される、二重写しにされた……「複製」された男の背中を描いた絵と、『複製禁止』という題名。相反する両者から想像させられる新たなイメージとは、おそらく「複製できないはずなのに、複製できる者」……「誰でもないから、誰にでもなれる者」なのではないでしょうか。
映画『ある男』のラスト、「僕は……」という言葉に続けて城戸が名乗ろうとする瞬間に画面は暗転。遠くから聞こえる木を切る音……樹齢という決して偽れない「生の証」を持つ木という存在を切る様を、それまでの人生が刻まれているはずの「名」を切り落とす様に重ねた音だけが響き、城戸が何と名乗ったのかは最後まで明かされません。
「城戸章良」か、「原誠」か、「谷口大祐」か、あるいは「曽根崎義彦」か……それがどんな名であったとしても、バーで絵画『複製禁止』を見つめる城戸の姿が「絵画『複製禁止』の画面に、もう一つ男の背中が描き加えられた様」のように描かれていた時点で、城戸は「誰でもないから、誰にでもなれる者」の一人と化していたといえるでしょう。
まとめ/「分人」という「分からない人」の肖像
亡くなった誠を名前という嘘をついていたものの、その愛自体は真実であったと確かめ合う里枝と悠人の会話で締めくくられる小説『ある男』に対し、里枝と悠人の会話の感動の場面の後に小説でも描かれた城戸の妻・香織の浮気発覚の場面を配置し、そのままバーでのラストへと流れ込む映画『ある男』。
場面を描写する「位置」を入れ替えただけで、物語への印象がガラリと変わってしまった『ある男』の二つの結末からは、マグリットがディペイズマン同様に用いていた「コラージュ」……あらゆる事物を素材と捉えて切り抜き出し、一つの作品へと再構成する表現手法を彷彿とさせられるだけでなく、あらゆる事物を撮影し、映像へと変換した上で断片化し、それらをひとつなぎに接合する「編集」で形作られる映画の本質を再認識させられます。
それではなぜ、映画『ある男』は各場面の配置を変更し、小説と異なるラストにしたのか。それは、「映画はあくまでも、人間を“分からない者”として描きたかったから」ではないでしょうか。
対人関係・環境ごとに分化した異なる人格を持ち、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えようとする考え方にして、生き方……原作者の平野啓一郎が提唱した「分人主義」は、小説『ある男』にも反映されています。
ところで、「分人」とは何の略称なのでしょうか。平野啓一郎が語る分人主義のあり方をふまえると「分かつ人」「分かれた人」といった言葉を想像できますが、もしかすると映画『ある男』の製作陣は「分からない人」と想像したのではないでしょうか。
「現代を生きる人々はいくらでも異なる人格を持ち得るのだから、そもそも自己・他者含めて“人を理解する”なんてことは不可能だ」……原作小説が描く分人主義にそうした「顔」を見出したからこそ、映画は小説と異なる『ある男』の結末が描かれたのかもしれません。
そして、映画の冒頭とラストに登場したマグリットの絵画『複製禁止』こそが、「分からない人」としての「分人」の肖像画なのでしょう。