新海誠監督の『天気の子』が2019年7月19日(金)より全国公開されました。
大ヒットを記録した『君の名は。』から3年。新海監督がモチーフに選んだのは「天気」でした。
それまでも、作品の中で「天気」は、登場する人物たちの感情や、その運命の分岐点を表す重要な「道具」として使われてきました。
その「天気」に今回真正面からぶつかったのは、年齢や立場、住む地域に関係なく、多くの人が毎日あたりまえのように気にするものだから。
そしてその「天気」がおかしくなってきている、それは、最近の季節を無視したような気温や、攻撃的に降り続く雨などによって私たちが肌で感じていることです。
体感的に皆に共通するテーマをあえて選び、新海監督は観客へ新たな「成長物語」を提示してきました。
映画『天気の子』の作品情報
【公開】
2019年(日本映画)
【原作】
新海誠
【監督】
新海誠
【キャスト】
醍醐虎汰朗、森七菜、吉柳咲良、平泉成、倍賞千恵子、小栗旬、本田翼
【作品概要】
新海誠監督が、天候の調和が狂っていく時代に、運命に翻弄されながらも自らの生き方を選択しようとする少年少女の姿を描いた長編アニメーション。
『君の名は。』に続いて川村元気が企画・プロデュース、田中将賀がキャラクターデザインを手掛け、『猫の恩返し』(2002)などスタジオジブリ作品に多く携わってきた田村篤が作画監督、『言の葉の庭』(2013)の滝口比呂志が美術監督を担当しました。
『兄に愛されすぎて困ってます』(2017)に出演した醍醐虎汰朗と、『地獄少女』(2019)『Last Letter』(2020)など話題作への出演がひかえる森七菜という新鋭の2人が、帆高と陽菜の声をそれぞれ演じます。
他にも、小栗旬、本田翼、平泉成、梶裕貴、倍賞千恵子らが出演し、『愛にできることはまだあるかい』など複数の主題歌を含む全ての音楽を人気ロックバンドRADWIMPSが担当しています。
映画『天気の子』のネタバレ感想と評価
本作が劇場用映画7作目となる新海誠監督。『君の名は。』の驚異的な大ヒットは、新海監督にどんな変化をもたらしたのでしょうか。
多くの新しいファンを獲得し、舞台となった場所への「聖地巡礼」がブームとなり大きな経済効果が生まれました。
メディアにも多く取り上げられ、それまで新海監督を知らなかった大人たちからも注目を浴びるようになったのです。
新海監督の新作を見ずして今の日本のエンタメは語れない、そんな状況です。
それは、監督の選ぶテーマや込められたメッセージが、私たちの心に刺さってくるからにほかなりません。
そして本作『天気の子』では、実体験として皆が感じている異常気象を題材に、見えない「天気」の力に翻弄される少女と、彼女を救おうとする少年の、王道ともいえる物語を作り上げました。
『君の名は。』に対するさまざまな意見に対して、「もっと叱られる作品を」という気持ちで作り始めたというこの『天気の子』。
その内容について、新海監督の思惑を探りながら、ラストのセリフに込められた意味も一緒に考えていきましょう。
主人公二人の閉塞感
森嶋帆高は16歳。窮屈な島を飛び出し、ひとり東京で暮らすことを決意する少年です。そんな帆高のバックボーンにはあまり触れないまま物語は進みます。
なぜ島の生活がイヤなのか、そのあたりは最後まで語られません。両親から捜索願が出されたというセリフがあるので、島では両親と暮らしていたと思われますが、その生活について息苦しい、と帆高は陽菜に言っています。
帆高の育った島に限らず、田舎の小さなコミュニティ内での暮らしに閉塞感をおぼえるのは、思春期の若者ならよくあることでしょう。進学や就職を機に、都会へ出ていく少年少女はたくさんいます。
でも帆高は家出し、都会の片隅でつらい生活をしながらも、猫に話しかけてしまうくらい帰りたくないのです。
初めて陽菜に会ったとき、彼女がくれたハンバーガーを、16年間で一番おいしい夕食、と表現するシーンがありますが、いくら数日まともに食べていなかったとはいえ、そんなことがあるのでしょうか。
そのあたりの家庭環境に、もしかしたら家出した一因があるのかもしれません。
そんな帆高は、あやしげなフリーライターの須賀に拾われ、文字通り居場所を見つけます。
雑用をこなしながら取材や原稿執筆をおこない、徐々に新しい生活に慣れていきますが、捜索願がでていること、そして銃を発砲したことで捜査の手が伸びてきていることを帆高はまだ知りません。
そんな帆高が出会う少女、それが天野陽菜です。小学生の弟と二人暮らしの陽菜は、児童相談所などをなんとかごまかしながら生活しています。
弟、凪のために働き、二人の生活を守りたい陽菜。でも、あたりまえですが、大人の社会はそれを許してはくれません。
帆高も陽菜も、非常に危うい日常を送っているのです。
帆高と陽菜を阻む「大人社会」
警察に目をつけられ、いよいよ児童相談所の人がやってくる前夜、陽菜は凪を連れて逃げる準備をしています。そして帆高には島に帰るように言うのです。
その直前、世話になった須賀からも同じように、島に帰るよう言われていた帆高はそれを拒否し、陽菜たちといっしょに行く決意をします。
そんな彼らを拒むように、大雨特別警報が発令されるほどの大雨が東京を襲い、8月だというのに気温は下がりやがて雪に変わります。
電車は止まり、三人は悪天候の街なかをあてもなくさまよい歩きます。それは、どこにも居場所のない彼らを象徴するシーンです。
身分証のない子ども三人ではどこのホテルにも泊まることはできず、外に出れば警官に職務質問をされてしまいます。
彼らの求める「自由」は、大人によって手の届かないものになりつつありました。
高額なラブホテルで楽しいひとときを過ごした後、帆高は警察につかまってしまいますが、陽菜にもう一度会いたい、という強い思いで警察署から逃亡します。
帆高はつかまっては逃げ、つかまっては逃げ、線路を走り、ついにあの廃ビルにたどり着くのですが、そこで立ちふさがったのはあの須賀でした。
彼は帆高の味方であった人物ですが、陽菜を救おうとする帆高を邪魔する者としてそこに存在します。
須賀は帆高を心配し、これ以上罪を重ねないよう、よりよい方向へ導くためにやってきましたが、陽菜を救うことに必死な帆高にとっては「常識の壁」となって立ちふさがったのです。
誰でも好きこのんで警察に追われたいわけじゃありません。でも、陽菜を救えるのは今だけ、帆高だけなのです。多少の違法行為はあっても(いえ、ダメなんですが)彼女を助けるのが彼の正義なのです。
その気概に押され、須賀は帆高をサポートする側にまわります。娘の養育権のために揉め事を避けてきた須賀が、警察から帆高を守ったのです。
その甲斐あって、帆高は陽菜を取り戻すことができました。二人は「大人社会」という障壁を乗り越えはしないまでも、それによって引き裂かれる最悪の結末は免れたのでした。
二人を応援する「時」
二人が空から戻ってきたあと、映画は三年の「時」を飛び越えます。
『君の名は。』でも、糸守の彗星衝突から一気に八年後に話が飛び、瀧と三葉は奇跡の再会を果たしました。その飛び越えた時間にはさまざまな変化があり、人々は生活を立て直したり、年齢とともに成長をしてきました。
『天気の子』の空白の三年間では、東京は海に近い部分が水没し、人々の生活は大きく変わっています。
帆高は保護監察処分となり、島に戻されてそこで学校を卒業しました。
須賀は小綺麗なオフィスを構え、従業員も雇って順調に仕事をしているようです。夏美や凪たちも、以前と変わりなく仲良く過ごしています。。
帆高は東京の大学への進学を決め、ひとり暮らしを始めることに。そして意を決して、三年振りに陽菜に会いに行くのです。
二人の再会を観客は微笑ましく目撃し、東京の街は変わってしまったけれど、時の流れが二人に穏やかな日常をもたらしたことに安心するのです。
誰かに受け入れられる幸福
「大人社会」に阻まれていた帆高と陽菜ですが、全面的とまではいかないまでも、社会は彼らを受け入れました。
ちょっと突き放した見方をすれば、家出だったり、子どもだけでの生活だったり、いわゆる社会のルールからはみ出してしまったのは帆高と陽菜の方でした。
当事者からすれば「大人の常識」は受け入れがたい現実でしたが、よく考えてみると「大人社会」は彼らの“健やかな成長”のために手を差し伸べようとしていたわけで、そもそも真っ向から敵対するものではなかったのです。
それよりももっと大きな敵(のようなもの)は「世間」、多くの人間の意識の塊のように思えます。
人柱となった天気の巫女のことを人々は知らない、もし知っていたとしても、ひとりの犠牲で大きな気象の乱れが収まるなら、と容認してしまう。それを帆高は変えたかったのです。
陽菜にもう一度会いたい!天気なんて狂ったままでいいという個人的な思いが、東京の環境を一変させました。
それでも新海監督は、彼らにあたたかい三年後を用意し、人々もその生活に慣れ、受け入れています。
短い登場シーンながら印象的な立花さんのおばあちゃんが、すべてを受け入れてくれるような懐の大きさを示しています。
水没によって郊外に引っ越した彼女ですが、たずねてきた帆高に、あのへんは元々海だったから元に戻っただけだと言うシーンがあります。
もちろん大変な災害に見舞われてはいるのですが、この達観したようなセリフによって、なぜか何かから赦されたような気分になるのです。
そして、ラストシーンの帆高のセリフが、この映画のメッセージを伝えてくれています。
「ぼくたちはきっと大丈夫だ」
まとめ
「ぼくたちはきっと大丈夫だ」というこのセリフ。
これで『秒速5センチメートル』を思い出した方も多いでしょう。第一話「桜花抄」、貴樹と明里が別れるシーンで明里が、きっとこの先も大丈夫だと思う、と貴樹に告げました。
その後、貴樹は明里を忘れられず、物語の最後には大人になった貴樹は会社を辞め、恋人と別れ、明里は他の男性と結婚するのです。
その貴樹、あるいは貴樹に自身を投影した人への救済が、この帆高のセリフだったのではないでしょうか。
『秒速5センチメートル』の頃に比べて、決して世界はよくなってはいません。景気は悪くなり、世界的な異常気象も続いている。
でも、多少のことはなんとかなる。人間は、世界はそんなに悪くない。この映画はそう言ってくれているように感じます。
映画『天気の子』は2019年7月19日(金)より全国劇場にてロードショーです。