1974年日本映画最大のヒットを記録し社会現象となった作品
1973年3月、SF作家の小松左京が9年の歳月をかけ執筆した小説「日本沈没」が出版されると、上下巻合わせて400万部近い売上を記録しベストセラーになりました。
この作品は出版前から映画化が企画されており、出版と同じ年の年末に正月映画として公開されると880万人以上の観客を動員、小説と共に社会現象を巻き起こすブームとなります。
1974年にはテレビドラマ化され2006年には樋口真嗣監督が再映画化。またシリーズアニメ『日本沈没2020』(2020)と劇場版『日本沈没2020 劇場編集版シズマヌキボウ』が製作、2021年に新たなテレビドラマ『日本沈没ー希望のひとー』が放送されました。
後にこれらの映像作品を生む、日本SF災害映画の頂点を極めた1973年映画版『日本沈没』を紹介します。
CONTENTS
映画『日本沈没(1973)』の作品情報
【配信】
1973年(日本映画)
【総監督】
森谷司郎
【特撮監督】
中野昭慶
【脚本】
橋本忍
【キャスト】
小林桂樹、丹波哲郎、藤岡弘、いしだあゆみ、二谷英明、島田正吾
【作品概要】
日本映画史に残る大ヒットを記録し、その後東宝が数々のパニック映画を作る契機にもなった、70年代の日本文化・風俗史を語る上でも欠かせない作品です。
監督は黒澤明の助監督を務めその後継者と評され、『八甲田山』(1977)の監督としても知られる森谷司郎が務めました。
『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971)や『ゴジラ1984』(1984)など数多くの映画に出演の小林桂樹、初代仮面ライダーを演じ『仮面ライダー1号』(2016)にも出演、映画・ドラマで幅広く活躍の藤岡弘、が主演した災害パニック映画です。
映画『日本沈没(1973)』のあらすじとネタバレ
長い年月を経てユーラシア大陸から切り離され誕生した日本列島。そして現在、日本の人口は1億1千万を超え、戦後の高度経済成長期を経て繁栄を極めているように見えていました…。
神奈川県三崎港を出港する、海底開発興業所属の深海潜水艇「わだつみ」を乗せた支援母船「へらくれす」。船上には「わだつみ」の操縦士・小野寺俊夫(藤岡弘、)とその同僚の結城の姿がありました。
「へらくれす」は小笠原諸島北方で沈んだ無人島の調査に向かっていました。調査を担当する地球物理の専門家・田所雄介博士(小林桂樹)はぶっきらぼうな調子で、小野寺に「わだつみ」が海底1万mまで潜航できるのか尋ねます。
田所博士の態度に辟易しながらも、小野寺は「わだつみ」を操縦し海底の様子を撮影します。その映像を見て、無人島は火山活動ではなく広範囲の地滑りによって海没したと悟る田所博士と研究者たち。
原因を探るには日本海溝の最深部を調査する必要があります。それは可能なのかと尋ねられ、理論的には深度10万mまで潜航可能だと小野寺は答えます。
すると「へらくれす」に気象庁の観測船から、日本海溝と小笠原海溝の接する部分で異常を観測したとの報告が入り、島の沈没調査に引き続きそちらを観測するようにと指示されました。
日本海溝に到着した「へらくれす」は、田所を乗せ小野寺が操縦する「わだつみ」を潜航させます。8千mまで潜ると深海潮流に遭遇して大きく揺れる「わだつみ」。これ程激しい深海潮流は小野寺にも初めての経験です。
危険な潮流に揉まれながら調査を続行する田所たちが目撃したのは、海溝の底に渦巻く乱泥流でした。世界最大の日本海溝の底で、確かに何かが起こっていると叫ぶ田所博士。
その夜、私邸に帰宅した山本総理大臣(丹波哲郎)は、運輸大臣から聞かされた日本海溝の異常についての話が、奇妙にもなぜか気にかかっていました…。
海底開発興業の小野寺は、田所博士から「わだつみ」のチャーター料を聞かれます。博士は何としても日本海溝のより詳細な調査が必要だと考えている様子です。
運航予定は埋まっていると答えた小野寺は、上司の吉村部長の勧めで資産家の娘で、今は三浦半島の葉山の別荘に1人で住む阿部玲子(いしだあゆみ)と会う事になりました。
玲子の両親が独り身の娘に身を固めさせようと、吉村に相談したようです。そんな経緯の出会いでしたが共に魅かれ、夜の海辺で過ごす事になる2人。
その時、突如天城山が噴火し葉山も地震に襲われました。小野寺は玲子をかばって逃れます。
山本首相は閣議で天城山の噴火による、死者・行方不明者236人ほかの被害の説明を受けていました。噴火も地震も警告や予報が出せぬのかと問う総理は、地震研究の予算は少なく予知を行うのは難しい状況だと説明されます。
日本海溝の異常を気に留めていた山本首相は、田所博士たち研究者を集め閣僚と共に地殻運動などの地質学の説明を受けました。
地震も火山活動も地下の動きに関係して起きると解説された首相に、日本海溝の異変を目撃した田所博士は今後起きる災害について、為政者としてかなりの覚悟を持って欲しいと訴えます。
しかし他の研究者は、彼の意見は極端な説だとして真剣に取り合いません。しかし田所の研究は海外では高い評価を得ていると聞かされる山本首相。
閣僚への説明会を早々に後にした田所は、日本の財政界の影の支配者とされる老人・渡(島田正吾)と面会していました。
姪の花江と暮らす渡老人は、田所博士に1つ質問します。自分の屋敷に毎年やって来る渡り鳥のツバメが今年は現れない、これはどんな理由なのかと。
田所は同様の生物の行動異常事例が研究者から多数報告されていると答えます。その原因を掴もうと自分は躍起になっているが、今はお答えできる段階ではないと告げる田所博士。
もう1つ質問したいと、渡老人は田所に科学者にとって一番大切なことは何かと訊ねます。博士は勘だと答え、地図の大陸の形を見て大陸移動説を提唱・創造したアルフレート・ヴェーゲナー博士の例を挙げます。
老人との面会を終えた後、田所博士の研究所に内閣調査室の邦枝、自然現象の確率論の解析を研究する中田(二谷英明)、そして首相秘書官の三村が現れます。
彼らは田所の日本海溝調査に新たに調達したフランスの深海探査艇「ケルマデック」を提供すると告げ、「D計画」と記された書類を見せました。それは田所博士をリーダーとする、日本海溝の調査計画書でした。
極秘裏に運用する「ケルマデック」の操縦士に相応しい人物はいないかと聞かれ、小野寺の名を出した博士。その時南西諸島の海底火山噴火に伴う地震が、博士の研究所を激しく揺らします。
小野寺を引き抜かれた海底開発興業の吉村部長は、大手企業がダミー会社とフランスの潜航艇を使い、日本の海洋開発に乗り出したに違いないと怒ります。
詳しい説明も無く強引に田所に引き抜かれた小野寺は、父は伊豆の地震で死んだがあなたにぜひ会いたい、と語る玲子が留守電に残したメッセージを聞きました。しかし彼女に会う事無く、海上自衛隊の海洋観測艦「あかし」に乗り込む小野寺。
田所研究所では日本列島近辺に多数設置された観測機が送るデータを、中田たちが解析していました。この「D計画」への資金提供のために渡老人は秘蔵の絵画を手放した、百歳を越える渡老人は山本首相の擁立を支えた、日本政財界の影の実力者だと噂する邦枝たち。
「D計画」が渡老人の働きかけで軌道に乗ったのは確かです。中田たちは海上自衛隊の対潜飛行艇PS-1に送られ「あかし」に乗り込みます。
「あかし」艦内には連日の調査で疲れ切った姿の田所と小野寺がいました。日本列島の太平洋側のマントルが急激に変化していると、観測結果を説明する田所博士。
そのデータは従来の地質学の知識を越えた、新たな地殻変動の発生を示すものでした。従来の知識は役に立たない、直観とイマジネーションが必要だと田所は叫びます。
日本列島は日本海側のマントルを太平洋側のマントルが支えている。直観に従うなら列島を支える太平洋側のマントルが、その機能を失ったのだと田所は説明しました。
太平洋側のマントルというつっかえ棒を失うと日本列島はどうなるか。マグニチュード8以上の地震の発生も付随的なものに過ぎない、最悪の場合日本列島の大部分は海に沈むと告げる博士。
その時、海上の「あかし」は揺れに襲われます。関東地方を大規模な地震が襲ったのです。
首都圏では高速道路や歩道橋が崩れ、道路に溢れた自動車は事故を起こし次々爆発します。津波は臨海地帯を飲み込み石油コンビナートが大爆発を起こしました。
マンションは倒壊し、高層ビルの窓ガラスは割れ地上の人々に降り注ぎます。河川の堤防は決壊し、関東大震災で甚大な被害を出した火災を恐れる東京下町の人々を激しい濁流が襲います。
政府は首都圏の都道府県に緊急事態を布告します。山本首相の対策本部には続々と被害状況が報告されますが、各所で発生した火災は収まる気配がありません。
多数存在するガソリンスタンドは爆発し、道路上には障害物が溢れ消防活動は機能しません。そして火事場風(火災旋風)が炎を拡大させているのです。
陸上自衛隊のヘリコブターが消火剤を積み込み飛び立ちますが、消火対象を国家の中枢機関にすべきか、多くの人が住む民家にすべきか閣僚の意見は分かれました。
自衛隊の統幕議長は横須賀の海上自衛隊ヘリも東京の消火活動に向けようとしますが、神奈川県知事の要請で横浜・川崎地区を消火活動中で、それを中止するのかと現地部隊に問われ言葉を失います。
消火活動にあたるヘリは必死に活動しますが、火災旋風に煽られ墜落する機体も現れます。戦闘機や偵察機はこの災害に無力な存在で、国を守るとはどういう事かと自問自答する山本首相。
そこに警視庁から宮城(皇居)前に火災から逃れた人々が集まり、避難場所を求め中に押し入ろうとしている、制止する機動隊は混乱状態であるが、武器を使用して銀集を制圧すべきかとの報告が入ります。
指示を乞われた山本首相は宮内庁長官に対し、直ちに皇居の門を開けるよう命じました。
しかし自衛隊が保有する消火弾は尽き、逃げ惑う人々は瓦礫に阻まれ逃げ場を失い、次々炎の中に倒れました。
余震が続く中、首相の元に火災の被害はまだ把握出来ないものの、墨田川・荒川・江戸川の決壊で江東区・墨田区全域と江戸川区の一部地域が全滅との報がもたらされます。
ようやく一部地域で消火・医療活動が機能し始めたものの、自衛隊が保有する非常食は首都圏の避難民の数に対して足りません。しかし東京を襲ったこの災厄は、これから起きる出来事の前触れに過ぎないのではと恐れる山本首相。
この首都圏を襲った震災の犠牲者は、死者・行方不明者あわせて360万人に上りました…。
映画『日本沈没(1973)』の感想と評価
日本映画史、いや現代日本の社会・風俗・流行史を語る際に必須の映画と紹介しても異論はないでしょう。
とはいえ半世紀前の映画、当時の特撮技術で描かれた災害シーンなど大した事はない、と考えて見直したところ、前半のクライマックスである”東京大地震”の描写の凄惨さに言葉を失いました。
当時は高度経済成長期、安全は二の次で高層建築物が次々建てられ、工場による地下水汲み上げが地盤沈下を招き”0メートル地帯”を生んだ時代です。
1964年の新潟地震や1968年の十勝沖地震の経験から、津波に石油コンビナート火災・地盤の液状化現象、鉄筋コンクリート建築物の倒壊など、従来に無い形の地震災害への恐れも懸念されていました。
そして研究者が「関東大震災69年(70年)周期説」を発表します(現在では否定する意見が有力です)。1973年は関東大震災からちょうど50周年の年、近い将来の首都圏大地震発生が真剣に危惧され始めます。
改めて1973年版『日本沈没』を見ると、日本人が震災において何の被害を予測し恐れていたのか、その歴史を再確認する事が可能です。
もっともこの映画の後の1978年に発生した、宮城県沖地震を踏まえ1981年に「新耐震基準」が誕生します。映画で描かれた程の被害は今は出ない…と信じたいですが、我々は後の震災で映画と異なる姿の災厄に遭遇しました。
『日本沈没』が『シン・ゴジラ』に与えた影響
原作小説はベストセラー、映画は大ヒットを記録した『日本沈没』。原作者小松左京は様々な作風のSF小説を残していますが、1968年の「日本未来学会」の創設メンバーの1人でもあります。
そんな彼は近未来の”if”を描く「シュミレーションSF」の第一人者でもあります。元々彼が本作で描こうとしたテーマは、「国を失い放浪の民族になった日本人の姿」でした。
ですから日本列島の沈没はそのための手段であり、作者の地球物理学への関心はこの設定から生まれたものです。
しかし小松左京は同じく映画化された『復活の日』(1980)でのウィルス学への追求と同様、プレート理論など深いリサーチを踏まえ日本列島沈没を描きます。「国を失い放浪の民族になった日本人の姿」は、この本に続く第2部で描かれるはずでした。
日本列島が急激に沈没するという事態は小説用の極論ですが、2011年の東日本大震災の前震や頻発した余震、その後日本列島が地震活動期に入ったとの説が有力視される今、『日本沈没』の設定は決して間違いでは無いと思い知らされた方も多いでしょう。
そして小松左京は未曽有の災害に遭遇した際の、政府首脳部や人々の反応や行動も緻密に描いて見せます。映画では日本型の目立たぬリーダーの首相が危機に際して覚醒、最善を尽くす姿が描かれます。
この丹波哲郎演じる山本首相こそ、実在・非実在問わず日本映画に登場した最良の総理大臣だとする意見がありますが、私も全く同感です。
シュミレーション災害映画で目立たぬ首相が覚醒して立ち向かうのが『日本沈没』なら、首相以下閣僚が一挙に退場しリーダー不在でも、その下に位置した人々が立ち向かい危機を乗り越える日本型組織最善の姿を描いた映画こそ、『シン・ゴジラ』(2016)と呼べるでしょう。
庵野秀明監督が敬愛する岡本喜八監督が手掛けた「日本型組織が最善を尽くそうとして、最悪の結果をもたらす」映画、小林桂樹と丹波哲郎が出演の『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971)と『日本沈没』こそが、数々のゴジラ映画以上に『シン・ゴジラ』に影響を与えた作品です。
『日本沈没』の首相たち閣僚に科学者が地球物理学を解説するシーン、解説しているのは原作小説の
考証に参加し、この後も『地震列島』(1980)や『ゴジラ』(1984)にスタッフとなる、科学知識の啓蒙活動に努めた竹内均教授です。
これらを意識すると、『シン・ゴジラ』の冒頭で有識者として首相に呼ばれた3人の「御用学者」が全く役に立たないシーン、これは『日本沈没』を同シーンを踏まえたブラックユーモアに満ちた場面と理解できるでしょう。
70年代の世相・風俗を代表する作品『日本沈没』
本作の原作小説が出版され映画が公開された1973年は、第4次中東戦争に伴う石油ショックが発生し、日本の高度経済成長期が終了した年でした。
経済発展を重視した結果、自然環境の破壊や公害の発生など身近な問題から将来の資源枯渇・食料不足への不安、冷戦の激化がもたらす全面核戦争の恐怖など、日本社会は先行きの見えぬ不安に包まれた時代です。
その最中に登場した『日本沈没』は単なる災害パニック映画の枠を越え、時代を映す鏡となって大きな反響を巻き起こします。
映画の世界に視点を転ずると、オールスターキャストのパニック映画の元祖『大空港』(1970)や『ポセイドン・アドベンチャー』(1972)が公開された時代です。
『大空港』は『エアポート’75』(1974)以降シリーズ化され、1974年には『タワーリング・インフェルノ』と『大地震』が公開、世界でパニック映画ブームが起きていました。
そして『日本沈没』の成功を目撃した、映画人気の陰りに苦慮していた日本映画界もこの流れに乗って、同様の作品を作る機運が生まれます。
『新幹線大爆破』(1975)や『東京湾炎上』(1975)に『地震列島』(1980)、そしてコロナパンデミック拡大の際に再注目される、先に紹介した小松左京原作の『復活の日』などの作品が続々誕生しました。
しかし未来に希望の持てぬ社会不安を、より煽る形で誕生したベストセラー書籍をその見世物的要素を強調する形で映画化した『ノストラダムスの大予言』(1974)という怪作も誕生しています。
今ではカルト映画化、しかし諸般の事情で今も鑑賞の難しいこの作品、当時は未来に警鐘を鳴らす作品として文部省推薦映画だったと思うと…実に恐ろしい時代です。
そしてこの風潮は1970年代に「第1次オカルトブーム」を巻き起こします。ネッシーにUFOに超能力。心霊写真に口裂け女…エンターテインメントとして仕掛けられた物もあれば自然発生した物も有り…まさに狂乱の時代でした。
一方『日本沈没』の脚本を手掛け、数々の黒澤明映画の脚本家として知られる橋本忍は、低迷する映画界で自ら映画の製作に関わろうと1973年に「橋本プロダクション」を設立します。
そして山田洋次と共に脚本を書き、松竹と提携して完成させた松本清張原作の大ヒット映画『砂の器』(1974)を手掛け、一躍脚光を浴びました。
そして1974年には原作の映画化権を手に入れた「八甲田山死の彷徨」を『日本沈没』の森谷司郎監督が、準備期間含め3年の歳月をかけ『八甲田山』(1977)として完成させます。
この作品は『日本沈没』を上回るヒットを記録し森谷司郎と橋本忍を代表する、災害パニック映画の枠を越えた日本映画史に残る作品だと誰もが認めるでしょう。
まとめ
日本映画史だけなく、日本風俗・カルチャー史にも名を残す『日本沈没』。余りにも大きな影響力はポジティブな面だけでなく、ネガティブな面にも発揮されました。
『日本沈没』が誕生した当時、日本社会には未来への不安が渦巻いていたと紹介しましたが、現実にはその後日本経済は再成長を開始、科学技術の発達や法整備などが社会問題を1つずつ解消していきます。
そして1986年から1991年、日本はバブル景気を迎えかつての未来への不安など知らぬ顔、といった調子で繁栄を謳歌します。1991年にはソビエト連邦が崩壊し冷戦は終結、未来はバラ色に思えました。
しかしバブルの崩壊は人々の懐だけでなく、心にも空虚感をもたらします。そして1995年1月に阪神・淡路大震災が発生。映画『日本沈没』が描いた惨劇の一部が現実のものになります。そして京阪神に育ち居住していた小松左京は、自らも被災者となります。
戦後かつて無い規模の災害に行政や各機関は、小松左京が警鐘を込めて描いた姿よりも、不手際の数々が目立つ初期対応の姿が露わになりました。
『日本沈没』の著者は自身の経験も踏まえ、震災被害を被った各地を取材訪問し記録に留めようと、1995年4月から毎日新聞に「大震災’95」の連載を開始します。
またバブル後の1990年代に、過剰な物欲に溺れる風潮に嫌気を覚えた人々の中からスピリチュアルな世界に関心を持つ者が現れ始めます。その風潮に乗ったのか、それとも後押ししたのか「第2次オカルトブーム」が到来しました。
このブームに影響された人々、そこには青少年期に『日本沈没』公開後に盛んになった「第1次オカルトブーム」を体験した者が多数いました。彼らの一部はカルト宗教に関わり先鋭化します。
既に危険な犯罪・テロ行為に手を染めていたカルト教団は、阪神・淡路大震災を一つの契機として1995年3月に地下鉄サリン事件を起こしました。
この事件が震災と共に、改めて小松左京に日本人とは何か、という問いに向き合う契機になったのでしょう。長らく国を失った日本人をどう描くべきか迷い続け、着手出来ずにいた『日本沈没』第2部の執筆を決意します。
しかし彼は高齢を理由に単独での執筆を断念、2003年にプロジェクトチームを作り谷甲州との共著の形で、2006年に『日本沈没 第2部』を発表しました。
そして2011年3月、東日本大震災が発生します。阪神・淡路大震災の経験が生かされた面もありましたが、『日本沈没』が描き切れなかった災害の実像、そして新たな災厄の形に日本だけでなく世界の人々が恐怖します。
新たな震災を目撃した小松左京は、「これからの日本がどうなるのか、もう少し長生きして見てみたい」と書き残しています。しかし彼は同年7月に80歳でこの世を去りました。
彼が東日本大震災後何を思い、何を書き記すか見てみたい気もしますが、彼が阪神・淡路大震災に真摯に向き合うあまり鬱病になった事実を知ると、それを望むのは酷だとも思えます。
小説『日本沈没』は1人の作家の人生に、成功と共に晩年まで続く重荷を与えました。また映画『日本沈没』は日本の近現代史を語る際に欠かせぬ存在であり、今後も日本が大災害…自然災害に限らないかもしれません…に見舞われた際、振り返る小説・映画であり続けるでしょう。
最後に。『日本沈没』は終末思想、オカルトブームの火付け役として、我々にネガティブな影響を与えたと紹介してしまったかもしれません。
しかし、こうも考えています。『日本沈没』以前から同じ東宝の怪獣映画は『ゴジラ』(1954)以来、慌てながらも秩序正しく逃げる群衆とそれを整理・誘導する警官・自衛官の姿を描き続けていました。
これを見た他の映画監督が、「怪獣が来たら警官でも誰でも逃げるに決まってる」「あれは『ゴジラ』の本多猪四郎監督の、真面目な人柄が反映したものだ」などと語っていたという話が残っています。
しかし私を含めた多くの日本人が、怪獣映画や『日本沈没』など特撮映画で繰り返し危機に際して、出来る範囲で最善を尽くそうと努力する人物の姿と、それに協力して秩序を乱さぬよう振る舞う群衆の姿を目撃し続けてきました。
それらのシーンがもはやDNAレベルの記憶にまで我々に刷り込まれ、日本人の災害に遭遇した際の行動に多少なりとも良い影響を与えているのかもしれません。
これは1人の映画ファンの、願望に近い考えかもしれません。しかし先人たちが遺した映画や小説は、私たちの振る舞いにポジティブな影響も与えている。それは信じて良い事実ではないでしょうか。
増田健(映画屋のジョン)プロフィール
1968年生まれ、高校時代は8mmフィルムで映画を制作。大阪芸術大学を卒業後、映画興行会社に就職。多様な劇場に勤務し、念願のマイナー映画の上映にも関わる。
今は映画ライターとして活躍中。タルコフスキーと石井輝男を人生の師と仰ぎ、「B級・ジャンル映画なんでも来い!」「珍作・迷作大歓迎!」がモットーに様々な視点で愛情をもって映画を紹介。(@eigayajohn)