連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第46回
こんにちは、森田です。
今回は2020年2月14日より全国公開された映画『グッドバイ~嘘からはじまる人生喜劇~』を紹介いたします。
“人生喜劇”と称されるドラマのルーツが「スクリューボール・コメディ」に求められることを説明し、太宰治の未完の小説「グッド・バイ」が現代にどのような可能性を秘めているのかをみていきます。
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『グッドバイ~嘘からはじまる人生喜劇~』のあらすじ(成島出監督 日本 2020年)
舞台は1948年の東京。敗戦からようやく活気を取り戻しつつある時代です。
文芸誌の編集長を務める田島周二(大泉洋)は、戦後の混乱に乗じて何人もの愛人を抱えていました。
さすがにこのままではまずいと思った田島は、青森に疎開させたままでいる妻の静江(木村多江)と娘を呼び戻そうとしますが、その気弱な性格が愛人たちとの別れを妨げます。
そこで、原稿を担当している作家の漆山連行(松重豊)に相談すると、「すごい美人を見つけてきて嘘(にせ)夫婦を演じ、彼女を連れて一人ひとり訪ね歩いていく」という一計を案じられます。
もちろん、漆山は半ば冗談で言ったものですが、根が真面目な田島はさっそく“すごい美人”を探しに闇市に。水場で洒落た服に着替えてめかしこむ美女をのぞき見し、たちまち心を奪われてしまいます。
その姿を追うものの見失ってしまった田島は翌日、おなじ場所で彼女と再会します。それは泥にまみれながら闇市で暗躍する担ぎ屋の永井キヌ子(小池栄子)でした。
最初は信じられない田島でしたが、顔を洗ったキヌ子をみると、あの絶世の美女が目の前に立ちあらわれます。彼はすぐさま“嘘(にせ)女房”の協力を依頼し、彼女はお金になるならと引き受けます。
そうして嘘夫婦による訪問の日々が幕を開け、花屋で働く未亡人の青木保子(緒川たまき)、挿絵画家の水原ケイ子(橋本愛)、内科医の大櫛加代(水川あさみ)に別れ話を切り出そうとします。
しかし、大櫛のもとに届いた静江の手紙を読んだ田島は、すでに愛人の存在がばれており、じぶんは妻子に愛想をつかされたことを知ります。静江は漆山と懇ろになり、夫の愛人関係を聞いたのです。
“グッド・バイ”を言う側から一転、女性たちから別れを告げられる側に回った田島。すべてを失ったと絶望する彼のそばには唯一、キヌ子がいましたが、その慰めも響きません。
自暴自棄になった田島は、あり金をぜんぶキヌ子に渡して夜道に飛び出て、踵を返したところでスリに襲われてしまいます。
残されたキヌ子は、そのお金を使って、青山墓地に彼の大きな墓を建てました。
太宰治 未完の絶筆「グッド・バイ」
本作の原案は、太宰治の未完の絶筆「グッド・バイ」(1948、朝日新聞にて連載)で、原作はケラリーノ・サンドロヴィッチがそれを戯曲化して書き継いだ舞台『KERA・MAP#0006「グッドバイ」』(2015、世田谷パブリックシアターにて初演)です。
また、太宰のこの遺稿を映像化した作品には、2018年にテレビ大阪が制作したドラマ『グッド・バイ』や、篠原哲雄監督が『BUNGO 日本文学シネマ』の一環で制作したものなどがあります。
そもそも「グッド・バイ」は、太宰が映画の原作小説として執筆を依頼されたものであり、太宰の死を経て脚本家の小國英雄が引き継ぎ完成させた映画『グッドバイ』(島耕二監督/1949)が、最初に確認できます。
ではなぜ、いまあらためて、同作が取り上げられたのでしょうか。それには日本の現状を反映した2つの理由や背景が考えられます。
スクリューボール・コメディを求めて
戯曲として太宰の着想を書き継いだ原作者のケラリーノ・サンドロヴィッチは、このように語ります。
KERA:僕は(ビリー・)ワイルダーや(エルンスト・)ルビッチっぽい喜劇をやりたかったんです。最近の日本映画には、大人のラブコメはなかなかないですよね。青春コメディしか。大人の恋愛はシリアスに描かれがちで。(映画公式パンフレットより)
ここに引きあいに出されている喜劇は、映画史のなかでは「スクリューボール・コメディ」というジャンルに当たります。いまでいうロマンティック・コメディ、俗にいう“ラブコメ”に近いものです。
1930年代から40年代にかけてハリウッドで流行しましたが、それは大恐慌から戦争へとむかうきな臭い時代であり、現代の不穏な世界情勢とも相通じるところがあります。
だからこそ、人々はスクリーンに笑いを求めたのかもしれません。それも、大人の男女のための希望を。
その映画の特徴には、金銭と愛(セックス)の強調や、男女の主導権の逆転など多々ありますが、それらは上述のあらすじのとおり、本作も踏襲しているのがわかります。
そのなかでもとくに重要な役割を果たすのが「再婚」という設定です。つまり、一度別れてしまったパートナーと再び出会うドラマが組みこまれています。そして再婚を通して、その男女に「本当の知」がもたらされるという構図です。
では死別した本作はどうなのかといえば、じつは死んだと思われていた田島は殴られたショックで記憶喪失になって、青森の採石場で働いていました。
そしてまた、彼は頭を石に強く打ちつけることによって過去を思いだし、キヌ子のもとに帰ろうとします。キヌ子がかけがえのない存在であったという、“最期”の記憶と一緒に。
上京すると、キヌ子はもう婚約していることを聞かされます。相手は出版社に勤めていたときの田島の部下で、いまは宝くじを当てて成金になった清川(濱田岳)です。
清川は、キヌ子が墓石を買うときに借りた金を肩代わりし、その弱みにつけこんで結婚を申し出たのでした。
ウェディングドレスを採寸するキヌ子。それを田島は窓の外から、出会ったときのようにのぞきます。
目があうふたり。「グッドバイ」と言い残して去る田島の後を、ドレス姿のキヌ子が追いかけ、笑顔でつかまえます。
さながら『卒業』(マイク・ニコルズ監督/1967)のラストシーンのような演出で、この「再婚喜劇」は幕を閉じます。
ありえたはずの未来のために
スクリューボール・コメディの精神を受け継いだ本作はまた、太宰自身の遺志も未来に継いでいるようにみえます。
主人公の“田島周二”という名は、太宰の本名である“津島修治”のもじりです。
未完におわった小説「グッド・バイ」。そこでは1人目の女性に別れを告げた箇所までしか書かれていません。本作ではその「ありえたはずのつづき」と、「ありえたはずの田島(太宰)の未来」が相似をなしています。
また冒頭は、敗戦直後の日本の様子を映した記録フィルムが用いられていますが、太宰にとってのありえたはずの未来は、そのまま戦後史に置き換えることもできるでしょう。
歴史という物語は、絶えず未完のまま進みます。この未完のプロジェクトのつづきは、いまわたしたちの手にゆだねられています。
過去に繰りかえされてきた辛い“別れ”によって、つぎこそ「本当の知」を意識できるかどうか。ここが、悲劇と喜劇の分かれ道です。
さよならのまえに
太宰の師匠筋にあたる作家の井伏鱒二は、「さよならだけが人生だ」という言葉を残しました。
「グッド・バイ」を連載する際、太宰は井伏を“ある先輩”と記し、こう述べています。
唐詩選の五言絶句の中に、人生別離の一句があり、私の或る先輩はこれを、「サヨナラ」ダケガ人生ダ、と訳した。まことに、相逢った時のよろこびは、つかのまに消えるものだけれども、別離の傷心は深く、私たちは常に惜別の情の中に生きているといっても過言ではあるまい。
後世のひとが書いたあるつづきを、すなわち死別したはずのふたりが再会するこの喜劇をみると、こう思わずにはいられません。
さよならだけが人生だ、でもいま、さよならしなくてもいい。