映画『ゴーストマスター』は2019年12月6日(金)より、新宿シネマカリテほか全国順次ロードショー!
映像企画発掘コンペ「TSUTAYA CREATERS’PROGRAM FILM 2016」で準グランプリを受賞。その後、各国の映画祭に出品され、世界の映画ファンから“究極の映画愛”を描いた作品として熱い支持を集めた映画『ゴーストマスター』。
この作品には過去の名作ホラーだけでなく、かつて日本映画界を支えた先人たちへの、深い敬意も込められているのです。
この映画をよりお楽しみいただくために、今回はこの作品に影響を与えた邦画、それを作り上げた人物について、ごく一部ですが解説してまいります。
それでは『ゴーストマスター』攻略リスト、【邦画編】を紹介してまいります。
CONTENTS
映画『ゴーストマスター』の作品情報
【公開】
2019年12月6日(金)(日本映画)
【脚本】
楠野一郎
【監督・脚本】
ヤングポール
【出演】
三浦貴大、成海璃子、板垣瑞生、永尾まりや、原嶋元久、寺中寿之、篠原信一、川瀬陽太、柴本幸、森下能幸、手塚とおる、麿赤兒
【作品概要】
安易な恋愛青春映画の撮影現場が、血みどろホラーの舞台へと変貌。やがて物語は映画製作への熱い愛を語り始める。怒涛のクライマックスへ向け突っ走る、ホラー・コメディ映画。
監督はアメリカ人の父と日本人の母を持つヤングポール。黒沢清監督に師事し、東京芸術大学大学院修了製作の映画『真夜中の羊』は、フランクフルト映画祭・ハンブルク映画祭で上映されています。
その後イギリスのレイダンス映画祭では、「今注目すべき7人の日本人インデペンデント映画監督」の1人に選出され、『それでも僕は君が好き』などドラマの演出にも活躍中です。
三浦貴夫と成海璃子が主演を務め、2人をとりまく撮影現場の俳優・スタッフ陣を、川瀬陽太・森下能幸・手塚とおる・麿赤兒など個性派俳優たちが固めます。
映画『ゴーストマスター』のあらすじ
とある廃校で撮影中の人気コミック映画化作品、通称「ボクキョー」こと『僕に今日、天使の君が舞い降りた』。その現場には監督やスタッフからこき使われる、助監督・黒沢明(三浦貴大)の姿がありました。
日本映画代表する巨匠“黒澤明”と同じ名を持つ黒沢ですが、本人はB級ホラー映画を熱烈に愛する気弱な映画オタク。今日も現場で散々な目に遭わされますが、いつか監督として映画を撮らせるとの、プロデューサーの言葉を信じて耐え忍んでいます。
黒沢の心の支えは、自分が監督として撮る映画『ゴーストマスター』の書き溜めた脚本。それ敬愛する、トビー・フーパー監督の『スペースバンパイア』にオマージュを捧げた作品でした。彼はそれを肌身離さず持ち、手を加え続けていました。
ところが「ボクキョー」の撮影は、主演人気俳優が“壁ドン”シーンに悩んで撮影が中断。皆の不満は黒沢へと集中します。それでも黒沢は、出演女優の渡良瀬真菜(成海璃子)に自分が撮る映画、『ゴーストマスター』への熱い想いを伝える事が出来ました。
ところが黒沢に対し、真菜は厳しい言葉を浴びせます。さらにプロデューサーは彼に映画を撮らせる気など無いと知り、黒沢は絶望のどん底へと突き落とされます。
黒沢の不満と怨念のような映画愛は、『ゴーストマスター』の脚本に憑依します。悪霊を宿した脚本は、キラキラ恋愛映画の撮影現場を、血みどろの惨状に変えてゆきます。
どうすればこの恐怖の現場から逃れられるのか、悪霊と化した脚本を浄化させる事ができるのか。残された者たちの、映画への情熱が試される…。
助監督・黒沢を呪縛した巨匠・黒澤明
参考映像
例えばこちらの動画では、映画『アベンジャーズ』と比較することで、黒澤映画『七人の侍』の凄さを解説しています。
さて、世界の映画史にその名を刻んだ巨匠・黒澤明。海外にいる人たちに知ってる日本人の名前をあげてと訊ねたら、今だその上位10名の中に入ると言われる程の知名度を誇る人物です。名前を知っているけど映画は見ていない、古い映画だから見ていない、という方も多いでしょう。しかし黒澤明は、今我々が見ている映画の“文法”、カメラワークや編集の動きを通じて、映画のリズムの完成形を作り上げた人物。その影響は現在のあらゆる映像作品に息づいています。
黒澤明監督の経歴
1910年東京生まれ。中学卒業後画家になることを目指しますが、画業を諦め1936年、P.C.L.映画製作所(後に東宝と合併する)に入社。山本嘉次郎監督の助監督を務め、同じ山本監督門下で、後に『ゴジラ』を監督する本多猪四郎と終生に渡る親交を結びます。
1943年東宝映画『姿三四郎』でデビューすると、新人監督に贈られる山中貞雄賞を受賞します。
1950年大映で撮影した『羅生門』が、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞。その名は海外にも知られ、内外から「世界のクロサワ」呼ばれる存在になります。
1954年、1年以上の期間とかけた映画『七人の侍』を発表。作品は大ヒットし、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞。映画史上に残る名作として今だ高く評価されています。
その後も内外で高く評価される作品を次々監督しますが、完全主義の態度で撮影に臨む姿は周囲との軋轢を生み、様々な意味を込めて「クロサワ天皇」とあだ名されました。
1965年東宝との専属契約が解除された黒澤に、ハリウッドからの映画製作の話が舞い込みます。しかし映画に対する彼の妥協しない態度が災いし、企画は次々流れていきます。厳しい状況に追い込まれた黒澤は、1971年に自殺未遂を起こします。
黒澤に救いの手を差し伸べたのは、彼の作品を高く評価する海外の映画人でした。1975年ソビエトに招かれ、シベリアの地で『デルス・ウザーラ』を監督、作品はモスクワ映画祭金賞と、アカデミー外国語映画賞を受賞します。
1980年には海外版プロデューサーにジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラを迎えて『影武者』を監督、1990年にはスティーヴン・スピルバーグの提供で、『夢』を監督し、その後も作品を発表しました。
黒澤明の影響を受けたと認める監督・作品は数知れず、今だ映画を志す世界中の人々から、尊敬の念を集めている存在です。
1998年、88歳で死去。そのニュースは世界中で大きく報じられました。
黒澤明監督に有って助監督の黒沢明に無いもの
『ゴーストマスター』の助監督・黒沢明にとって、同じ名を持つ巨匠の存在は格好のイジリの材料、重荷でしかありません。
それでも映画製作に情熱を持つ黒沢は、黒澤の作品にあこがれながら、安易な企画のキラキラ恋愛映画の過酷な現場に立ち、理不尽な仕打ちに耐え忍びます。
巨匠・黒澤の映画製作を支えたのは、スタジオ(映画会社)による製作体制でした。その全盛期である1954年、東宝は黒澤明監督の『七人の侍』と、本多猪四郎監督の『ゴジラ』を公開してます。今も世界に日本映画を代表する2本の作品は、同じ年に生まれました。
しかし現在、助監督・黒沢が立つ撮影現場にはスタジオの庇護はありません。映画に憧れて参加したスタッフを喰いものにして成立している、過酷な環境がありました。
日本映画界が斜陽期を迎えると、黒澤の完全主義の態度はスタジオから嫌われ、彼は独立を余儀なくされます。すると「世界のクロサワ」ですら、映画が作れない状況が訪れます。
その結果自殺未遂を起こした黒澤明ですが、その時駆けつけたのが友人、本多猪四郎でした。本多は存命の間、『影武者』以降の黒澤作品の撮影現場を、監督補佐として支えます。
自ら立ち上げた作品を、妥協を許さぬ厳しい態度で映画化する黒澤明。一方プロデューサーの企画を自分の物とし、特撮班と協調しながら本編を監督し、スタッフや俳優には常に温厚な態度で接していた本多猪四郎。
『影武者』以降、若い外部のスタッフと接して現場に立つ黒澤明には、友人・本多猪四郎は自分を補完してくれる、大切な存在となります。
『ゴーストマスター』の助監督・黒沢は、言うなれば『ゴジラ』のような作品を、黒澤明のような姿勢で作る事を夢見ていました。
しかし彼には、自分を理解し支えてくれる友人は存在しません。それどころか撮影現場の同僚すら、彼の情熱を夢物語として片付けます。
こうして映画への情熱を、1人で抱え込んだ黒沢。その執念が爆発し、怨霊と化したのです。
助監督の黒沢は深作欣二監督に学ぶべきだった?
参考映像:『ガンマー第3号 宇宙大作戦』予告編(1968年公開)
監督への道が断たれた黒沢はブチ切れ、彼の敬愛する監督の名前をあげて叫びます。その中に登場する日本人監督の1人が、深作欣二でした。
実録路線のやくざ映画として名高い「仁義なき戦い」シリーズや、晩年の「バトル・ロワイアル」シリーズで有名な深作欣二。海外での知名度も、クエンティン・タランティーノがファンであると広言してから、一気に高まりました。
では同じ深作ファンである黒沢の、タランティーノに対する評価は?…それは『ゴーストマスター』を見て頂くとして、深作欣二は様々な面で黒澤明と異なる映画監督でした。
東映で監督デビューした当時から、手持ちカメラを駆使したスピーディーな演出(後の『仁義なき戦い』で作品を代表する技法となる)が、高く評価された深作欣二。
しかし1930年生まれの深作は、初期は反戦・反体制色の強い作品を撮っていました。また東映のドル箱になっていた任侠映画は、偽物の綺麗事として撮ることを拒否していました。
『誇り高き挑戦』や『狼と豚と人間』はその頃の作品で、評論家からは高く評価されるものの興行的に振るわず、会社から「お荷物監督」と扱われ、仕事の機会が減っていきます。
深作は自分に撮れる映画があれば、東映の外でも監督を務めるようになります。松竹で撮った丸山(美輪)明宏主演の『黒蜥蜴』、アメリカとの合作SF映画『ガンマー第3号 宇宙大作戦』のような、様々なジャンルの映画を監督します。
その中には騒動の末、黒澤明が降板したアメリカ映画『トラ・トラ・トラ!』の、共同監督の仕事もありました。
しかし東映の深作の才能を惜しむ人々は、彼を見捨てる事はありませんでした。そして1973年『仁義なき戦い』の第1作を監督し、一躍ヒットメーカーとして注目を集めます。
この様な道を歩んだ深作は、自身は映画の製作に金は出さない、撮りたい映画があれば金を出してくれるプロダクションを探す、という姿勢をポリシーにしていました。
現場では大部屋役者(映画会社に所属している端役専門の役者)も巻き込んで、入念なテストやリハーサルを繰り返し、スタッフの信頼を得ていきます。「仁義なき戦い」シリーズは、大部屋役者たちが飛躍するきっかけにもなりました。
80年代以降は低迷期の日本映画界において、大作を任せられる監督としてSF・伝奇物・文芸作品など、様々なジャンルの映画を手がけます。映画製作が困難な時期でも、深作は監督を続ける事ができました。
この80年代以降の時代を、深作自身は時代の流れから取り残された低迷期、と振り返っています。しかし映画監督として、困難な時代を生き残った彼は、晩年に『バトル・ロワイアル』という、時代に合致し自身も手応えを感じる作品を手がける事ができました。
映画に対する拘りを持ちながらも、時代と状況に適応し、現場の人々を巻き込んで映画を作り続けた深作欣二。助監督・黒沢は、この人物の姿勢から多くを見習うべきでした。
ちなみに深作欣二は、ミーハーといっても良いレベルのサム・ペキンパー監督の大ファン。性格の面でも、黒沢と大いに気が合ったかもしれません。
また『ガンマー第3号 宇宙大作戦』は、60年代の『スペースバンパイア』である、と言えるかもしれません。ちょっと強引ですけど。
麿赤兒演じるゴキブリ軍団出身のベテラン俳優とは
助監督・黒沢は他にも尊敬する邦画の監督として野村芳太郎と、中島貞夫の名前を口にします。
野村芳太郎は松竹の監督で、文芸作品からコメディまであらゆるジャンルを手がけ、『砂の器』では国内で数多くの賞を、さらにモスクワ国際映画祭審査員特別賞を受賞しています。
その一方で『八つ墓村』『鬼畜』『震える舌』という、見る者にトラウマを与え、カルトな人気を持つ映画を撮った人物。黒沢は実にイイ趣味をしています。
中島貞夫は初期の作品、『893愚連隊』で高く評価された監督です。その後東映の主流から外れた作品、東映ポルノや「まむしの兄弟」シリーズを手がけ、後に70年代に『真田幸村の謀略』、90年代に『女帝 春日局』『激動の1750日』といった、東映の顔となる作品を監督します。
中島は1970年に主役デビューを果たした渡瀬恒彦を、翌1971年自身の監督作『現代やくざ 血桜三兄弟』に起用します。
2人は意気投合し、中島は1973年ATGで撮った映画、『鉄砲玉の美学』の主役に渡瀬を起用します。無様なヤクザを描き、音楽にロックを使用したこの映画はカルト的人気を獲得、同年公開の深作欣二監督の『仁義なき戦い』と共に、新たなヤクザ映画の形を生みました。
中島は深作同様、自身の作品に出演する大部屋役者を大切にしていました。その大部屋役者たちの有志である、自分たちは主役を喰うピラニアだ、と自負するメンバーたちは、1975年に“ピラニア軍団”を結成します。
若手スター俳優として扱われ、当時「芸能界一喧嘩が強い」と噂されていた渡瀬恒彦ですが、役に入れ込む姿勢と、スタッフに気遣いを見せる姿勢は、誰もが認めていました。
そんな性格の渡瀬は“ピラニア軍団”結成の際、発起人を引き受けます。そして深作欣二と中島貞夫が“軍団”の“村長”を務め、彼らの芸能活動を応援します。“ピラニア軍団”の活動期間は短かったものの、川谷拓三ら所属する俳優が飛躍する、大きなきっかけになりました。
さて『ゴーストマスター』に登場する、麿赤兒演じるベテラン俳優・轟哲彦は、かつて“ピラニア軍団”ならぬ、“ゴキブリ軍団”に所属していました。轟は成海璃子演じる女優・渡良瀬真菜に、彼女の父である渡良瀬先生にはお世話になった、としみじみ語ります。
そう、轟は“ピラニア軍団”の俳優がモデルであり、真菜の父は、渡瀬恒彦がモデルです。
大部屋役者として、映画の中でいかに目立つように死ぬ演技を工夫するか。そんな努力を重ねていた轟だけは、どう考えてもくだらない、“壁ドン”シーンに悩むイケメン俳優の心境を、我が事のように理解していました。
ゆえに『ゴーストマスター』の怨霊に憑りつかれた、彼を解放しようと一肌脱ぐのですが…。
なお怨霊退治に日本刀、妖刀村正を持ち出す轟哲彦。何でそんなモノが撮影現場にあるんだと、誰もがツッこむ場面です。
これは何故かイタリアの映画館のロビーに日本刀が置いてあって、それがデモンズ軍団退治に大活躍する、ランベルト・バーヴァ監督のホラー映画、『デモンズ』のパロディでしょう。
最後の映画スターを父親に持つ2世女優「真菜」
参考映像:ヤングポール監督作品『秘孔』(2008年)
渡瀬恒彦の兄は、既に日活でデビューし、後に石原裕次郎を慕い石原プロに入社する渡哲也。すでに就職していた渡瀬は渡哲也の弟との理由で、東映に説得されスター候補としてデビューします。
それまで演技経験の無かった渡瀬は、デビュー後は現場で実地に演技を学ぶ努力を重ね、スタッフや先輩俳優の信頼を勝ち取ります。そして今観客に見せれるものはアクションだけと自覚し、体を張ったシーンの撮影に臨んでいました。
『ゴーストマスター』の脚本を書いた楠野一郎は、この時代の東映アクション映画の大ファンです。そしてヤングポール監督も学生時代に16㎜フィルムで、スプラッターアクション映画『秘孔』を撮った人物です。
ホラー映画へのオマージュに満ちた『ゴーストマスター』は、同時にアクション映画愛に満ちた映画でもありました。
そして渡瀬恒彦(をモデルにした俳優)を父に持つ、2世女優の真菜。父はスタジオ(東映)が産んだ最後の映画スターという設定が読み取れます。これ以降映画会社はスターを生む能力を失い、人気俳優はテレビから誕生する時代を迎えます。
真菜は父の時代と異なり、スタジオの庇護のない時代の撮影現場に立っています。その意味では助監督・黒沢と同じ立場です。更に彼女は事務所都合だけで、映画に出演していました。いつしか彼女はその立場に慣れ、醒めた視線で黒沢を眺めます。
しかし彼女にも父の血が流れ、そして胸には父と同じ映画への情熱を秘めていました。彼女は『ゴーストマスター』と出会った結果、黒沢とは異なる形で映画への思いを爆発させます。
彼女の怒りは、かつての輝きと情熱を失った、日本の映画製作現場にも向けられていると、理解できたでしょうか。
さらにこの映画のキャスティングの妙は、実は助監督・黒沢を演じた三浦貴大こそ、真菜と同じポジションである事実です。彼の母は山口百恵、そして父は三浦友和。三浦友和は専属ではないものの、事実上東宝が生んだ、最後の映画スターと呼べる存在です。
『ゴーストマスター』は幾重にも重ねて、映画製作にスタジオが機能していた時代と、それが失われた現在の、過酷な日本の映画製作現場を対比して描いています。
この映画はそんな現状を映画ファンに突き付けます。同時にそれでも映画を愛し、作り続ける人間がいる事を表明しています。
そう、だからこそ、“究極の映画愛”の姿を描いた作品なのです。
まとめ
『ゴーストマスター』について巨匠・黒澤明と、深作欣二〜中島貞夫〜ピラニア軍団〜渡瀬恒彦とつながる、東映の人脈を軸に解説してきました。
過去の映画に対する情報量が実に多いこの映画、これでもまだ一部しか紹介できていません。
これを読んで難しい映画かも、と感じた方。くれぐれも難しい映画ではありません。ブラックな笑いでつづられたホラー・コメディは、元ネタが判らなくても楽しめる展開です。
そして映画に詳しくない方も、何か創作活動をしている方や、合理化・グローバル化の結果、かつてより過酷な環境で働いている方には、助監督・黒沢と女優・真菜の立場を、我が身に置き換えて実感する事ができます。それはきっと、あなたの胸を打つでしょう。
そしてヤングポール監督と、脚本の楠野一郎が詰め込み紹介した数々の映画、映画監督の中に、あなたの興味をそそるものがあれば、ぜひ触れてみて下さい。
映画映画『ゴーストマスター』は2019年12月6日(金)より、新宿シネマカリテほか全国順次ロードショー!