映画『火口のふたり』は2019年8月23日(金)より新宿武蔵野館を皮切りに全国順次公開
直木賞作家・白石一文が2012年に発表した同名小説を基に、男女の性と生を貪欲に突き詰めてきた名脚本家にして映画監督・荒井晴彦の4年ぶりの映画『火口のふたり』。
社会によって形成されたモラルに対して、人間が個人として性を貫くこと。
その重要性を、現代という抑圧の時代に生きる観客たちに投げかける作品です。
映画『火口のふたり』の作品情報
【公開】
2019年(日本映画)
【原作】
白石一文
【脚本・監督】
荒井晴彦
【キャスト】
柄本佑、瀧内公美、柄本明
【作品概要】
『Wの悲劇』から『共喰い』『さよなら歌舞伎町』まで、40年以上にわたって多種多彩な作品の脚本を手がけてきた往年の名脚本家・荒井晴彦の監督第3作。原作は『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞した作家・白石一文の同名小説。
メインキャストは、柄本佑と瀧内公美の実質二人のみです。過去に肉体関係のあった男女が再び出会い、濃密な逢瀬とあまりにも変化してしまった環境の中で自らの生に対する選択を試みようとする様を描きます。
映画『火口のふたり』のあらすじ
十日後に結婚式を控えた直子は、故郷の秋田に帰省した昔の恋人・賢治と久しぶりの再会を果たす。
新しい生活のため片づけていた荷物の中から直子が取り出した1冊のアルバム。そこには一糸纏わぬふたりの姿が、モノクロームの写真に映し出されていた。
蘇ってくるのは、ただ欲望のままに生きていた青春の日々。
「今夜だけ、あの頃に戻ってみない?」
直子の婚約者が戻るまでの五日間。身体に刻まれた快楽の記憶と葛藤の果てに、ふたりが辿り着いた先は…。
映画『火口のふたり』の感想と評価
成仏できない亡霊
『火口のふたり』の冒頭のタイトルクレジット。かつて賢治と恋人だった時代に撮影したハメ撮り写真のアルバムをめくる直子の手。
フランスの哲学者・ロラン・バルトは写真について、「写真は、その現実のものを過去へ押しやることによって、それがすでに死んでしまっているということを暗示する」と述べています。
『火口のふたり』の主人公である賢治と直子は、死んで成仏できない幽霊のような存在です。
賢治と直子は、かつていとこ同士でありながら恋人関係にありました。しかし、いとこ同士であることに後ろめたさを感じたふたりは、「肉体」よりも「モラル」を選択します。
お互いに身体の相性がこの世で最も良いことを理解しながらも「身体の言い分」以上に「モラル」を選択したふたりは、火山に飛び込み心中するかのように、火山口のポスターを背景にハメ撮り写真を撮り、ふたりの関係は終わりを迎えます。
しかし、自衛隊員である婚約者との結婚を間近に控えた直子は、先述したように、アルバムをめくるという行為によって「写真」を動かそうと試みる、つまり「写真」を「映画」にしようと試みます。
もっと言えば、死んでしまっている「過去」のふたりを「現在」として再び生き返らせたいと考えているのです。
『火口のふたり』は「肉体」を捨て死んだにも関わらず成仏できない亡霊が、もう一度肉体を取り戻し「この世」に蘇ろうとする物語でもあります。
機能が停止した社会の“モラル”
再び賢治と再会した直子は「今夜だけ、あの頃に戻ってみない?」と賢治と再び体を交えます。直子は賢治に「お線香のにおい」を感じ、賢治が長い間セックスをしていないことを見抜きます。
賢治もまた「身体の言い分」を捨てて亡霊となった存在。一夜だけ「この世」を覗くことで「この世」への未練を捨て、「結婚・出産」という「あの世」への覚悟を決めた直子とは逆に、賢治は「この世」への未練を捨てきることが出来ません。
直子に誘われ再び体を交えたふたりは、直子の旦那が出張から戻ってくるまでの5日間だけ、かつての恋人のようにダラダラと性に溺れる生活を始めます。
何か仕事をするわけでも、他の誰かに会うわけでも無く、ただひたすら食事をしてセックスをするだけの5日間。
日本では法律で認められているとはいえ、いとこ同士の近親相姦的な関係。加えて、婚約者がありながらの不貞の行為。そんなふたりは一般社会のモラルから外れているともいえます。
しかしそんな「モラル」を生み出す「社会」がそもそも壊れているとしたらどうでしょう。
荒井監督は以下の言葉を述べています。
常識とか価値観とか、そもそも日本の多数派の「頭がまちがってんだよ」って思うから、原作に出てくる「身体の言い分」っていう言葉がいいなと思ってね。(『月刊「シナリオ」』9月号より抜粋)
ふたりが「モラル」を選択して別れた直後、東日本大震災が起きたことが語られます。
「モラル」を提示してくれるはずの社会は、いとも簡単に機能を停止。成仏できない幽霊のようなふたりは、自らがいるべき世界を求め彷徨います。
「恋愛・結婚・出産」という近代主義的な価値観は、社会が正常な機能を果たしている場合にのみ魅力的に見えるかもしれませんが、もはやそんな価値観が魅力的に感じられる社会とは幻想であるのかもしれません。
時にはそんな「価値観」から外れ、「肉体」に従うことこそ、「この世」で生きることに繋がります。
ひたすら食事をして性に溺れるふたりは、滑稽で、社会の「モラル」からすれば間違っていることでしょう。
しかし、生きるということはそもそも自身が「滑稽」かつ「間違い」であると肯定することです。
だからこそ映画の中で、ふたりは「この世」に生きる人間として魅力的に輝きます。
映画の終盤、日本の機能が完全に停止し世界が終わりを迎える中で、ふたりはひたすら「身体の言い分」に従い、「過去」でも「未来」でも無い、「現在」を生きることを決めます。
その姿はもはや、「写真」ではなく「映画」そのものではないでしょうか。
盟友と師匠が見せた“真実”への回答
参考映像:神代辰巳『地獄』(1979)
ちなみにこのような「性」と「モラル」の問いを突き詰めた映画があります。
荒井晴彦監督とは『嗚呼 おんなたち猥歌』、『赫い髪の女』などの作品で何度も組んでいる神代辰巳監督。
そんな神代監督が荒井監督の師匠である脚本家の田中陽造と組んで作り上げたのが、「不貞」と「近親相姦」の罪で地獄に落ちた母親と娘の悲痛なメロドラマ『地獄』です。
足枷をハメられながらも、自由に生きる人間を描くことを得意とした神代監督に、田中陽造は「地獄」という最大の足枷を与えました。
「体」に従い自由に生きようとすればするほど罰を受け苦しむ世界において、それでも人は体に従うことをやめられないのではないかと私たちに突きつけます。
社会によって形成されたモラルと価値観に抑圧される人間が抱える、それらに対し否応無く抵抗してしまう性(さが)。
盟友と師匠が『地獄』を介して見せたその真実に呼応するかのように、荒井監督の『火口のふたり』は性(さが)を最大限肯定することによって、社会によって形成されたモラルと価値観と対峙する重要性を提示したのです。
まとめ
男女間の「性」を追求し続けてきた荒井晴彦監督。そんな荒井監督の『火口のふたり』はベテラン脚本家が到達した「性の最大の肯定」です。
「個」としての「性」を優先するよりも社会が決めた「モラル」や「価値観」に従うことは、時にその人間の性を否定することに繋がります。
ですが社会がその機能を果たしてないにも関わらず、そんな社会のモラルに従わざるを得ないのが大多数の人々を取り巻く現状です。
しかしながら、そのような現状に抵抗することなく死んだように生きるのであれば、自らの「身体の言い分」に耳を傾けることこそが、人が「この世」に生きることに繋がるのではないでしょうか。
映画『火口のふたり』は2019年8月23日(金)より、新宿武蔵野館ほか全国順次公開です。