“犯人の座”をめぐって女性たちが仕掛ける法廷劇サスペンス!
『8人の女たち』(2002)などのフランソワ・オゾン監督が手がける法廷劇サスペンス。
とある映画プロデューサーの殺害事件によって巻き起こる騒動と「権利」のための闘いをユーモアとともに描き出します。
パリの大豪邸で一人の映画プロデューサーが殺害される事件が発生。その容疑者として連行されたのは新人女優・マドレーヌであり、彼女は親友の弁護士ポーリーヌと協力し「プロデューサーに襲われ、正当防衛で殺害した」と供述し、裁判に挑みます。
ポーリーヌとマドレーヌが裁判にて「名誉と身を守るため」「女性の尊厳が守られていない」と訴えると、聴衆は「よくぞ言ってくれた」と拍手を送り、マドレーヌは無罪となります。
裁判後「時の人」となったマドレーヌの元にはオファーが殺到。注目を集め、成功を手にし始めた二人の前に……「本当の犯人は私だ」と語るかつての大女優・オデットが現れました。
映画『私がやりました』の作品情報
【日本公開】
2023年(フランス映画)
【原題】
Madeleine
【監督・脚本】
フランソワ・オゾン
【キャスト】
ナディア・テレスキウィッツ、レベッカ・マルデール、イザベル・ユペール、ファブリス・ルキーニ、ダニー・ブーン、アンドレ・デュソリエ、エドゥアール・シュルピス、レジス・ラスパレス、オリビエ・ブロシュ、フェリックス・ルフェーブル、ミシェル・フォー、ダニエル・プレボー、エブリーヌ・バイル、フランク・ド・ラ・ペルソンヌ
【作品概要】
『8人の女たち』(2002)で家父長制を描き『しあわせの雨傘』(2010)では家母長制を描いたフランソワ・オゾン監督。
本作では、ハリウッドの「#MeToo」をはじめとしたフェミニズム運動などを意識しながらも、様々な視点を交えてコミカル&シニカルなコメディ映画を仕上げました。
マドレーヌ役を演じたのは『悪なき殺人』(2021)のナディア・テレスキウィッツ、ポーリーヌ役は『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』(2023)のレベッカ・マルデール。さらに『8人の女たち』(2002)にも出演したイザベル・ユペールが、オデット役を演じました。
映画『私がやりました』のあらすじとネタバレ
1935年、パリ。著名なプロデューサーであるモンフェラン氏の邸宅から、一人の女性が取り乱した様子で飛び出してきます。その女性は、新人女優のマドレーヌでした。
マドレーヌはそのまま徒歩で家に帰ります。家では、ルームメイトのポーリーヌが家賃を払うよう大家から催促されているところでした。
新人弁護士であるポーリーヌは、得意の弁論で何とか大家を説き伏せて追い返します。そしてマドレーヌに「プロデューサーとはどうだったか」と聞きます。
マドレーヌは「男って最低」と言い放ち、セリフのない端役を与える代わりに愛人になれと言われたと語ります。当然断ったが、モンフェラン氏は無理やり襲いかかったと言います。
マドレーヌは必死に抵抗し、モンフェラン氏に噛みついて逃げてきたと言います。最悪な気分のマドレーヌの元に恋人アンドレが訪ねてきます。ポーリーヌは気を利かせて外出します。
大企業「ボナール・タイヤ」の御曹司であるアンドレでしたが、父の家業を継ぐわけでもなく、他の職にも就こうとしていないため、自由に使える金がありません。さらにボナール・タイヤの先行きも、安泰というわけではありませんでした。
アンドレは、父親から勧められた金持ちの年上マダムと結婚するとマドレーヌに宣言し、マドレーヌは愛人にすると告げます。アンドレにまで愛人になることを提案されたマドレーヌは思わず怒りを露わにしました。
そんなマドレーヌに追い打ちをかけるように、今度は警部がマドレーヌを訪れます。そしてモンフェラン氏が何者かによって撃ち殺されたことを知ります。
「また会うことになる、パリを離れるな」と警部に言われて困りますが、証人になれば日当をもらえるとポーリーヌが言うと前向きになります。
前向きになったマドレーヌはポーリーヌを連れ、映画館へ。二人が出かけた後、警部は大家から鍵をもらいコッソリ部屋を捜索し、そこで銃を見つけたことで「犯人はマドレーヌで間違いない」と思い込みました。
証人として判事の尋問を受けたマドレーヌは、自分が犯人として疑われていることに気づき、すぐさまポーリーヌを弁護士として指名します。
判事の仮説をポーリーヌは見事に覆し「マドレーヌはモンフェラン氏に襲われ、正当防衛で殺害してしまった」と主張します。「正当防衛なら無罪になる」という判事の言葉に、マドレーヌは無罪になるのなら……と両手を差し出し「私がやりました」と罪を認めます。
実際には殺してなどいませんが、マドレーヌとポーリーヌには狙いがありました。今回の裁判を利用し、女優としてのマドレーヌを売り込もうとしたのです。ポーリーヌが裁判での筋書きを考え、マドレーヌは脚本を覚えて裁判に備えます。
若い女性による事件が相次いでいたこともあり、マドレーヌの裁判に対する聴衆の関心は高く、多くの聴衆が裁判に詰めかけました。
検事側は、マドレーヌの犯行を正当な行為とすれば「身を守るため」という名分で人を殺す者が増えることを指摘した上で、マドレーヌが女優であることなどを逆手に取り、憶測や偏見によってマドレーヌを「悪女」に仕立て上げようとします。
しかしポーリーヌは見事な反論で検事の説を覆し、マドレーヌは「腐敗した社会で、女は自分の身は自分で守るしかない」「自身の尊厳を守るために殺した」と涙がらに訴えたことで、聴衆は二人に拍手を送りました。
やがて二人は見事「無罪」を勝ち取りました。二人の元には多くの花束などが届き、マドレーヌの元には様々なオファーが舞い込んできます。
それどころかアンドレも改心し、貞操を守るために殺人まで犯したマドレーヌに「愛人になれ」など最低な提案をしてしまったと彼女に謝罪し、結婚を申し込んできました。
マドレーヌとポーリーヌは豪華な家に引っ越し、何もかもが順調にいくはずでしたが、恐れていた事態が起こります。
映画『私がやりました』の感想と評価
「映画プロデューサーによる性被害事件」と聞くと、ハーヴェイ・ワインスタインなどいくつかの事件がどうしても頭をよぎるでしょう。
しかし本作は、時代設定を現代ではなく「1930年代のフランス」とし、第二世界大戦後まで女性の参政権さえもなかった時代において、果敢かつ強かに闘った女性たちを通じて、女性の尊厳の闘いを描いています。
それによ理、本作は性被害告発だけに主眼を置くのではなく、女性の権利が弱いことを逆手にとって闘おうとするポーリーヌとマドレーヌの強さ、彼女たちに勇気づけられて声をあげる女性たちを描いています。
一方で「男性=悪」という単純な図式を描くのではなく、男性・女性の登場人物それぞれを「善悪では判断できぬ存在」として、シニカルかつコミカルに映し出しています。
そうしたバランス感覚の見事さは、フランソワ・オゾン監督の魅力と言えます。フランスで実際に起きた神父の性被害について描いた『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』(2020)では、真摯な姿勢でこの問題を描こうとする姿勢が伺えました。
現在の映画業界における性被害を描くとしたら、そのような真摯な告発と闘争を描いた映画になったのではないでしょうか。
時代設定を現代からずらすことで、距離感を持って様々な問題を浮き彫りにしつつ、現代の問題と照らし合わせてみることができるのです。この姿勢は『私、オルガ・ヘプナロヴァー』(2023)にも通ずるものがあります。
『私、オルガ・ヘプナロヴァー』(2023)は、実在したチェコ最後の死刑囚を描き、彼女がなぜそのような事件を起こしたのかについて距離感を保ちながら描いていました。
しかしオルガの息苦しさを通じて、時代を経て変わらないものを見出すこともできたのではないでしょうか。
“若い女性であること”に付きまとうものをあえて逆手に取ることで、それがいかに馬鹿馬鹿しく尊厳を踏み躙るものであるかをブラックユーモアたっぷりに描く会話劇が心地よく感じるのは、“今も変わらないもの”があるからなのです。
さらにイザベル・ユペール演じるオデットの存在が、絶妙なアクセントになっています。オデットはあえて言えば非常に男性的なキャラクターと言えます。堂々と「私の犯罪を返して」と言い放ち、役をもらえたからと言って妥協せず“出演料”はしっかりもらう図太さ、忖度しない堂々とした姿勢は心地よいものがあります。
そんなオデットを、若い頃はチヤホヤしても、歳をとると見向きもしなくなる世間のおぞましさ。そんなオデットに対し「今も美しい」とポーリーヌは言いますが、マドレーヌは「歳はとりたくない」と言います。
マドレーヌは女優という職業上「若くて美しい時しか見向きもしてくれない」という世間が押し付ける固定観念にある意味囚われており、一方でポーリーヌは自分の外見にあまり自信を持っていないことがうかがえます。そんなポーリーヌにとって、自信に満ち溢れているオデットの姿は美しく、憧れをも抱いているのかもしれません。
外見に対する考え方の違いから、オデットに対する二人の発言に違いが現れているのでしょう。
まとめ
“犯人の座”をめぐって女性たちが仕掛ける法廷劇サスペンス『私がやりました』。
本作では、女性の連携を描くとともに、そこにクィアな眼差しを落とし込んでいる点も見事です。クィアな存在として描かれていると思われるのは、ポーリーヌでしょう。
ポーリーヌとマドレーヌはともにお金がなく同じ部屋で暮らしていますが、その部屋にベッドは一つしかありません。裁判でそのことを指摘された際にポーリーヌは「あなたたちは貧しさを知らないのか」「私たちはただ暖をとるために、同じベッドで身を寄せ合い眠る」と検事の憶測を跳ね除けます。
しかしポーリーヌのマドレーヌを見る眼差しは、時にその身体に注がれています。マドレーヌとポーリーヌは「似たもの同士」ではなく、その違いは衣装によっても明らかです。
ポーリーヌはパンツスタイルが多く、マドレーヌはエレガントなフォルムのドレスを度々身に付けていました。美しく自由奔放なマドレーヌに対し、ポーリーヌはコンプレックスから自信を持てずにいる部分も垣間見えます。
さらにオデットも、ポーリーヌに対し綺麗だと褒め「子猫ちゃん」と可愛がっています。そんなオデットに照れた顔を見せるポーリーヌ。
また自信たっぷりなオデットは「モンフェランと関係があった」と発言していますが、それは手段としてそうせざるを得なかった可能性もあります。
全てを明確に白黒つけるのではなく、名言をしない部分もありながら様々な問題を浮き彫りにするフランソワ・オゾンの監督としての成熟度が垣間見える、見事なサスペンス映画となっています。