映画『静かな雨』は2020年2月7日(金)よりシネマート新宿ほか全国順次公開!
事故により新しい記憶を一日で失ってしまうようになった女性と、足に麻痺がある青年の出会い、そしてともに人生を歩んでいく姿を描いた映画『静かな雨』。
『羊と鋼の森』で知られる作家・宮下奈都のデビュー作を中川龍太郎監督が映画化した本作は、お互いに傷をもつ一組の男女の複雑な思いを描いています。
このたび劇場公開を記念し、中川龍太郎監督にインタビュー。
宮下奈都さんの原作同名小説を映画化するにあたってのアプローチ、記憶喪失を通して描かれる“今”との向き合い方、自身の監督作において“覚悟”を描き続ける理由など、貴重なお話を伺いました。
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小説の世界から映画の世界へ
──原作にあたる宮下奈都さんの小説「静かな雨」を最初に読まれた際の印象を改めてお聞かせ願えませんか。
中川龍太郎監督(以下、中川):『わたしは光をにぎっている』『四月の永い夢』でも出資してくださった映画プロデューサーの和田丈嗣さんから映画化のお話をいただいた際に早速書店へ行き、小説を拝読しました。
宮下さんの「静かな雨」は、僕自身もこれまで映画を介して描いてきた生活のディテールを大切にする物語であり、確かに自分にピッタリな作品だと思えたのと同時に、「この小説を映画として面白くすることは非常に難しい」とも感じられました。
小説は物語における起伏が非常に少ないんです。一方で記憶喪失というギミックは存在するため、映画化に向けて物語の起伏を下手に強調してしまうと、本当に使い古された「記憶喪失モノ」になってしまうと思えたんです。
小説の場合は、観念を観念のまま語れますよね。物語という具体のみならず、抽象によっても観念を描くことができる。ですが映画は“映像化”という具体化を必ずしなくてはいけないため、その具体化のプロセスになかなか苦しみましたね。
──劇中でも言及されているように、小説と映画という異なる世界同士が重なる瞬間を本作で表現されるにあたって、中川監督はどのようなアプローチを試みたのでしょうか。
中川:明確に考えていたのは、行助をある意味では主人公として物語の軸に据えることでした。
二つの世界を描く際、一方の世界に軸がないと、別の世界を見せることは非常に難しいじゃないですか。特に本作は、行助とこよみさんのラブストーリーでもありますから。だからこそ、まずは行助を主人公に据え「行助が成長する物語」という軸を作った上で、こよみさんは一種の精霊、抽象的な存在として描くことにしました。
ザリガニと“みなしご”
──映画化のために行助を本作の「主人公」として据えたというお話を伺ったことで、劇中にて映画オリジナルエピソードとして登場する行助の「片方のハサミしかないザリガニ」の話が重要なのだと理解できた気がします。
中川:実は小説に登場する行助の姉など、他にもさまざまな人物を描こうとも考えていたんですが、あまりにも人間関係を描き過ぎてしまうと本作から寓話性がなくなってしまう、物語が因果めいてしまうと思い断念したんです。
また僕は、うまく生きてゆくことがいけない現状、いわゆる“行き止まり”の中を生きる覚悟が本作のテーマだと考えていたため、行助たちを助けてくれる存在としての家族を登場させることで、そのテーマがブレてしまうことを避けたかったんです。だからこそこよみさんの母親のように、突き放す存在以外で家族を描きたくなかった。その中で主人公としての行助の人間性をどう表現するかを考えた時に、あのザリガニの話を取り入れたんです。
ああいった過去の記憶は誰もが近しいものを持っているのではないでしょうか。特に行助は自身の不自由な片脚とザリガニの姿を重ねてしまい、自分自身の姿に対して恥ずかしさやコンプレックスを抱いているわけです。実はあのエピソードは、監督補佐の佐近圭太郎くんが実際に体験した話なんです。行助の人間性を端的に、一言で語れる表現はないだろうかと僕が悩んでいた際に彼が語ってくれた話を取り入れさせてもらったんです。
──本作の行助、そして前作『わたしは光をにぎっている』の主人公・澪はともに両親を早くに亡くしています。そのように「不在」を通じて親と子の関係性を描かれている理由は他にもあるのでしょうか。
中川:この言い方には語弊があるかもしれないんですが、僕らの時代はある意味、たとえ両親が健在だったとしても“みなしご”である人間が多々存在するのではと考えています。
現代は親から何かを継承することが非常に難しい時代であり、親もまた“迷子”であることが多い時代です。迷いが氾濫する時代を生きる“迷子”の子どもたちだからこそ、“心のみなしご”ともいえる人々が生まれているのだと感じています。
“今”と向き合う機会としての記憶喪失
──本作の劇中では「遺す」という行為が度々描かれています。それはかつてこよみが飼っていたリスの話なども相まって“生”の本質にも深くつながっているとも感じられました。中川監督ご自身は「遺す」という行為をどのように捉えられているのでしょうか。
中川:たとえば僕は詩も書いていますが、「詩を書く」という“瞬間”を切り取ろうとする行為から、その瞬間に存在した自身の感情であれ自然現象であれ、それらを後に遺したいという欲求を切り離すことは簡単ではないと思うんですよね。そして、映画も同じように「“その瞬間をどう撮るか?”を模索する行為」という側面を持っています。その点をふまえると、僕は本能的に「遺す」という行為と直結した仕事を続けているんです。
一方で現代は、未来を考えること自体がつらい時代になっていると感じています。自分自身や社会が幸せへと向かってゆくビジョンを持つこともできず、遠方の未来に目を向けるとそこには暗闇が広がっているという方が多いのではと。
だからこそ、僕は「自身の足元、或いは目前の未来という“今”を地道に考え続け、丁寧にそれを積んでゆけば、実は幸せに生きることができるんじゃないか?」という仮定を考え続けていて、それを根底に存在するものとして本作に託しているんです。
──その仮定から導き出されるのは「“今”を遺すという行為を積み重ねることで、“今”を生きられる」という結論なのでしょうか。
中川:無理に“今”を遺そうとする必要は決してなくて、あくまで“今”と向き合うことが重要なんです。「遺す」という行為の裏側には、やはり未来への思いが存在する。だからこそ「遺す」という行為、そして未来というものを一度遮断した上で、そこにある“今”を真摯に受け止めなくてはいけないと考えているんです。
そういう意味では、こよみさんは悲劇の象徴として「記憶喪失」という設定を与えられているのではないんでしょうね。「“今”と向き合うための機会を与えられた」と考えてみたら、むしろ彼女は幸運だったと捉えることができるかもしれない。そのことに、劇中の行助は少しずつ気づいていくんだと。
小説「静かな雨」に対するアンサー
──小説「静かな雨」にとって欠かすことのできないモチーフである「雨」を、映画化に際し中川監督はどのように捉えた上で表現されたのでしょうか。
中川:小説における雨というモチーフについては、「過剰に何らかのメタファーにしてはいけない」とは考えていました。それは「静かな雨」という小説、『静かな雨』という映画だからこそであり、映画化で一番苦しんだ部分でもあります。
ただ一つ言えるのは、映画の終盤、ドローンを用いて街の全景をゆっくりと映し出す場面がありますよね。あの場面は、「静かな雨」という小説、そして作中で描かれている「雨」に対する一種のアンサーでもあるんです。
行助はあの街で、足を引きずりながら地道に生きてきました。そして「あの街で地道に生きてきた」という点は、こよみさんも同じはずです。二人はお互いに街という狭い世界を生きてきた気でいたけれど、出会い、そして記憶喪失というきっかけによって、世界の広がりに気づきます。
二人が暮らす街の向こうには山があり、その先にも別の街があり、見知らぬ誰かが生きているという風に、二人の生を包むこむ世界があることに気づく。それが「静かな雨」という小説に対する自分なりのアンサーなのだと思っています。
“覚悟”を描き続ける理由
──先ほど「“行き止まり”の中を生きる覚悟」について語られていましたが、前作『わたしは光をにぎっている』のインタビュー時にも中川監督は“覚悟”を言及されていました。中川監督が映画を介して“覚悟”を描き続ける理由とは何でしょう。
中川:かつて、僕の友人が自ら命を絶った際にも強く思ったことでもあるのですが、「これからの時代をどう生きていくのか?」という問題は非常に難しいものだと捉えています。
たとえば「団塊の世代」と呼ばれる人々は学生運動をはじめ共通のテーマがあっただろうし、僕の親世代の青春時代といえばバブルが起きていた。ある意味では、社会に基づいた上で正義感や欲望などといった自身の感情を発露し、アイデンティティを構築することが可能な時代を生きてこれたのだと感じています。
ですが、“現代”という時代を生きる僕らにとって、その可能性は無きに等しいと言って過言ではないでしょう。だからこそ、個別の島宇宙の中で好きなものを見出すことはできても、自分自身と時代、或いは社会体制との密接面を見つけられないわけです。
中川:また人間は、その状態では幸せに生きることができない生き物なのではとも感じているんです。そうではない人間も少なからず存在するけれど、多くの人間は非常に弱く、脆い。大きな物語の中に自らを置かなくては、どこかで追い詰められ壊れてしまうのだと思っています。
その弱さは、時にはオウム真理教、より遡ればナチスといった暴力へと回収されてしまうこともある。もちろんその方向へと盲信的に突き進んでしまうことは危険ですから、暴力と立ち向かうためにも、“行き止まり”の中であっても幸福に生きてゆくことができる新しい技術や工夫を追求し続けなくてはいけない。それが“覚悟”というものなのではと僕は考えています。
ただ、そういった技術を工夫をいわゆる“テクノロジー”がカバーすることだけは避けなくてはいけないとも思っています。たとえばスマホという一つのテクノロジーだけでも、人々は液晶を介しての幸福に依存してしまい、次第に見る目も聞く耳も塞がれた状態で生きてゆくこととなる場合が多々あります。
テクノロジーへの依存を防ぐためにも、新しい哲学や芸術の追究が不可欠となる。僕の映画ではまだそこまで踏み込んだ表現はできていないですけれども、映画や詩などの芸術活動の目的の一つとして、その課題が含まれています。今の僕が描き続けている“覚悟”もまた、そこにつながっているものだといえますね。
インタビュー/河合のび
撮影/出町光識
中川龍太郎監督プロフィール
1990年生まれ、神奈川県出身。慶應義塾大学文学部卒。在学中に監督を務めた『愛の小さな歴史』(2013)で東京国際映画祭スプラッシュ部門にノミネート。『走れ、絶望に追いつかれない速さで』(2014)も同部門にて上映され、2年連続入選を最年少で果たしました。
『四月の永い夢』(2017)は世界4大映画祭の一つであるモスクワ国際映画祭コンペティション部門に選出され、国際映画批評家連盟賞・ロシア映画批評家連盟特別表彰をダブル受賞。また松本穂香を主演に迎えた『わたしは光をにぎっている』(2019)は同映画祭に特別招待されワールドプレミア上映されました。
そしてこのたび公開された『静かな雨』は、これまで自身のオリジナル脚本を手がけてきた中川監督にとって初となる、宮下奈都の同名小説が原作の映画化作品。釜山映画祭に正式出品されたほか、第20回東京フィルメックス「コンペティション」部門に選出され、最も観客から支持を集めた“観客賞”を受賞しました。
さらに詩人としても活動を続けており、2010年には故・やなせたかしが主催した「詩とファンタジー」年間優秀賞を最年少で受賞しています。
映画『静かな雨』の作品情報
【公開】
2019年(日本映画)
【英題】
Silent Rain
【原作】
宮下奈都『静かな雨』(文春文庫刊)
【監督】
中川龍太郎
【脚本】
梅原英司、中川龍太郎
【音楽】
高木正勝
【キャスト】
仲野太賀、衛藤美彩、三浦透子、坂東龍汰、古舘寛治、川瀬陽太、河瀨直美、萩原聖人、村上淳、でんでん
【作品概要】
2016年本屋大賞受賞作『羊と鋼の森』を執筆した作家・宮下奈都のデビュー作を原作に、事故により「事故以降の新しい記憶が留められなくなる」という後遺症を抱えることになった女性と、足に麻痺がある一人の青年が出会い、ともに歩んでいく姿を描きます。
監督を務めたのは『四月の永い夢』『わたしは光をにぎっている』などの中川龍太郎。また中川監督作『走れ、絶望に追いつかれない速さで』で主演を務めた仲野太賀と、「乃木坂46」の卒業生である衛藤美彩がダブル主演を務めています。
映画『静かな雨』のあらすじ
大学の生物考古学研究室にて助手をしている行助(仲野太賀)。幼いころからの抱える麻痺により、片足を引きずりながら歩くのが日常となっている彼は、ある日大学の近くにたいやき屋があるのを見つけ、そのお店を一人で経営する女性・こよみ(衛藤美彩)と出会います。
二人は徐々に親しみを覚えていきますが、ほどなくしてこよみは交通事故に遭い、意識不明に。彼女は奇跡的に意識を取り戻しますが、事故以降の新しい記憶が1日経つと消えてしまうという後遺症もたらされてしまいました。
そんなこよみに対して行助は、彼の家で一緒に住むことを提案。かくして人生に傷を負い、お互いに不安を抱えた二人の共同生活が始まったのでした……。
編集長:河合のびプロフィール
1995年生まれ、静岡県出身の詩人。2019年に日本映画大学・理論コースを卒業後、2020年6月に映画情報Webサイト「Cinemarche」編集長へ就任。主にレビュー記事を執筆する一方で、草彅剛など多数の映画人へのインタビューも手がける。
2021年にはポッドキャスト番組「こんじゅりのシネマストリーマー」にサブMCとして出演(@youzo_kawai)。