映画『わたしは光をにぎっている』は2019年11月15日(金)より全国公開!
区画整理によって、あらゆるものが失われていく町。そこで働き、人々と交流し、町で暮らし始めた主人公は、避けられない「終わり」と真摯に向き合う中で、自身の居場所、そして自身の存在を見つけ出そうとする…。
それが監督・中川龍太郎×主演・松本穂香が綴る映画『わたしは光をにぎっている』です。
このたび2019年11月15日(金)からの劇場公開を記念し、東京都・高円寺にある銭湯「小杉湯」さんにて中川龍太郎監督へのインタビューを行いました。
物語の舞台となった銭湯と「場所」の意味、山村暮鳥の詩から受け継がれる覚悟の物語、そして失われていく時代の中で映画を撮り続けるその理由など、貴重なお話を伺いました。
CONTENTS
「場所」が生み出すコミュニケーション
──はじめに、中川監督が時間あるいは時代をつなぐ「場所」として銭湯を選んだその理由を改めてお聞かせ願えませんでしょうか。
中川龍太郎監督(以下、中川):幼少期の僕は登戸や向ヶ丘遊園のあたりで育ちました。その頃、祖父によく銭湯へと連れて行ってもらいました。けれども、その銭湯はもうなくなってしまいました。
祖父は、同じく銭湯に訪れた見ず知らずのお客さんたちと湯船で会話していました。幼少期の僕はその光景が「普通」だと感じていたんですが、大人になった今、それは全然「普通」ではないと気づかされました。
一方で、その光景が「普通」でないことがとても勿体ないことであり、銭湯をはじめ、そういった「場所」が僕の子ども世代、孫の世代に継承されていってほしいと思うようになりました。そこで「場所」についての物語を作ろうと思い立ったのが、今作の始まりでした。
人間の幸福度とは「1日の中で、自分と関係のない人間とどれだけ話したか?」という面にも大きな影響を受けていると僕は考えています。
「自分が生きている世界は自分だけのものではなく、他者が存在し、自分もまた他者の認識によって存在している」ということを再認識できる。それが幸福度につながっているし、自己と世界の再認識という機会を生み出してくれるのが、「知らない人と話す」という行為なのだと。
中川:もちろん知人間や仕事でのコミュニケーションも大切ですが、知人間のみではどうしても閉鎖的になりがちですし、仕事でのコミュニケーションで認識できるのは、あくまで「機能」としての自分です。
たった今の状況で例えるなら、「映画監督」と「インタビュアー」という機能があって、そこから僕たち人間と人間の関係になりますね。自己の機能に関する認識は社会では不可欠で日常的に行われていますが、逆に機能や役割から解放され、「何者でもない、単なる人間」として他者とコミュニケーションできる場は意外と少ないのではないでしょうか。
それ故に、互いのことを知らない、まだ関係性のない人間とのコミュニケーションは、機能や役割を超えた単なる自分自身の肯定に繋がる可能性があります。僕はそれが大切だと感じているんです。
そして、これからの日本という、大きな経済発展がなかなかイメージしにくい時代にあっては、そうした「幸福」という感情に深く関わるコミュニケーションを生み出す「工夫」、その具体例としての「場所」つくりを大事にすべきじゃないかという思いのもと、本作を制作しました。
鼻唄という記憶資源と「場所」
──今作の劇中では松本穂香さん演じる澪が言及する「ふるさと」をはじめ、空間を持たない「場所」も描かれています。監督にとっての「場所」の定義を、より詳しくお聞かせ願えませんか。
中川:主人公の澪が樫山文枝さん演じる祖母・久仁子から受け継がれた鼻唄のように、記憶資源もまた「場所」の代わりとなるもの、「場所」を想起させるものであり、その本質は「体験の共有」にあると思います。
また映画では描いていませんが、実は久仁子は満州の生まれで、彼女の鼻唄は幼い頃、満州に暮らしていた時に耳にしたものという設定があるんです。
満州という「場所」自体はなくなり、現在のそこは彼女にとっては見知らぬ土地になりましたが、当時耳にした鼻唄だけは一生涯、彼女の中に残り続けた。その唄によって、物質的には消失した「場所」が彼女の中では存在します。
ですが、自身がこの世からいなくなったら、その鼻唄も記憶も消えてしまう。だからこそ澪にその鼻唄を伝えたかったのだと思います。
──例え「場所」が失われたとしても、記憶資源が残り続ける限りその「場所」は失われることはないということでしょうか。
中川:確かにその通りだと思うんですが、実際は記憶資源のみではなく、その拠り所となる空間的な「場所」も残すべきだとも感じているんです。
以前、雑誌「映画芸術」で社会学者の宮台真司さんと対談させていただいた際に「人間の寿命よりも場所の寿命の方が短くなってしまったのが近代である」という話題が挙がりました。
本来、一つの家族が何代にもわたって同じ場所で暮らし続けるのは普通のことでしたが、現代では短期間の中で、同じ場所に暮らす人間が家族や世代も関係なく変化し続ける。「場所」が長生きできない社会になったんです。
そして「場所」という拠り所、そこに集い記憶を共有し合う他者との関係がなくなっていくと、人間は自分のこと以外をイメージしづらくなります。人間関係という連続性の中に自分を置きづらくなるんです。その点においても、空間としての「場所」はどうしても必要なんです。
想像力とコミュニケーションの狭間で
──コミュニケーションという言葉が挙がりましたが、今作では主人公・澪の他者とのやりとりを中心に、想像力とコミュニケーションの狭間で生じる「葛藤」も描かれています。
中川:想像力とコミュニケーションは表裏一体のものであり、二つで一つのものです。
澪のバイト先であるスーパーでの場面はもちろん、バイト仲間の女学生から投げられた厳しい言葉も女学生が意地悪なのではなく、やはり澪の想像力のなさに原因があるのではないでしょうか。
現に徳永えりさん演じる美琴からも、澪は似たようなことを指摘されてしまいます。「澪ちゃんは話せないんじゃなくて、話さないんだよ」と。
現代はどうしても、人々が「察してくれない人とぶつかるよりは黙っていた方がいい」と考えがちな時代になっているような気がします。でも、それを積み重ねてしまうと人はどんどん内向的になり、そのこと自体が実は自分自身を追いつめてしまう要因になりかねない。そのことも映画で表現したいと考えていました。
「光をにぎっている」という覚悟
──また今作のタイトルは劇中でも登場する山村暮鳥(1884-1924)の詩「自分は光をにぎつてゐる」からとられていますが、そもそも彼の詩を引用された理由とは何でしょう。
中川:暮鳥さんの詩が今の時代にとても合っていると感じたのが一番の理由です。
僕は1990年に生まれましたが、僕と同世代以降に生まれた人たちは、日本の「良い時代」をほぼ知らずに育ってきました。ある意味では、自分が「光」をにぎっているとは一番思えない世代とも言えるかもしれません。ですが、強がりでもいいので、暮鳥さんのように「けれど自分はにぎつてゐる」と言う覚悟が必要だと感じます。実際には戦争に行かなくてはならないわけでも空襲を受けているわけでもないわけです。
僕は「自分は光をにぎつてゐる」という詩を、「行き止まり」を生きる覚悟についての詩だと捉えています。
暮鳥さん自身も、詩を書いた当時は不治の病だった肺結核を患っていて、大正末期という日本がだんだんとキナ臭くなっていった時代を生きていた。その状況の中でも、彼は「自分は光をにぎつてゐる」と信じ、前を向いて生きていこうとしていたのではないでしょうか。
「光」そのものを信じられなくても、「光」をにぎっている自分だけでも信じようとする。その覚悟が込められている詩だからこそ、今の時代を生きる人々と呼応しうると思えたんです。
そして今作は、例え「場所」がなくなったとしても何かを残そうとするという覚悟の物語でもあるんです。
「公共的」で「私的」なメディア
──劇中に登場する古い映画館のように、映画館ひいては映画もまた失われていく「場所」の一つと言えます。そのような状況の中でも、中川監督が映画を撮り続ける理由をお聞かせ願えませんでしょうか。
中川:当然、僕自身、映画の全盛期と言える時代に生まれてはいません。
ですがかつての映画館は、銭湯に似て広場としての機能を各都市の中で担っていたのではないでしょうか。都市の中で裸体をさらす場が銭湯で、都市の中で「暗闇」を知る場が映画館だったわけです。そして皆が同じ体験を共有する中で、他者とのコミュニケーション、他者との差異が生み出される「場所」でもありました。
無論ネット配信やテレビにも良い点がありますが、それらのメディアはあくまで個人とコンテンツの対面によって成立するものです。逆に映画というメディアは、そうではないということに重要な意義があると感じます。
映画は「公共的」なメディアであり、一方でネット配信やテレビは「私的」なメディアと言えるかもしれません。何より映画というメディアは、「公共的」であると同時に「私的」でもあることに依然として可能性があるのではないでしょうか。
他者とのコミュニケーションが人間の孤立を防ぎ、同時に「ともに観た映画への反応」という他者との差異が、それぞれの「個」を意識させる。そういった可能性が映画館には眠っています。
結局、他者の存在がなければ「個」に気づくことは難しいような気がします。そういう他者との偶発的な遭遇の場所は、自分を自分自身にしてくれるのではないでしょうか。そういう空間のことを、僕は公共の場所と呼ぶのではないかと思います。
例え「自分はコレが好きだ」と自己の認識をもっていたとしても、それは自身の収集したわずかな情報、或いは誰かによって誘導されているだけの快楽という可能性は否めません。だからこそ少しでもオフラインで町に出て、他者と出会い、言葉を交わせる社会を意識していくことに意味はあると思います。
中川:また映画館で映画を観て感動した後、その帰路での光景がそれまでとは全く異なるように見えるという現象は、映画を愛する人であれば誰もが体験したことがあるはずです。映画館は上映作品のみならず、感動によって世界が変化する瞬間をも見ることができるんです。
ですが、家で作品を鑑賞するのみでは、その瞬間をありありと目撃することはできません。「また次の作品を観よう」という感動の消費が続くことになりかねません。
だからこそ映画という体験を下支えする映画館という「場所」を何としても残さなくてはいけない。例え自分一人になっても、商売にならなくても続けなきゃいけないと思っています。
──そのような中川監督の覚悟が、「終わり」が「始まり」を生み出すという本作の物語にも表れているわけですね。
中川:「終わり」と「始まり」は決して分断されたものではなくて、基本的には円のようにつながっているはずのものだと考えています。
ある「終わり」を迎えたことで主人公の澪が新たな「場所」を作るという「始まり」へとつながっていくという在り様には、若い世代の映画監督にあたる僕が、映画というものを継承していきたいという思いも込めています。
インタビュー/河合のび
撮影/出町光識
中川龍太郎監督プロフィール
1990年生まれ、神奈川県出身。慶應義塾大学文学部卒。
在学中に監督を務めた『愛の小さな歴史』(2013)で東京国際映画祭スプラッシュ部門にノミネート。『走れ、絶望に追いつかれない速さで』(2014)も同部門にて上映され、2年連続入選を最年少で果たしました。
『四月の永い夢』(2017)は世界4大映画祭の一つであるモスクワ国際映画祭コンペティション部門に選出され、国際映画批評家連盟賞・ロシア映画批評家連盟特別表彰をダブル受賞。
そして松本穂香を主演に迎えた今作は、モスクワ国際映画祭に特別招待されワールドプレミア上映されました。また2020年の新春には最新作『静かな雨』の劇場公開も予定されています。
さらに詩人としても活動を続けており、2010年には故・やなせたかしが主催した「詩とファンタジー」年間優秀賞を最年少で受賞しています。
映画『わたしは光をにぎっている』の作品情報
【公開】
2019年11月15日(日本映画)
【監督】
中川龍太郎
【脚本】
中川龍太郎、末木はるみ、佐近圭太郎
【主題歌】
カネコアヤノ『光の方へ』
【キャスト】
松本穂香、渡辺大知、徳永えり、吉村界人、忍成修吾、光石研、樫山文枝
【作品概要】
テレビドラマ『この世界の片隅に』などで注目され、これまでにも多くの話題作に出演し続けてきた若手人気女優・松本穂香の最新主演作。
監督を務めたのは中川龍太郎。前作『四月の永い夢』(2018)では「世界4大映画祭」の一つであるモスクワ国際映画祭・コンペティション部門に選出され、国際映画批評家連盟賞とロシア映画批評家連盟特別表彰のW受賞を果たしました。
そして本作もモスクワ国際映画祭にて特別招待され、ワールドプレミア上映を迎えています。
映画『わたしは光をにぎっている』のあらすじ
湖畔の民宿を営みながらも、亡き両親に代わって育ててくれた祖母・久仁子の入院を機に、東京へ出てくることになった澪。
都会の空気には馴染めずにいましたが、「目の前のできることから、ひとつずつ」という久仁子の言葉をきっかけに、居候先である銭湯「伸光湯」を手伝うようになります。
昔ながらの商店街の人たちとの交流も生まれ、都会の暮らしの中に喜びを見出し始めたある日、「伸光湯」の主人にして亡き父の友人だった京介から、その場所が区画整理によりもうすぐなくなることを聞かされます。
その事実に戸惑いながらも、澪は「しゃんと終わらせる」決意をします…。
編集長:河合のびプロフィール
1995年生まれ、静岡県出身の詩人。2019年に日本映画大学・理論コースを卒業後、2020年6月に映画情報Webサイト「Cinemarche」編集長へ就任。主にレビュー記事を執筆する一方で、草彅剛など多数の映画人へのインタビューも手がける。
2021年にはポッドキャスト番組「こんじゅりのシネマストリーマー」にサブMCとして出演(@youzo_kawai)。