映画『裁かれるは善人のみ』作品情報
【公開】
2014年(ロシア)
【原題】
LEVIATHAN
【監督】
アンドレイ・ズビャギンツェフ
【キャスト】
アレクセイ・セレブリャコフ(コーリャ)、エリナ・リャドワ(リリア)、ウラディミール・ヴドヴィチェンコフ(ディーマ)、ロマン・マディアノフ(ヴァディム・シェレヴャト)
映画『裁かれるは善人のみ』あらすじとネタバレ
権力と戦う
冷たい風が吹きすさび、波が打ち寄せるロシア北部の小さな港町。自動車修理工のコーリャは、若く美しい妻のリリアと、先妻との間にもうけた息子ロマと共に、質素な生活を営んでいます。
コーリャは、モスクワから一人の友人を呼び寄せます。コーリャの軍人時代の後輩ディーマです。コーリャは、現在弁護士であるディーマに助けを求めたのでした。
コーリャ達が祖父の代から住んでいる家は今、国による大規模な土地開発のために取り壊しを迫られており、ディーマは裁判に持ち込むための手助けをすると言います。
コーリャに直接交渉に訪れた市長に対し、ディーマは「あんたに不利な情報を入手している」と言います。市長は動揺し、ロシア正教の司祭に相談をもちかけます。
ディーマと過ごすうちに、リリアの心に変化が訪れます。コーリャの外出中、ディーマと二人きりになったリリアは、自分から彼の部屋へ行き情事に身をゆだねます。
休日、コーリャの家族と友人家族、そしてディーマでハイキングに出かけます。バーベキューを楽しんでいる時、友人夫婦の子どもがディーマとリリアが抱き合っている姿を目撃し、それを聞いたコーリャはディーマを殴りつけます。
翌日、ディーマに市長が会いに来ます。車に乗せられ、数人の男達に殴られます。市長は銃を取り出し、ディーマを脅して去っていきます。ディーマはコーリャとの友情もなくし、どうすることもできずにモスクワへ帰っていくのでした。
神の不在
リリアは、ディーマとの出来事の後もコーリャと暮らしていました。早朝に家を出て、バスに乗り込み魚加工の工場へ。そして一日中ラインで働き、疲れて帰宅。コーリャはディーマの件について一言も触れません。
ロマは、リリアが来た時から彼女を嫌っていました。ディーマのことで十分に傷ついていた彼は、コーリャとリリアが地下室で抱き合っているのを見てしまい、嫌悪感のあまり家を飛び出してしまいます。
自分に対するロマの敵意を感じたリリアは、深夜、一人で涙を流します。翌朝、いつも通り家を出たリリア。バスには乗らず、一人で海を見つめています。
何度電話をかけても出ないリリアを心配したコーリャのもとに、リリアが見つかったとの知らせが入ります。雨の中、警察の車で連れていかれたのは海岸。海から引き上げられたリリアの体は、冷たくなっていました。
コーリャは酒びたりの日々を過ごします。ウォッカを買った店で神父に会い、「あんたの慈悲深き神はどこにいる?」と聞きますが、神父は「誰に祈る?一度も教会に来たことがないのに」と答えます。そして聖書のヨブ記について説き始めます。
警察の調査の結果、リリアは鈍器で殴られ、海に投げ込まれたという事実が判明します。警察が手錠をかけたのはコーリャでした。彼は否定しますが、ロマを家に残してそのまま拘留されます。判事の出した判決は、懲役15年というものでした。
コーリャの家の取り壊しが始まりました。市長は家族をつれて教会のミサに参列しています。コーリャの判決を電話で聞いた市長は、「それはよかった」と満足気に笑います。そして再び妻や子ども達と並んで、厳かな司祭の声に耳を傾けます。
『裁かれるのは善き人のみ』の感想と評価
田舎の土地をめぐる権利問題。汚職まみれの市長。そして都会からやって来た弁護士。これだけ揃えば普通、どんな法廷劇が繰り広げられるのか期待も高まります。
ところが、物語は全く違う方向へとスライド。予想外の事件がたて続けて起こり、あれよあれよという間に主人公は地獄に突き落とされ、わずかな救いすらないのです。
それにしても、なんという自然の厳しさでしょうか。どこまでも灰色の空、荒ぶる海。吹きすさぶ風の音しか聞こえない小さな港町で、肩をよせあって質素に暮らす人々。文化も娯楽もなく、わずかな楽しみといえば近くの岩場でのするバーベキューくらい。
そのせいかみなさん、お酒と煙草の量が半端ない。大人も子どもも、いつでもどこでもグビグビプカプカ。これはかなりの衝撃です。しかし、つねに酔っぱらっていたいというよりは、飲まなきゃやってられないというのが本当のところだと思います。
コーリャという夫がいながら、ディーマに身をまかせたリリア。ディーマを真剣に愛したわけではなく、衝動的な欲望に負けたわけでもない。そうかといって、コーリャへの不満を別の男で満たそうとしたのとも違うような気がします。
リリアの瞳に浮かぶのは、どうしようもないやるせなさです。どこにも行き場がなく、憂鬱を絵に描いたようなこの町で一生暮らすしかない、その絶望感。コーリャの息子ロマも同じです。ここでは「若さ」さえ無意味であり、彼が消費するのは時間だけです。
家族が抱える虚無感など、コーリャの目には映りません。彼が熱心に耳を傾けるのは、青春時代の友人ディーマの昔話と、先祖の土地を守る裁判の話だけです。そんなコーリャが全てを失った時、自分の行いを後悔するのではなく、神の不在を嘆くのです。
一方、コーリャの敗北を知った市長は、逆に神に感謝を捧げます。一連の悲劇が市長とどう関連があるのか、明かされないまま物語は終わります。コーリャの家族が生きた証は、取り壊された彼らの家と共に消え去りました。
この映画の象徴のようにスクリーンに広がる、海岸に打ち上げられたクジラの白骨。その空虚な存在が、小さな港町の事件に普遍性を持たせます。ロシアという国の一面を垣間見ると同時に、誰にも思い当たる「神の存在への疑惑」がここにあります。
『裁かれるは善人のみ』という邦題には疑問を感じます。この物語に本当の善人などいないのではないでしょうか。みな欲があり、欠点があり、秘密がある、普通すぎるほど普通の人間。ただただ必死に生きている、普通の人間だからこそ悲しいのです。
まとめ
デビュー作の『父、帰る』(2003)でヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞。その後も『ヴェラの祈り』(2007)、『エレナの惑い』(2011)など、立て続けに高い評価を得るアンドレイ・ズビャギンツェフ監督。
本作もゴールデングローブ賞外国語映画賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、カンヌ国際映画祭脚本賞ほか、世界中の注目を集めました。50代前半という若さで、もはやロシアの巨匠といわれる貫録です。
リリアを失ったコーリャに、神父が聞かせるのが旧約聖書の「ヨブ記」です。本作の原題『LEVIATHAN(リバイアサン)』は、ヨブ記に登場する海の巨大獣の名前で、国民が抗うことのできない権力(国家)の象徴であるとも言われています。
しかしそのリバイアサンですら、神による創造物です。これは、神がもたらす善と悪に運命を弄ばれる人間(それも庶民)の苦悩の物語とも思えます。
同じ人間でも権力者側にいる市長は、司祭に助けを求めます。悪事に直接手を貸すことはなくても、司祭による肯定は神の言葉です。市長にとっての神は最強の免罪符であり、善悪をも超える正義となり得るのです。
「神の不在」は、果たしてコーリャだけに言えることでしょうか。市長にとっての「神」が存在するなら、真実の神(正しい神)などこの世に存在しないのでは?と考えてしまうのです。鑑賞後はずっしり心に重荷を下ろす、深い深い作品です。