小説『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』が2022年に実写映画化に!
作家の辺見じゅんのベストセラー小説『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』が、映画タイトルを『ラーゲリより愛を込めて』とし、2022年12月9日(金)全国公開されます。
監督は『8年越しの花嫁 奇跡の実話』(2017)などの瀬々敬久。主役は二宮和也が演じます。
企画プロデュースは『黄泉がえり』(2002)の平野隆、脚本は『永遠の0』(2013)の林民夫が務め、『糸』(2020)を生み出した瀬々監督×平野隆×林民夫のタッグが再集結!
第二次世界大戦後、60万人を超える日本人が不当に捕虜となったシベリア抑留。ノンフィクション小説『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』は、過酷な労働と厳しい自然環境の中で仲間たちを励まし続けた実在の日本人捕虜・山本幡男(享年45)の遺書を通じて、彼の壮絶な半生を描いた物語です。
戦争によってもたらされた無情な仕打ちによって、終戦となっても収容所で労働に喘ぎ、郷愁の念に苦しむ人々の実態を白日のもとにさらします。
先の見えない日々であってもなお、帰国の希望を捨てずにみなを励まし続けた山本幡男。規律厳しく不自由な収容所の中で彼が書き綴り、仲間たちが山本の家族に決死の覚悟で届けた遺書をめぐる『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』の原作小説を、あらすじネタバレを交えてご紹介します。
CONTENTS
小説『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』の主な登場人物
【山本幡男】
ロシア語に秀でているため、満鉄調査部調査室で勤務。敗戦と同時に俘虜となり、スパイ容疑のために帰国できず、45歳で病死します。
【山本モジミ】
幡男の妻。夫の言いつけを守り、4人の子どもを女手ひとつで育て上げます。幡男が書いた遺書の受け取り主。
小説『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』のあらすじとネタバレ
1948年(昭和23年)9月下旬。ソ連のスペルドロフスクの駅を出発した汽車は、シベリア鉄道を一路、東へと向かっています。
それは、スペルドロフスクの収容所で2年近く俘虜生活を送った500名の日本人たちを乗せた帰還のための汽車でした。
1945年(昭和20年)の敗戦でソ連軍に捕らわれ、翌年に満州からスペルドロフスクの収容所に護送されたときと同じくすし詰め状態の移動でしたが、帰国できるので中に乗っている人々の表情は明るいものでした。
そのなかの一人に山本幡男がいました。山本は、1908年(明治41年)島根県に6人兄妹の長男として生まれ、東京外国語学校(現・東京外国語大学)露西亜語科に進学した優秀な人物です。
露西亜語科を選んだのも、ロシア文学に傾向していたからなのですが、それがのちの山本の運命を決定づけます。
東京外国語学校卒業間近に、三・一五事件が起き、山本も街頭連絡の途中で逮捕され、退学処分。その後、実家に帰った山本ですが、叔父の店の手伝いなどをし、1933年(昭和8年)隠岐で小学校教師をしていた是津モミジと結婚します。
1936年(昭和11年)ロシア語の実力を買われ、太平洋戦争中に大連にある満鉄調査部に入社し、北方調査室に配属されました。
山本は妻モジミとの間には4人の子どもに恵まれ、幸せな日々を過ごしていました。けれども、1944年(昭和19年)に赤紙が来て、36歳で初年兵となり、1945年(昭和20年)の敗戦を機に人生は一変。
ソ連兵に捕らわれた山本は収容所送りになり、妻子は危ない目にもあいながらなんとか帰国しました。
山本の収容所での仕事は通訳が多かったのですが、待遇はみなと一緒で自由のない囚人です。それでもやっと帰国できることになり、この汽車に乗車できました。
山本をはじめ汽車の中の人々は、家族や肉親との再会を待ち望んで、窮屈な状態の汽車内での時間を耐えていたのです。
汽車は日本に向かう船に乗船するため、港に向かっています。順調に帰路を進んでいたのですが、帰国船が用意された港まであと一日というところで、突然ソ連兵によって停車させられます。
ソ連兵はロシア語がわかり、通訳ができる山本に名簿を渡し、名前が書かれている者はここで降りるように命令しました。そのなかには 山本の名前も記されていました。
ここで汽車を降ろされ、ソ連へ逆戻りさせられる者にはどんな運命が待っているのでしょう。運命の分かれ道を察しても、誰も何も言えません。
下車した者が隊列を組んで連れて行かれるのをしり目に、汽車は港へ向かって出発しました。
同じ汽車に乗り合わせ、山本を慕う松野輝彦は、山本と過ごしたスペルドロフスクの収容所での2年半の生活に思いを馳せます。
1946年(昭和21年)4月。
整備が整ったスペルドロフスクの収容所に、牡丹江収容所から日本人俘虜1000名が到着しました。その中には、山本や松野もいました。
収容所の作業は土木建築が主要でしたが、ロシア語のできる山本はここでも通訳をさせられます。
「いつ帰国できるのか?」「自分は何の罪で捕らえられたのか?」
何もわからない日本人捕虜たちは極寒の大地で、不安と戦いながら、全長4300kmのバム鉄道を完成させるため強制労働をさせられました。
想像を絶する酷寒と飢え、過労から発する病気の数々。加えて1日に支給される食事は350gの黒パンと、野菜の切れ端しが浮いたスープだけという食事に、不衛生な三段ベッド。
高さ3メートルの板と鉄条網で囲まれ、常に機関銃を持ったロシア兵が見張る収容所は、労働の他に何もない牢獄です。
毎日労働に駆り出される捕虜たちは空腹に耐えかねて、カエルやネズミも食べていました。
比較的過ごしやすくなる夏でも、捕虜たちは辛い作業に駆り出され、冬に死亡すると思われる仲間の遺体を埋める穴まで掘らされました。冬は地面が凍結して穴が掘れないというのがその理由です。
そんな過酷な状況のなかでも山本は「みんなで帰国しよう」と、仲間を励まし続けていたのです。
小説『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』の感想と評価
辺見じゅんの小説『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』は、第二次世界大戦後の過酷なシベリア収容所生活を鮮烈に描いた作品です。
虐げられた生活の日本人捕虜の心情を詳細に表現し、読者の心に突き刺さるノンフィクション。戦争がもたらした残酷な現実に胸が痛みます。
「生きる希望を捨ててはいけません。ダモイ(帰国)の日は必ずやって来ます」。
死と隣り合わせの生活を送りながらも、常に仲間を励まし、帰国への望みをすてなかった山本の言葉が、印象深く物語を締めています。
わずかな食糧で過酷の労働を強いられる毎日の中でも、山本の持つ仲間想いの行動力と知性あふれる力強い信念が、仲間たちを引き寄せたのに違いありません。
だからこそ、山本が病死した時、仲間たちは危険を顧みずに、山本の遺書を家族の届けようと一肌脱いだのです。
遺書を受け取る妻や子供たちはどんなにか驚き、伝達してくれた仲間たちに感謝したことでしょう。仲間たちと山本の友情と信頼には、人として忘れてはならない大切な思いやりの心が色濃く感じられました。
山本がそこまで生きることへ執着したのは、家族があればこそ。いえ、山本ばかりではありません。
「生きて帰国する」ということは、俘虜として収容所に送られた日本人全ての願望と言えるものです。
政治的圧力や人として認めてもらえないほどの暴力にも屈しない山本ですが、病の果てに命つきた無念の想いが、ばらばらに届く遺書からもひしひしと伝わってきます。
戦後になっても届けられた遺書から感じられる家族愛と生への執着を、遺書を目にした人たちはしっかりと受け継いでいかねばなりません。
遺書は、これからの社会を築く人々への山本からのメッセージとも言えます。
映画『ラーゲリより愛を込めて』の見どころ
シベリア逗留という、悪名高き収容所生活を送りながらも、家族を思い帰国への想いを抱いて仲間を励まし続けた男、山本幡男。
本人の写真を見る限り、外見は線の細い文学青年の様を徹していますが、計り知れなく強い精神力と信念をもっています。そんな山本を演じるのは、絶対的な演技力を持つ、二宮和也。
『母と暮らせば』(2015)や『検察側の罪人』(2018)で演技の幅を広げ、太平洋戦争を題材にイーストウッドが描いた『硫黄島からの手紙』(2006)では、家族のために生きて帰ることを固く誓った陸軍兵士を演じ、その実力を確固たるものとしました。
山本の「生きて帰ること」への執念は、自らが立ち上げた句会で読む俳句にも表れ、日本との手紙のやりとりが許されると、短めながらも想いのこもった手紙を書きます。
言葉に出せない家族や国への愛、帰国への想い。当時の抑留された日本人の切なく苦しい胸のうちをどんな風に演じるのか。
「ただ、ただ、帰ることを想って、行ってきます」と言葉少な気にコメントした二宮和也の演技に注目です。
映画『ラーゲリより愛を込めて』の作品情報
【公開】
2022年公開(日本映画)
【原作】
辺見じゅん:『収容所から来た遺書』(文春文庫)
【脚本】
林民夫
【監督】
瀬々敬久
【キャスト】
二宮和也、北川景子
まとめ
参考画像:本作に登場する遺書を書いた山本幡男
戦後12年目にシベリア帰還者から家族に届いた6通の遺書にまつわる話を、辺見じゅんが小説にまとめた『収容所から来た遺書』。大宅賞と講談社ノンフィクション賞のダブル受賞に輝いた感動作です。
敗戦から12年目に主人公山本の家族が手にした6通の遺書には、ソ連軍に捕らわれ、極寒と飢餓と重労働のシベリア抑留中に病死した男の家族を想う気持ちが込められていました。
遺書は彼を慕う仲間たちによって、驚くべき手段で厳しいソ連側の監視網をかいくぐって家族の元に届けられます。
地獄のような強制収容所(ラーゲリ)で囚われながらも、その不運に屈しなかった山本幡男。
絶望のどん底にいながらも、文字をしたため、遠く離れた家族への想いを綴り、「みなで生きて帰ること」へ絶大なる希望を見出すのは、人並優れた器量のある人物と思えます。
6通の遺書が無事に家族に届き、これで最後かなと思われたのに、7通目の遺書が昭和62年に届きます。
戦争の傷跡は、まだまだ続いています。遺書に秘められた戦争の真実の姿と平和へのメッセージから目を背けてはならないのです。