自分の欲を満たすものは?
すべての欲は正しいのか。
作家・朝井リョウの第34回柴田錬三郎賞受賞作品『正欲』を、岸善幸監督が稲垣吾郎、新垣結衣の共演で実写映画化。
妻と子供の教育方針で揉めている検事の寺井。死んだように毎日生きている夏月は、中学の同級生・佳道に再会したことで止められない衝動を覚える。大学でダンスサークルに所属している諸橋に、興味を抱く男性恐怖症の八重子。
バラバラに生きていた者同士が、とある嗜好によって引き寄せられる。観る前の自分には戻れない!? 傑作か問題作か。映画『正欲』を紹介します。
映画『正欲』の作品情報
【日本公開】
2023年(日本映画)
【原作】
朝井リョウ
【監督】
岸善幸
【キャスト】
稲垣吾郎、新垣結衣、磯村勇斗、佐藤寛太、東野絢香、山田真歩、宇野祥平、渡辺大知、徳永えり、岩瀬亮、坂東希、山本浩司、鈴木康介
【作品概要】
原作は、直木賞受賞作家・朝井リョウの小説『正欲』。『桐島、部活やめるってよ』、『何者』など群像劇を得意とする朝井リョウならではの巧妙なストーリー展開を、『あゝ、荒野』(2017)の岸善幸監督と巷岳彦の脚本で映画化。第36回東京国際映画祭では、最優秀監督賞&観客賞受賞となりました。
出演者は、検事の寺井役に稲垣吾郎、性的嗜好のマイノリティで悩む夏月と佳道を、新垣結衣と磯村優斗が演じています。
主題歌は、映画主題歌は初となるVaundyの『呼吸のように』。互いを必要とする者同士の内なる悲鳴が感じられ、映画の世界観に浸れる1曲となっています。
映画『正欲』のあらすじとネタバレ
コップに注ぐ水が溢れています。会社員の佐々木佳道は思っていました。世の中にあふれた情報は、明日も生きたい人のためにあるものだと。自分のように明日死んでもいい人への情報は無いということも。
地元の広島にあるショッピングモールで働く桐生夏月は、ひとり回転ずしにいました。代り映えの無い毎日、家に帰るといつもの動画を再生し快楽を得ます。目を閉じると、部屋は水浸し、ベットの上で寝ころぶ夏月は、どっぷりと水に浸っていました。
横浜地方検察庁に勤めるエリート検事・寺井啓喜は、息子が不登校になり妻の由美と衝突が絶えません。
息子と妻は、今は行きたくない学校へ行かないという選択肢があると、ユーチューブで動画配信をすると言い出します。なぜ普通のことが出来ないのか。啓喜には、学校に行かないという選択が理解出来ませんでした。
今日も啓喜の所には犯罪を犯した者がやってきます。万引き常習犯の女性を一方的に責める啓喜に、同僚の越川はある事件の記事を見せました。
その記事は、水を出しっぱなしにし蛇口を盗んで逮捕されたフジワラサトルという人物のものでした。「水を出しっぱなしにするのが嬉しかった」と供述したフジワラは、水に性的興奮を得るという人物だったのではないかというのです。
越川の意見に「そんな奴はいないだろ」と頭から否定する啓喜。理解できないものはできない。息子には、「僕のやっていることを理解して欲しい」と言われる始末です。
大学生の神戸八重子は、学祭に向けて、ミスコンのイベントに対し問題意識を持った者たちで新しく企画した、多様性を重視した「ダイバーシティフェス」の開催に向けて取り組んでいました。
大学のダンスサークルに出演を依頼した八重子は、感情をぶつけるようなダンスを踊る諸橋大也と出会います。極度の男性恐怖症を抱える八重子にとって大也は、唯一、触れられても大丈夫な存在になっていました。
夏月の職場に偶然、同級生の西山が顔を出します。同級生の結婚式に呼ばれた夏月は、気乗りはしないものの、佐々木佳道も地元に帰ってきたことを知り、会いたいと思っていました。
中学の頃の記憶が蘇ります。あれは、気になった新聞記事を発表する時間でした。同級生が水を出しっぱなしにして逮捕されたフジワラサトルの記事を読み上げ、クラス中が皆笑っています。
夏月はどこか気が治まりません。「校舎の脇の古い蛇口を工事するから近付かないように」と言われ、自分の欲求に従い水道に向かいます。
そこにはすでに、同じクラスの佐々木佳道がいました。ちゃんと話したことのない2人でしたが、蛇口をひねり吹き出した水しぶきの中、びしょ濡れになりながら互いを理解するのは充分でした。
佳道と再会を果たした夏月でしたが、水面がいつもより大きく揺れているようです。友達と楽しそうに会話をし、女性と食事に行ったりと、普通にしている佳道に憤りを感じます。
佳道の家のガラスを割って逃げる夏月。大晦日の夜、夏月は車に細工をし、ガードレールの看板めがけて突っ込んでいきます。
その瞬間、目の前に自転車の乗った人影が見えました。慌てて、ブレーキを踏む夏月。看板を避けて車は止まりました。自転車に乗っていたのは佳道でした。
夏月と佳道は、その日、互いに死のうとしていました。佳道が地元に戻ってきた理由は、両親が事故で亡くなったためでしたが、実のところは、もう一度やり直そうと考えたからでした。
両親の訃報に「俺がこういう人間だと知る前に死んで良かった」と、どこかホッとした自分に、変われるはずもないと諦めたことを告白する佳道。
夏月はそんな佳道を誰よりも理解していました。「私たちは命の形が人と違ってる。地球に留学しているみたい。ひとつひとつ自分には傷付くことが、皆には楽しいことなの。一度でいいからそういう風に生きてみたかった」。
夏月の言葉をまるで自分の言葉のように感じる佳道。2人は次第に必要不可欠な存在へとなっていきます。
「この世界で生きて行くために、手を組みませんか」。佳道のプロポーズを受ける夏月。そこに、愛は存在していませんでした。
映画『正欲』の感想と評価
柴田錬三郎賞を受賞し、発行部数は50万部を突破した話題作、朝井リョウの『正欲』が映画化されました。
人に理解されない性癖を持つがために、自分を隠しバレないように暮らす者たち。そして、自分が理解できないものには目を瞑り、理解しようとすらしない者たち。
圧倒的に相いれない者同士が、多様性を認めようと盛んに求められる時代に共存することは可能なのでしょうか。
主な登場人物は5人。それぞれが生きる上で問題を抱えています。エリート検事の寺井啓喜は、息子の不登校が原因で妻とは喧嘩ばかり。
同級生の桐生夏月と佐々木佳道は、水フェチを隠して生きてきました。後に、同じ性癖のある諸橋大也と出会います。大学生の神戸八重子は、男性恐怖症を患っています。
水フェチと括れば、なんら危機感を覚えるほどの性癖には思えませんが、夏月らの水に対する異様なまでの執着は、紛れもなくセクシュアルマイノリティと言えます。
それは、LGBTQ+、性の多様性にも当てはまります。水以外に性的感情を抱けない、Aセクシャル。恋愛と性的感情は必ずしも一緒ではなく、人に対して恋愛感情が無いという人もいます。
夏月と佳道、大也は、人には理解されず、誰とも分かち合うことなく孤独に生きてきました。「誰にもバレないように無事に死ぬために生きてる」。そんな台詞に胸が痛みます。
夏月と佳道は、中学時代に見つけた同じ性癖の持ち主として、互いにどこか心の支えにしていました。再会して確かめ合った2人の絆は強いものとなりましたが、そこに恋愛感情はありません。
しかし、やっと得られた安堵の地に、人並の幸せを感じる2人。明日を生きてみたいと思える自分に出会えそうな矢先、事件に巻き込まれてしまいます。
観る者は始め、寺井啓喜が一番まともに見えるはずです。検事という立場から言う事は正しく、子供に学校に行ってほしいと願う中、動画配信を始めるという妻と子を理解に苦しむも止めることはしません。
のちのち、それは啓喜が自分に理解できないものを社会のバグだと思っていたことが分かります。理解しようと努力することをしない人でした。
映画では、夏月の心情を水音で表現しているシーンがいくつかあります。同級生の佳道が帰ってきた時の「ぴちょんぴちょん」というわずかな水滴。
佳道が女性とデートをしている現場を見た時の、ドクドクとうねる水流。佳道がいなくなってしまうかもしれない、ブクブクブクを沈んでいく水中音。
色もなく、形も定まらない「水」というものへの執着は、欲にまみれた、どす黒いイメージとはかけ離れていて、まさに「正欲」に思えてきます。
心を通わせた夏月と佳道が、滝を見に行くシーンや、公園の噴水で戯れるシーンは、官能的な中にも清潔感があり、新垣結衣と磯村優斗だからこそなせる業だと感じました。
まとめ
人に理解されない性癖を持つ者の苦悩と葛藤を描いた衝撃作、朝井リョウの同名小説を映画化した『正欲』を紹介しました。
多様性を認めようと声高に言われる昨今であっても、理解されない苦しみに生き辛さを感じている人がいるということを忘れちゃいけないと感じました。
一方、底知れない性的嗜好を止められず犯罪を犯す人もいるという現実。多様性を認めるということは、理解しようと努力をしたうえで、自分で判断をすることなのではないでしょうか。