映画『草間彌生∞INFINITY』は2019年11月22日(金)より、WHITE CINE QUINTOほか全国ロードショー!
70年以上に渡り独自の芸術を表現し続け、2016年TIME誌の「世界で最も影響ある100人」にも選出された、日本を代表するアーティスト・草間彌生。
彼女はまだ無名で若かった頃、決意を秘めて単身渡米し、NYで芸術活動を開始します。しかし当時NYの画壇には、まだ男女格差や人種差別が色濃く残っていました。
過酷な環境で孤軍奮闘し、やがて精神的にも追い込まれていく草間彌生。しかし彼女は、あらゆる苦境を乗り越えて創作活動を続け、世界的な評価を獲得します。
今まで知られてこなかった天才芸術家・草間彌生の軌跡が今、アメリカの女性ドキュメンタリー作家の目を通して紹介されます。
CONTENTS
映画『草間彌生∞INFINITY』の作品情報
【公開】
2019年11月22日(金)(アメリカ映画)
【原題】
KUSAMA:INFINITY
【監督・脚本】
ヘザー・レンズ
【出演】
草間彌生ほか
【作品概要】
現在世界で最も人気のある前衛芸術家、草間彌生の姿を描いたドキュメンタリー映画。
映画は草間彌生の少女時代から、単身渡米しNYで活動していた時の姿など、多くの人にとって初めて知らされる、意外な彼女の姿を紹介していきます。
それは苦難と挫折、不当な扱いと中傷に苦しみ、ついには強迫神経症に侵されてしまう、非常に困難に満ちた道のりでした。しかし彼女はそれらを乗り越え、世界から正当な評価を勝ち取り、現在の地位と人気を手にします。
孤高の女性アーティストの知られざる姿が、今明らかにされます。
映画『草間彌生∞INFINITY』のあらすじ
1929年長野県松本市で、4人兄弟の末っ子として生まれた草間彌生。幼くして幻覚を見て自我を失う体験に遭遇し、その頃から水玉や網目を用いた幻想的な絵画を描き始めます。
地元の名家で育った草間ですが、両親は彼女の創作活動に理解を示しませんでした。この頃の体験が後の彼女の創作活動と人生に、極めて大きな影響を与えます。
アメリカを代表する女流画家ジョージア・オキーフの作品に出会った草間は、彼女に深く傾倒します。また理解者を得て、1952年に地元・松本で初の個展を開きました。
彼女がオキーフに手紙を送ると、嬉しいことに返事が送られてきます。それは彼女に芸術界の中心である、都会での活動を薦めるものでした。
この言葉に力づけられた草間は、NYに向かう事を決意します。渡米前に彼女は、向こうで今以上に良い絵が描けるはずだと信じ、書きためた2000枚の絵を河原で焼き捨てます。
1957年に渡米した彼女は、飛行機から目にした太平洋の光景をモチーフに絵画「パシフィック・オーシャン」を創作。それは水玉と並んで草間の代表作となる、“無限の網”が誕生するきっかけとなりました。
NYで活動を開始した草間ですが、当時の画壇は男性優位の時代、女性は画廊に入る事すら出来ませんでした。そこで彼女は東洋人女性である事をアピールし、パトロンを得ようと行動します。
こうして理解者やパートナーを得た彼女は、1959年にNYで初の個展を開きます。立体作品や空間を使った展示方法、鏡や電飾を使った革新的アート作品を次々と発表する草間。
1960年代後半にはベトナム反戦運動に参加、“裸のハプニング”と呼ばれるパフォーマンスを行います。ヴェネツィアの国際美術展覧会“ヴェネツィア・ビエンナーレ”へのゲリラ参加、映画『草間の自己消滅』の製作・出演など、世間を騒がす前衛芸術家として注目を集めます。
しかし当時は、女性芸術家には余りに厳しい時代でした。草間の作品は他のアーティストの創作に刺激を与えても、作品自体は正当に評価されません。
また彼女の過激なパフォーマンスは、70年代に入り世の中が保守化すると、特に故郷・日本から激しいバッシングを受けます。精神的にも追い詰められた彼女は、自殺未遂を起こします。
1973年、やむなく日本に帰国した草間。しかし日本の美術界に、彼女の居場所はありませんでした。強迫神経症を患った彼女は、自ら入院しそこを活動の拠点とします。
日本では誤解され、NYでは忘れ去られ、70年代後半から80年代にかけて、美術界の表舞台から消え去った草間彌生。
しかし、やがて草間彌生を再評価しようとする機運がNYでも日本でも高まります。1989年にNYで回顧展「草間彌生」が開かれ、1993年の“ヴェネツィア・ビエンナーレ”に彼女は日本代表として参加します。
そして現在彼女の作品は、あらゆる文化圏の、あらゆる世代に受け入れられているのです。
映画『草間彌生∞INFINITY』の感想と評価
女性アーティストの先駆者・草間彌生
前衛芸術家・草間彌生。彼女の作品を知らなくても、その風貌だけはご存知という方も多いのではないでそうか。
今や国内外で人気を誇る草間彌生ですが、現在の知名度を形成した直接の出発点は、この映画でも紹介されている1989年NYでの回顧展「草間彌生」と、1993年の“ヴェネツィア・ビエンナーレ”です。
しかしそれ以前のイメージは、ヌードパフォーマンスなどの“ハプニング”などで週刊誌などメディアを賑わせたお騒がせ芸術家。これは“出る杭は打たれる”日本だけではなく、1969年米デイリー・ニュース紙は、見出しで「これは芸術か?」と問いかけの記事を書いています。
意外な所では、モンド映画で有名なグァルティエロ・ヤコペッティが、1971年に製作した『ヤコペッティの残酷大陸』の劇中で、彼女のハプニング・パフォーマンスを紹介しています。
こういった活動で1970年代は、ストリーキングやボディペインティング・パフィーマンスなど、スキャンダラスな印象で世間から知られていた草間彌生。
しかしそれ以前の1960年代、彼女は女性に活躍の場が無かったNYの画壇で、ただ1人奮闘する日本人女性アーティストとして活躍していたのです。
草間彌生の孤独な闘いを追う
『草間彌生∞INFINITY』の監督は、ヘザー・レンズ。彼女はアーティストやクリエイターの人生に焦点を当てたドキュメンタリーを多数製作している監督です。
最初に草間彌生に興味を持ったのは、彼女が学生時代に美術史を学んだ1990年代の初期。当時入手できる資料は、草間彌生を特集したカタログ一冊だけでした。
草間彌生の作品が明らかに、アメリカの美術界に多大なインスパイアを与えた貢献…厳しい表現を使えば流用された…という事実に気付いたヘザー・レンズ。
更に草間彌生の人生を詳しく知り、多くの人に彼女のストーリーと作品を知ってもらうべく、今から10年前にこの映画の製作を開始します。
予算面で苦労していたヘザー・レンズは、製作開始から数年後に、日本語教育に携わるアメリカ人教師・大学院生の日本研修を支援する非営利団体の奨学金制度を利用し来日。草間彌生への初インタビューを実施します。
こうして長い時間をかけ完成したドキュメンタリー映画が、『草間彌生∞INFINITY』です。監督が何に興味を持って彼女を紹介したのかは、作品を見ると明白になります。
そして映画が製作されている間にも、草間彌生の知名度は世界でどんどん高まっていきました。
草間彌生と故郷・松本
草間彌生という才能豊かで複雑な人間を産んだのは、彼女が育った松本市での家族との関係が大きな影響を与えています。
地方の名家であった家族からの束縛を逃れながら、創作に打ち込んだ草間彌生。しかし最初に彼女の作品を評価したのも、地元松本の理解ある人物でした。
彼女が芸術の世界で大きく羽ばたくには、愛憎様々な出来事を経験した松本から出てゆく必要がありました。彼女を育み、同時にNYへと駆り立てたのは間違いなく故郷だったのです。
当時男性優位、人種差別の風潮が強かったNYの美術界で、成功を求めた彼女は計画的に、斬新かつ過激なパフォーマンスを行います。
しかし当時の彼女は好奇の対象でしかなく、正当な評価の対象にはなりませんでした。日本にも伝わった草間の言動は、面白おかしく“国辱”と報じられ、彼女は心身ともに傷付きます。
日本に帰国後、心穏やかに過ごせる環境を得て、ようやく彼女は落ち着いた創作に打ち込めるようになります。
そして彼女が再評価され始めた後の2002年、松本市に美術館が開館されます。故郷の人々はこの美術館を、「彼女の作品を体感できる場所」へと育てあげます。
こうした松本市での評価を、「故郷に錦を飾る事ができた」と語る草間彌生。映画が紹介する彼女の人生の物語も、興味深く心を打つものです。
まとめ
知ってるようで知らない、世代によって印象が異なる存在の草間彌生。
しかし多くの日本人が知らない、彼女の苦難の前半生を改めて教えてくれる作品が、『草間彌生∞INFINITY』です。
これは日本から遠く離れたアメリカで彼女を発見した、女性ドキュメンタリー映画監督ヘザー・レンズならではの視点といえます。
70年代前後の日本映画は、『ゴジラ対ヘドラ』に代表される様々な娯楽映画にも、NYのビート・ジェネレーションから生まれたヒッピー文化・アングラ文化の大きな影響がありました。
それを日本に知らしめた人物が草間彌生であったことはもちろん、当時の彼女がどのような扱いを受けていたのかを改めて教えてくれる興味深い作品です。
映画『草間彌生∞INFINITY』は2019年11月22日(金)より、WHITE CINE QUINTOほか全国ロードショー!