ヒトラーを真っ向から笑い者にしたチャップリン映画最大のヒット作
“喜劇王”チャールズ・チャップリン監督・主演の、1940年製作の映画『チャップリンの独裁者』。
製作時にヨーロッパで猛威を振るっていた、ナチスドイツのアドルフ・ヒトラーを痛烈に批判し、大きな話題となりました。
CONTENTS
映画『チャップリンの独裁者』の作品情報
【日本公開】
1960年(アメリカ映画)
【原題】
The Great Dictator
【製作・監督・脚本】
チャールズ・チャップリン
【撮影】
カール・ストラス、ローランド・トザロー
【音楽】
メレディス・ウィルソン
【キャスト】
チャールズ・チャップリン、ポーレット・ゴダード、ジャック・オーキー、ヘンリー・ダニエル、レジナルド・ガーディナー、ビリー・ギルバート、カーター・デ・ヘイヴン
【作品概要】
“喜劇王”チャールズ・チャップリンが監督・主演のほかに製作・脚本を務めた、1940年製作のアメリカ映画。製作時に、オーストリア併合やポーランド侵攻、ユダヤ人虐待を行っていたナチスドイツのアドルフ・ヒトラーを、コミカルかつ痛烈に批判。チャップリンが、ヒトラーを模した独裁者ヒンケルとユダヤ人理髪師の2役を演じます。
フィルモグラフィ的に初の完全トーキー映画として製作され、チャップリン映画史上で最高の興行成績を記録。日本では、製作時点ではドイツと同盟関係にあったため、終戦後の1960年に公開されています。
映画『チャップリンの独裁者』のあらすじとネタバレ
参考映像:『チャップリンの独裁者』の1シーン
1918年の第一次世界大戦。
ユダヤ人で理髪師のチャーリーは、トメニア国の二等兵として全線で戦っていました。
彼は偶然、トメニア空軍将校のシュルツを救出するも、その際の飛行機事故により記憶喪失となってしまいます。
それから約20年、チャーリーは病院で過ごす間にトメニアでは政変が起こり、アデノイド・ヒンケルが独裁者として君臨、帝国主義を掲げて、国中のユダヤ人への弾圧を強めていました。
病院を出たチャーリーは、ユダヤ人街にある自宅兼理髪店に戻るも、街中にいたヒンケル突撃隊の兵士に反抗。
あわや吊るし首にされる寸前、彼がかつて命を助けた司令官のシュルツに救われます。
シュルツは、チャーリーたちが暮らすユダヤ人街には手を出さないよう部下に命じるのでした。
その頃ヒンケルは、隣国オーストリッチへの侵略を画策。
軍資金を調達すべく、ユダヤ系の金融資本から融資を受けようと、ユダヤ人弾圧を控えることに。
部隊兵たちの対応が優しくなったことを受け、近い将来平穏な日常が訪れるのではと思ったチャーリーは、親しくなった隣人女性のハンナとデートに繰り出します。
ところがその直後、ユダヤ側から資金援助を断られ、激怒したヒンケルによるユダヤ人迫害が命じられてしまいます。
ヒンケルに異議を唱えたシュルツは更迭され、強制収容所へ連行されるも脱走し、チャーリーのいるユダヤ人街へと身を潜めます。
しかし、ヒンケルの命で突撃隊がユダヤ人街を襲い、チャーリーとシュルツは囚われの身に。
ハンナと彼女の両親、そして街の住人たちはオーストリッチに逃げます。
しかし、世界征服を野望とするヒンケルは、同盟国バクテリアの指導者ナパロニの忠告を聞かず、手始めとしてオーストリッチ侵攻を強行。
オーストリッチで新生活を始めようとしていたハンナたちは、再びヒンケル突撃隊による暴行を受けてしまうのでした。
映画『チャップリンの独裁者』の感想と評価
参考映像:『チャップリンの独裁者』の製作舞台裏ドキュメンタリー
チャップリン映画初の完全トーキー作品
チャールズ・チャップリンは当初、前作『モダン・タイムス』(1936)で共演し、実生活では3人目の妻(未入籍だったとも云われる)だったポーレット・ゴダード主演の映画を撮る予定でした。
しかし、世界各国で軍国主義が台頭する中、特に勢力を増しつつあったナチスドイツを危険視。
ぞっとするほどグロテスクな男、アドルフ・ヒトラーが狂気の沙汰に拍車をかけているというのに、どうして、女の気まぐれや、甘いロマンス、恋愛の問題などに呑気にかかずらわってなどいられようか?
『チャップリン自伝 栄光と波乱の日々』(新潮社)
として、本作『チャップリンの独裁者』製作に着手します。
でたらめなドイツ語を喋る独裁者ヒンケルと、従来の放浪紳士姿をした寡黙なユダヤ人理髪師の2役を演じることで、チャップリンはサイレント映画の要素を残しつつ、完全トーキー映画への移行を果たすこととなります。
誕生日がわずか4日違い(チャップリンは1889年4月16日、ヒトラーは同年同月20日)にして、同じく口ひげをトレードマークとした狂気の独裁者に、チャップリンは笑いで闘いを挑んだのです。
製作中止の圧力に屈せず
参考映像:『チャップリンの独裁者』のメイキング映像(カラー)
しかしその当時、輸出産業に頼っていたハリウッド映画は、海外市場の中でも巨大規模とされていたドイツの顔色を伺うかのように、本作の製作に反発。
当時まだ中立国だったアメリカでは、ヒトラー支持者や親ナチ勢力も少なくなかったという状況にあったため、チャップリンに脚本の修正を要求すれば、チャップリンの母国にしてドイツと同盟国だったイギリスまでもが、製作に難色を示します。
しかし、彼の決意は変わりませんでした。
イギリスの事務所からも、反ヒトラー映画を非常に懸念しており、イギリスで上映できるかどうかわからないと言ってきた。だが私は断固進める決意だった。なぜなら、ヒトラーは笑い者にされなければならなかったからだ。
『チャップリン自伝 栄光と波乱の日々』(新潮社)
チャップリンが、“世紀の6分間”と呼ばれることとなるラストの演説シーン以外の撮影を終えた頃、ドイツはポーランド侵攻を皮切りに、西部戦線への総攻撃を開始します。
まとめ
参考映像:『チャップリンの独裁者』のラストシーン
チャップリンは、1940年6月22日にフランスがドイツに降伏したその翌日から、“世紀の6分間”のシーンを撮影し、ようやく本作『チャップリンの独裁者』が完成。
同年10月から公開されるや否や、ヒトラーの正体をようやく知ったアメリカ、イギリスなどで大ヒットし、チャップリン映画の中でも最大の興行成績を収めました。
観客は、徹底的にマヌケ扱いされるヒンケル(ヒトラー)の姿に笑い、チャップリンの平和への願いを込めたラストの演説を称賛したのです。
一方で、本作を「好戦的」とみなす保守派の見解や、チャップリンが込めたメッセージを「共産主義者の考え」だとする反共・右翼団体からのバッシングが噴出。
そうした声は、次作『チャップリンの殺人狂時代』(1947)で一気に高まることとなります。