アンヌ、19歳。パリに住む哲学科の学生。そして恋人はゴダール!
ジャン=リュック・ゴダールのミューズで、2番目の妻でもあり、ゴダール監督作品『中国女』にて、主演を務めたアンヌ・ビアゼムスキーの自伝的小説を映画化。
演出は『アーティスト』(2011)のミシェル・アザナビシウス監督が務めました。
ゴダールと一緒に時代を駆け抜けたアンヌの知られざる日々をユーモアと共に描く『グッバイ・ゴダール!』をご紹介します。
映画『グッバイ・ゴダール!』の作品情報
【公開】
2018年(フランス映画)
【原題】
Le Redoutable
【監督】
ミシェル・アザナビシウス
【キャスト】
ルイ・ガレル、ステイシー・マーティン、ベレニス・ベジョ、ミーシャ・レスコ、グレゴリー・ガドゥボワ、フェリックス・キシル、アルトゥール・アルシエ
【作品概要】
ジャン=リュック・ゴダールの2度目の妻で、『中国女』の主演を務めたアンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝的小説を『アーティスト』(2011)のミシェル・アザナビシウス監督が映画化。激動の時代を駆け抜けたゴダールとアンヌの愛とその破局をコミカルなタッチで描く。
映画『グッバイ・ゴダール!』のあらすじ
19歳のアンヌ・ヴィアゼムスキーの人生は、映画監督ジャン=リュック・ゴダールと出逢ったことで、大きく変化しました。
哲学を学ぶ一学生だった彼女が彼の新作『中国女』の主演女優に抜擢されたのです。
ゴダールとアンヌは恋人同士でした。初めは彼がアプローチ。アンヌもすぐに彼を好きになり、偉大な映画監督だと尊敬していました。
同棲生活のあと、ゴダールからのプロポーズを受け、二人は結婚します。
ノーベル文学賞受賞作家フランソワ・モーリアックを祖父に持つアンヌと、ヌーヴェルヴァーグを代表する監督の一人であるゴダールの結婚は恰好のゴシップとなり、『中国女』の記者会見なのに、記者からの質問は結婚のことばかり。
二人で映画に行けば仲睦まじく肩を寄せ合い、文化人の新しい仲間たちとの付き合いは刺激的なことばかり。アンヌには毎日が輝いて見えました。
『中国女』の試写会の評判は芳しく無く、ゴダールは落ち込みます。
時は1968年。街では若者たちが革命を叫び、ゴダールも学生や労働者とともに、デモに参加することが増えていきました。そんな時でも様々な人がゴダールを見つけて声をかけていくのでした。
学生が主催する討論会に姿を見せると、目ざとくみつけた学生たちに言葉を求められます。しかし、彼のことをブルジョワのインチキ野郎と罵る者もいました。
デモをする学生や市民に対し、警察は暴力を振るい、デモに参加していたゴダールはその騒動に巻き込まれ、何度も眼鏡を破損する羽目に。
アンヌは友人の映画プロデューサーのミシェル・ロジエたちからカンヌ国際映画祭へ行こうと誘われ、彼らとともにカンヌへでかけますが、ゴダールは、フランソワ・トリュフォー、アラン・レネ、クロード・ルルーシュらと共にカンヌに乗り込み、映画祭を中止させます。
政治の時代。ゴダールは映画よりも政治運動へと、どんどん傾倒していきました。
パリに戻ったゴダールは、ゴダールは死んだと告げ、ル・モンド誌のジャン=ピエール・ゴラン等とともに“ジガ・ヴェルトフ集団”を結成します。
ベルナルド・ベルトルッチから誘われたローマでの映画会議にアンヌを連れて出席するも、ゴダールは自説を譲らず、ベルトルッチを怒らせ、絶交してしまいます。
古くからの友人たちも傷つけ、どんどん孤立していくゴダールを心配するアンヌ。そんな折、イタリアの奇才マルコ・フェレーリ監督からアンヌを主役に映画を撮りたいとオファーが来ます。
ゴダールは“ジガ・ヴェルトフ集団”の撮影にアンヌを連れて行きたがりましたが、アンヌの意思を尊重し、二人は離れてそれぞれの映画に携わることになります。
映画『グッバイ・ゴダール!』の感想と評価
ゴダールが未だにバリバリの現役で作品を発表し続けているという状況にあって、彼の若かりし頃の恋愛模様を映画化するだなんて少々悪趣味でスキャンダラスな作品なのでは?と恐る恐る、劇場に足を運びました。
ゴダール自身は決して観たくない作品だろうということは間違いありませんが、想像していた露悪的な作品ではなく、とてもチャーミングな作品に仕上がっていました。
原作は、アンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝的小説。アンヌ・ヴィアゼムスキーといえば、ゴダールの『ワン・プラス・ワン』(1968)で、機関銃を抱えて立っているショットが印象に残っています。
『中国女』(1967)は80年代、日本でリバイバルロードショーされた時に劇場で観ましたが、なにやら訳がわからないながらも滅法面白くわくわくさせられたことを覚えています。
1968年の五月革命前後にこれらの作品が制作されました。
その頃、ゴダールは政治運動に傾倒していきますが、誰も彼を歓迎していないという悲劇性が、頻繁に眼鏡が壊れるというユーモア溢れるエピソードを重ねながら描かれます。
学生や労働者からはブルジョア左翼と敵視され、一方、映画界でも敵を作り続けます。そんなゴダールを一番近くで観ていたのがアンヌで、アンヌの「ゴダール観察日記」という側面も本作は持ち合わせているでしょう。
アンヌに扮するステイシー・マーティンは、本物のアンヌ・ヴィアゼムスキーにはそれほど似ておらず、どちらかといえば『男性・女性』(1966)のシャンタル・ゴヤに似た雰囲気を纏っています。
自分が敬愛していたゴダールがゴダールでなくなっていく(彼はゴダールの名前を捨てさえします)、そうした様相に戸惑いながらも、我慢強くパートナーであり続けた彼女が、彼の元を去るきっかけとなったエピソードが印象的です。
イタリアで撮影をしている彼女のもとに不機嫌そうにやってきたゴダールは激しい嫉妬心を抱いて喧嘩をふっかけますが、その中で、アンヌに言うのです。「ついに俳優になってしまったな」と。
単なる学生だった小娘が、俳優として一人前になっていくことを喜ばず、つまらない俳優などというものにお前も成り下がったかと言う意味で彼は発言したのです。
映画の序盤でゴダールが、俳優に対するかなり辛辣な言葉を発している場面があるのですが、こうしたところにゴダールという人の複雑さ、厄介さがあるのでしょう。
このときのゴダールは夫婦喧嘩の典型のような、心にもないことでもとにかく罵って言葉にし続け、いろんな言葉がアンヌを悲しませたでしょうが、決定的だったのはこの「俳優発言」だったのではないでしょうか。
しかし、アンヌがゴダールと別れるのはこの事件よりもう少しあとになります。
ラスト、”ジガ・ヴェルトフ集団“の映画を撮影中のアンヌが映し出されますが、髪が伸びたアンヌはなにかとてもさっぱりとした顔つきをしています。
一方のゴダールは「映画」と「政治」どちらかを選べと周りから迫られ、応えられず、妥協せざるをえません。
弱くて悲しい天才像と若く凛としたアンヌとの対比が、なんだか泣き笑いのように、画面に焼き付けられ、そこはかとない悲しみと、不思議な可笑しみを醸し出していました。
まとめ
ゴダールに扮するのはルイ・ガレル。ゴダールを崇拝する彼は、役のオファーがあった時、「とても演じられない!」と思ったそうです。
ルイ・ガレル扮するゴダールが冒頭、映画の撮影中に見せる一瞬の笑みがとてもチャーミングです。ゴダールってこんなふうに笑っていたのかしら、笑顔ってあまり観たことないのですけれど。
気難しくて頑固な天才、それでいて弱くてすぐに自信が揺らいでしまう孤高の天才を、ルイ・ガレルは、軽やかに、大胆に演じています。
監督のミシェル・アザナビシウスは、ゴダール映画のカラーをふんだんに使い、オマージュかはたまたパロディかというシーンをいくつも創造し、楽しませてくれます。
カール・テホ・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』にゴダールとアンヌの台詞を重ねたり、手持ちカメラで自分の頭を撃ち抜く仕草をゴダールがする場面があったり。
カンヌからの帰り道、車の中で繰り広げられる喧嘩のシーンは抱腹絶倒です。
監督自身は「ゴダールはテーマでもないし、伝記映画でもない。まぎれもないラブストーリーを描きたかった」と語っているように、本作は普遍的なラブストーリー〈または夫婦映画〉としてゴダールを知らない人にも楽しめる作品に仕上がっています。
しかし、ゴダールとその時代への憧れが、ミシェル・アザナビシウスが映画を撮った最大の理由ではないでしょうか?
かっこ悪いゴダールを描きながらも、そこには強烈なリスペクトが感じられるのです。
失礼を承知でいろいろ撮らせてもらいましたけれど、私はあなたが大好きです、という複雑なラブレターのような作品なのではないでしょうか。