連載コラム『君たちはどう観るか』第3回
『風立ちぬ』(2013)を最後に「長編アニメーション作品の制作からの“引退”」を表明した宮崎駿が、「宮﨑駿」に改名して挑んだ映画『君たちはどう生きるか』。
奇想天外な世界観やストーリー展開の他、宮﨑監督が「宮崎駿」として生きてきた半生を振り返るかのような自伝的要素も盛りだくさんなその内容は、早くから観客の間で賛否両論の嵐を巻き起こしています。
本記事では、映画の主人公・眞人を「下の世界」へと誘ったキャラクター「覗き屋のアオサギ」についてクローズアップ。
アオサギのキャラクター像から見えてくる「不死鳥」「日本神話の謎多き神」としての姿、そして“漫画の神様”の生涯の代表作に対するパロディキャラクターとしての一面などを考察・解説していきます。
CONTENTS
映画『君たちはどう生きるか』の作品情報
【日本公開】
2023年(日本映画)
【原作・監督・脚本】
宮﨑駿
【主題歌】
米津玄師:『地球儀』
【製作】
スタジオジブリ
【声のキャスト】
山時聡真、菅田将暉、柴咲コウ、あいみょん、木村佳乃、木村拓哉、竹下景子、風吹ジュン、阿川佐和子、大竹しのぶ、國村隼、小林薫、火野正平
映画『君たちはどう生きるか』アオサギを考察解説!
アオサギは国津神「サルタヒコ」?
映画『君たちはどう生きるか』の主人公・眞人を異形の蔓延る「下の世界」へと誘い、大叔父に下の世界の“案内”をするように命じられた「愚かな鳥」ことアオサギ。
なお現実に存在する青鷺(アオサギ)という鳥は、エジプト神話では「太陽を卵から孵した聖鳥」にして「炎で焼かれようとその灰より蘇る不死鳥」でもある「ベヌウ」のモチーフとしても知られています。
また映画作中で描かれる設定の多くは、映画の原案の一つとされる小説『失われたものたちの本』に登場する「ねじくれ男」がオマージュ元ではと考えられていますが、作中では眞人と喧嘩ばかりだったアオサギが、映画のラストでは“友だち”と眞人を評したことから「アオサギの正体は、宮﨑監督の長年の盟友だった高畑勲では」という考察も上がっています。
一方で、アオサギが“人型の姿”を見せた時の最大の特徴「巨大な鼻」と、アオサギが大叔父から命じられた“案内”という役目から、日本神話に登場する神「サルタヒコ」を思い出した方は多いはずです。
『古事記』および『日本書紀』作中の「天孫降臨」のエピソードにて、高天原を統べる太陽神アマテラスの命のもと葦原中つ国へと向かっていたニニギが遭遇した国津神(高天原の神=天津神への「国譲り」以前に葦原中つ国に存在していた神々)であり、ニニギら一行を“道案内”したというサルタヒコ。
「巨大な鼻」は天狗の“鼻”伝承の原型の一つとなったのではとされ、「目が赤酸醤(ホオズキ)のごとく輝き、高天原から葦原中つ国まで照らすほどだった」という描写から「国津神における“太陽神”だったのでは」という説もあるものの、日本神話の中でも特に多くの謎が秘められた神の一柱としても知られています。
「巨大な鼻」「案内の役目」から見えてくる、アオサギの“案内役”の神サルタヒコとしての顔。そして「サルタヒコの正体が“太陽神”なのでは」という説も「太陽を孵した不死鳥べヌウのモチーフ」という青鷺の伝承と重なってくるのです。
“大きな鼻”の“不死鳥”アオサギは『火の鳥』?
「サルタヒコ」と「不死鳥」。この二つのキーワードを聞いて、宮﨑駿監督が「宮崎駿」であった頃と深い関わりを持つ人物と、その人物の代表作……「漫画の神様」こと手塚治虫と、彼が遺したシリーズ大作漫画『火の鳥』を連想した方も多いはずです。
『火の鳥』は、手塚が「自身のライフワーク」として生涯執筆し続けたシリーズ大作漫画であり、時空を超えてあらゆる時代・場所に姿を現す不死鳥「火の鳥」と、「その血を飲めば不死となる」という火の鳥の伝説に翻弄される人間をめぐる物語を描いた作品。
その作中に登場する火の鳥は、手塚曰く「ストラヴィンスキーの『火の鳥』に登場する火の鳥の精」がモチーフとされ、優美さと荘厳さを持つ姿で描かれています。
対して『君たちはどう生きるか』に登場するアオサギは、エジプト神話の不死鳥ベヌウのモチーフとなった鳥である青鷺の姿を持ちながらも、その正体は巨大な鼻を擁する異形であり、青鷺の姿に化けている時でさえも「青鷺は不死鳥伝説のモチーフ」「アオサギの正体は『不死鳥』だ」とは信じたくないほどに仕草の一つ一つが不気味に描かれています。
『火の鳥』を連想させる「サルタヒコ」「不死鳥」という要素を持ちながら、なぜアオサギは手塚の描いた美しき火の鳥とは全く異なる“不気味な異形”として表現されたのでしょうか。
「美しき不死鳥」というイメージへの皮肉
小中学生の頃に手塚の初期漫画作品と出会い、その「悲劇性」に子どもながら魅力を感じたという宮崎駿。東映動画(現・東映アニメーション)に入社する以前、漫画家を目指していた頃も「いかに手塚治虫の影響から抜け出すか」に悩まされ、それは漫画版『風の谷のナウシカ』にも見られると自ら語っています。
また漫画史における偉大さを評価する一方で、手塚が手がけていたアニメーション制作に対する持論や実際に手がけてきた作品群、そして後期漫画作品における初期作品から変質してしまった「悲劇性」に対しては非常に否定的だったことでも知られている宮崎駿。
そして手塚も、漫画版『ナウシカ』の手塚賞選考をめぐるエピソードをはじめ、宮崎駿の才能を認めた上で“嫉妬”していたことも有名な逸話として知られ、両者の関係性には少なからず確執が……お互いに対し創作者としてコンプレックスを抱いていたことは十分に窺えます。
『君たちはどう生きるか』では、原案とされる小説『君たちはどう生きるか』と『失われたものたちの本』をはじめ、宮﨑監督が「宮崎駿」であった少年時代に感動した作品の要素が様々な形で盛り込まれています。
その中で宮﨑監督は、のちに確執ある関係に至ったものの、自身に多大なる影響を与えた人間の一人であることは明らかな手塚治虫の代表作『火の鳥』の要素も、映画に盛り込んだのではないでしょうか。
しかしながら、それは既存の作品への敬意を前提とする“オマージュ”というよりも、既存の作品への皮肉も交えられた“パロディ”なのかもしれません。その証こそが、手塚が描いた火の鳥という不死鳥とは似ても似つかない、異形の不死鳥アオサギの容姿や、人間以上に人間臭い振る舞いなのです。
「世界の秘密」──永遠の空想へ誘う鳥
しかし、アオサギの存在がが手塚治虫の代表作『火の鳥』に対する皮肉交じりのパロディであったとしても、それは「宮﨑監督は手塚に対して敬意の念はない」とイコールではありません。
手塚は1971年、雑誌『COM』に掲載された短編漫画『火の鳥 休憩 INTERMISSION』にて、自身が『火の鳥』という作品をどう捉えているのかについて語っています。
手塚自身が見た夢を通じて空想した宇宙と生命の仕組み……「生命とは、宇宙のあらゆる事象を構成する膨大なエネルギーが刹那の瞬間に持った、仮の姿に過ぎないのでは」という空想と、「その空想を描くために、火の鳥の力を借りている」という自身が『火の鳥』を描く理由。
同作からは、自身の創作表現を通じて「世界の秘密」に触れるための“案内役”として、手塚が火の鳥とその物語を描き続けていたということが理解できるのです。
そして宮﨑監督も「アニメーションというのは『世界の秘密』を覗き見ること」と「宮崎駿」時代に語っており、漫画とアニメーションという表現手法は違えども、両者には創作表現を続ける共通の理由……「『世界の秘密』を覗き見る」という目的があったといえるのです。
アオサギの「覗き屋」というアダ名も、宮﨑監督の「アニメーションというのは『世界の秘密』を覗き見ること」という自身の言葉に基づくものであり、手塚が描いた火の鳥もまた、あらゆる人間の営みを観察する「覗き屋」としての一面を持ち合わせています。
人間を「世界の秘密」という果てしない空想へと誘う鳥……自身と同じ空想に取り憑かれた手塚が空想の“案内役”として生み出した「火の鳥」というキャラクターに対し、病により60歳という若さで空想からの「引退」を強いられた手塚への敬意と、ほんの少しの皮肉が入り混じった返答として、現在82歳の宮﨑監督は「覗き屋のアオサギ」を生み出したのではないでしょうか。
まとめ/人生を狂わせた空想と「友だち」になる
「覗き屋のアオサギ」から見えてくる、『火の鳥』のパロディキャラクターとしての一面と、「世界の秘密」という同じ空想に取り憑かれた手塚治虫に対する敬意と皮肉。
宮﨑監督が『君たちはどう生きるか』で「宮崎駿」から「宮﨑駿」に改名したのも、引退作にあたる前作『風立ちぬ』以前の自身からの脱却という理由はもちろん、火の鳥の“転生”も意識していたのかもしれません。
なお、アオサギと火の鳥という不死鳥たちには、その容姿や性格など以外にも決定的な違いがあります。それは『君たちはどう生きるか』の最後で、アオサギは人間である主人公・眞人の「友だち」になるという点です。
「世界の秘密」という人間の果てしない空想の“案内役”であり、「愚か」の一言で形容される人間の空想そのものを象徴する存在ともいえるアオサギ。そんなアオサギと「友だち」になるということは、いわば「空想との和解」とも受け取れます。
「世界の秘密」という空想に取り憑かれ、その生涯を漫画を通じて空想を続けることに費やした手塚治虫と、同じ空想に取り憑かれ、すでに晩年期と呼べる年齢にまで至った宮﨑監督。両者は端から見れば「空想に人生を狂わされた者」といっても過言ではないでしょう。
しかし、それでも宮﨑監督は「空想」と呼ばれるものを「自分の人生を狂わせたもの」ではなく、幾度も喧嘩をしようとも最後は和解できる「友だち」として描きたかったのではないか。それこそが、「アオサギと眞人がお互いを『友だち』として認める」という結末に込められた意図の一つだったのかもしれません。
編集長:河合のびプロフィール
1995年生まれ、静岡県出身の詩人。
2019年に日本映画大学・理論コースを卒業後、映画情報サイト「Cinemarche」編集部へ加入。主にレビュー記事を執筆する一方で、草彅剛など多数の映画人へのインタビューも手がける(@youzo_kawai)。