連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第53回
こんにちは、森田です。
今回は、2021年2月20日(土)/東京・ユーロスペース他での劇場公開後も、4月23日(金)/京都みなみ会館にて、4月24日(土)/大阪シネ・ヌーヴォにて、以降も元町映画館など全国にて順次公開予定の映画『ある殺人、落葉のころに』を紹介いたします。
「最も不可思議な湘南映画」と銘打たれ、監督みずから「歪な形をしたフィクションだがそこから立ち上がる感情は本物」だと語る本作が、どのような構造で超現実(シュルレアリスム)を描き、それを現代の物語(リアリズム)として提示しているかを解説します。
映画『ある殺人、落葉のころに』のあらすじ
舞台は大磯。地元に生まれ育ち、土建屋で働く幼馴染の俊(守屋光治)、知樹(中崎 敏)、和也(森 優作)、英太(永嶋柊吾)の4人による群像劇です。
一方、彼らの出来事を「私は覚えている」とノートに書きはじめるのは、監督本人。そしてその文章を「少し前のことだけど、今のことかもしれない」と読みあげるのは、女性の語り手です。
本作は4人と、彼らの記録者と、その記録の語り手が登場するメタフィクションの構造をもっています。また恩師の死をきっかけに崩れていく友情関係はいずれも断片的で、一見すると複雑に感じられます。
しかし、物語を動かす“ある場所”に注目すれば、“殺人”の全体像が見えるようになってきます。
地下への入り口
参考映像:『マルホランド・ドライブ』(2001)
それは「地下」です。ここを何者かが通り抜けると4人に重要な局面が訪れます。
企画書の参考作品に挙げられたというデヴィッド・リンチ監督の『マルホランド・ドライブ』(2001)にならえば、異変のまえに必ず生じる画面の閃光のようなもの。それを観察すれば作品の「鍵」がわかるわけです。
1つ目は地下道での「カツアゲ」です。和也は障害をもつ槇原(ロー・ジャンイップ)がここを通るたびにその後を追い、金を巻き上げていました。
この地下道は“夢へのちかみち”との名称で、本作をもっとも象徴する空間になります。
2つ目は恩師の未亡人・千里(堀 夏子)と俊が隧道を抜けた先の山中で重ねる「逢引き」です。不倫ではありませんが、背徳感漂う場面です。
3つ目は和也たちが山奥で産業廃棄物を不法投棄したあと、どこかでなくしたシャッターの鍵を探しに来た道を戻り、トンネルを出た先でなにかを当ててしまうという「ひき逃げ」の疑惑です。
折しも家で虐待を受けていた祖母が失踪したため、和也は夜道でひいたのは祖母ではないかと不安に駆られましたが、祖母は岸辺に打ち上げられて発見されました。
4つ目に入り口となるのはシャッターです。不法投棄で収入を得た4人が倉庫内で張った酒宴で、英太の彼女の沙希(小篠恵奈)は特別に入ることを許されます。
はじめてシャッターを“くぐる”ことができた沙希に待ち受けていたのは、和也からの不意を突かれた「セクハラ」でした。
5つ目は自転車を押して地下道を通るショットです。もうここまで追えば、不穏なことが起きるのは必至とわかるはずです。
果たして、その直後のシーンでは俊が沙希の働くカフェまで会いにいき、「口止め」をする様子が映し出されます。
そして6つ目は、ビンが坂道を転がり地下道まで入りこむという映像です。もはや画に人影さえなく、緊張はクライマックスを迎えます。
“夢へのちかみち”でまた和也から張り倒された槇原。その手の先にはビンがありました。
三澤拓哉監督からのメッセージ
以上、鍵となる地下への入り口と、その出口で漂う犯罪の気配をかぎとってきましたが、ここはすべての出来事がつながっているようで独立している歪な世界です。
あるいはこうもいえるでしょう。交わるはずのない並行世界が、地下で干渉を起こし、表層の物語にも影響を与えている、と。
各ポイントで分岐したはずのルートが交差することで、さまざまな物語が浮かび上がってきます。
タイトルデザインの「ある殺人」に二重線が引いてあるのは、あったかもしれないし、なかったかもしれないという意味です。
三澤監督は「狭いコミュニティにおけるしがらみや偏見から生じる関係性の歪みだったり、抑圧的な社会の空気を描きたい等、この映画を作る意図」があったとインタビューで述べています。
人間は類的存在である以上、集団との関わりは避けられません。問題はそれが往々にして息苦しいものになってしまう点です。
そもそも、4人はいつも一緒にいながらも、それぞれ孤独を抱えていたのはなぜでしょうか。
本作のやや複雑な構成をより深く理解するためにも、なぜコミュニティから“関係性の歪み”や“抑圧的な社会の空気”が生じるのかをつぎに分析します。
「つながり」と「しがらみ」
社会を分断する格差や、度重なる自然災害を背景に、昨今“絆”や“つながり”が強調されるようになりました。それは自助・公助・互助の文脈でも語られ話題になっています。
しかし、本作の親密さがしがらみに反転していったように、それらは手放しで称賛できるものではありません。
その変化を正確に読み取るために、人々の関係性が一般的にどのように変わっていったかを整理していきましょう。
まず、地元のつながりは、地縁に基づいた共同体といえます。
日本の戦後は「地縁共同体」の家族的・金銭的な不自由さを避けて、地方から都市へ人が集まっていった歴史だと振り返られます。
一度“自由”になった人々が、転出先で見出した関係性を「都市コミュニティ」と呼んでおきます。
しかし、都市コミュニティ(あるいは核家族)のつながりは経済によって支えられていた一面があり、ひとたび不景気になると、個々人はまた不安定な立場に置かれます。
そこで再び、安定をもたらしてくれる居場所の価値が高まり、人々はそれを想像的な空間に見いだしていきます。「ネット社会」の出現です。
一見すると、ついに“自由”を手に入れたかのように感じられますが、ネットはまた彼らを無数の物語のなかへと閉じ込めてしまいます。昨今の政治情勢をみれば陰謀論もそのひとつです。
自由と不自由のあいだで絶えず反復(反転)する関係性。ここまでみますと、“つながり”は「地縁」にも「都市」にも「ネット」にも求められないことがよくわかります。逆にいえば、それらの中にいるかぎりは、“しがらみ”から逃れられないということです。
本当の意味での自由は、解放者であり捕捉者でもあるという現代の“不可思議”な物語を抜け出た先にあります。
でもそれは、物語の中にいる者にとっては、逃げ水のように、求めれば求めるほど遠のいていってしまう。監督でさえ“中”にいるくらいです。
本作の重層的な構造は、現代の困難な状況を実によく表しているのです。
「事件探し」と「予告された殺人」
さびれた町に生きる若者が、あるきっかけで自分を支える物語を失い、真実(再生)を求めて罪を犯すという構図は、いまや世界各国で見受けられます。
本作の「大磯」は現実の地名であると同時に、「地縁」と「都市」と「ネット」の歪みが重なり合った雰囲気を持つ抽象的な世界です。
ネット上の書き込みのごとく、断片的な語り口は複数の解釈を与えます。つまり、それは真実を見えにくくするのではなく、むしろ多くの真実を生み出す効果があり、先述した「鍵」の組み合わせ次第でいくつもの事件を作り上げることができます。
この意味で、舞台は湘南を離れた“情報の海”であるともいえます。
そこで犯人ではなく、考えられうる事件を探すというのが、本作の一番の魅力、独創性となっています。
これは1人では妄想に過ぎません。
「1人で見る夢はただの夢でも、一緒に見る夢は現実だ」という名言がありますが、これは“悪夢”にも応用できる諸刃の剣で、「事件」は他者の存在や承認なくしては可能性すら成立しません。
そのめに本作では孤独に焦点を当てながらも「4人」が必要だったのです。いや、正しくは「3人」で事足りていたことから、ある悲劇が導かれます。
事件に発展するいくつかの可能性。仲間が2人ではどちらかが真相を知る立場になるため想像しにくく、少なくとも3人は必要だとわかります。
逆にいえば、それ以上は彼らの想像の物語には不要であり、“夢へのちかみち”を考える場合は4人のうち1人は排除されるか、だれかに取って代わられる運命を秘めていたといえます。
現実が倫理になる時代
「事件探し」はミステリーの新たな面白さを教えてくれるものの、解釈に身を任せる快楽は、邪悪な物語に力を与えることにもなりかねず、実際にアメリカでは議事堂が襲撃される「事件」がありました。この「不可思議な殺人」の全責任を負う犯人もいません。
このような状況を鑑みますと、時代を鮮明に描写した本作を観る方は身を顧みて現実にはらむ危険性を強く意識する必要があります。
つまり、仲間の承認によって力を得るような想像的な「物語=事件」を鎮める方法を模索しなくてはなりません。否定、批判、反論の類はその“つながり”を強めるばかりです。
世界が直面している難しい課題ですが、一つはやはり現実の事件が参考になります。
たいていの悪夢は、結局は「現実」に直面するなかで目覚めるか、力を弱めていきます。
内輪の関係が拡大するにつれ、外界との軋轢や摩擦も徐々に大きくなり、もっともヒートアップしたところで現実の冷水を浴びせされ崩壊する、というのがよくある流れです。
ここで重要なのは、ポスト・トゥルースの時代では現実が影を潜めるのではなく、むしろより存在感を発揮していることです。
本作でもひときわオーラを放っているのは、ティムリウ・リウが撮影した現実の静かな町並みや風景となっています。
不穏で謎めいた物語と真っ向から対立できるのは、この現実感あるカメラです。言うなれば、地に足ついたカメラワークだけが、終始、物語に惑わされることなく倫理的な姿勢を貫いていました。
救済の可能性
おなじ湘南を舞台にしても、初監督作『3泊4日、5時の鐘』では生まれ育った町での関わり合いをみずみずしい恋模様に見立てたのに対し、本作では世界のどこにでも出現しうる孤独なつながりを超現実的に映し出しました。
この奥深いイメージの表出は、多国籍のスタッフ編成が功を奏したのはいうまでもなく、三澤監督自身が己のなかに普遍(地下)に通じる入り口を見つけたことを示唆しています。
見知ったものを撮っても、まったく別の世界にたどり着ける。この事実こそが、身動きがとれずに苦しんでいる人々に希望を与えてくれます。
現代人を救うのは、つながりでも、それが編み上げる無数の物語でもなく、足元に広がる実は豊かな現実なのでしょう。