連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第42回
こんにちは、森田です。
今回は10月11日に全国公開されたアニメーション映画『空の青さを知る人よ』を紹介いたします。
監督は『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』で芸術選奨新人賞メディア芸術部門を受賞し、『心が叫びたがってるんだ。』とともに大ヒットを飾った長井龍雪。
今作は『あの花』『ここさけ』につづき、秩父を舞台にした3作目となります。
CONTENTS
『空の青さを知る人よ』のあらすじ(長井龍雪監督 2019年)
山に囲まれた町に住む、17歳の高校2年生・相生あおい(若山詩音)は、受験勉強もせずに暇さえあればベースを弾く音楽づけの日々。
13年前に事故で両親を亡くしたあおいは、親代わりに育ててくれた姉・あかね(吉岡里帆)とふたりきりで暮らしています。
事故の当時、高校3年生だったあかねは、恋人の金室慎之介(吉沢亮)との上京を断念して地元の市役所に就職したため、あおいは“姉の人生から自由を奪ってしまったのではないか”といつも負い目を感じてきました。
そんなある日、町で開催される音楽祭に、大物演歌歌手・新渡戸団吉(松平健)の出演が決定。そのバックミュージシャンには高校卒業後、東京に出て行ったきり音信不通だった慎之介の姿がありました。
あおいにとって慎之介は、音楽の楽しさを教えてくれた憧れの存在でしたが、ベースの練習をしていた山中のお堂にはなんと高校生のままの慎之介“しんの”が現れます。
思わぬ再会からしんのへの憧れが恋へと変わっていくあおい。一方で13年ぶりに元恋人と再会したあかねも、動揺を隠せません。
あかねとあおいの姉妹、そして現在と過去の慎之介による不思議な四角関係のなかで、それぞれの“2度目の初恋”が始まっていきます。
山の向こうのガンダーラ
冒頭でベースをつま弾いているあおいは、こう語ります。
いつも探してる ずっと探してる どんな夢も叶う場所を
耳を傾ければ、ベースの旋律はゴダイゴの「ガンダーラ」をなぞっているとわかり、そこで歌われる理想郷に彼女の想いが託されていることがうかがえます。
『あの花』『ここさけ』とおなじく、今作も長井龍雪(監督)・岡田麿里(脚本)・田中将賀(総作画監督)の3人による制作チームが組まれていますが、その根底にある意識は毎度共通しているようです。
長井:岡田さん、田中さん、自分も含めて、“高校時代イコール停滞期”という共通意識が潜在的にあるのかもしれませんね。(…)だから「そこだけ時が止まっている」とか「閉じ込められている」とかいったモチーフが出てくるのかな。3人とも似たような経験がありつつ、「そこから出たい」という当時の本能的な思いがいまごろ作品に反映されているのかもしれません。(映画公式パンフレットより)
“山の向こう側”を夢みる高校生を描いた作品は少なくなく、ほぼ同時期に公開された映画のなかでは『惡の華』(井口昇監督)もそのひとつでしょう。
実際に『惡の華』の脚本も岡田麿里が手がけており、彼らの抱える葛藤や舞台の背景は似ているものの、『空の青さを知る人よ』においては別の“登山口”を示しているのが特徴的です。
それは、30代になったあかねと慎之介に物語の焦点が当てられているということです。
脱キャラ化する30代
13年の時を経て、あかねと慎之介は31歳になっていました。
総作画監督の田中将賀は、あおいやしんのたちの若者組は描いていて素直に楽しかったという一方で、あかねや慎之介たちの30代組は1歩立ち止まって考えたといいます。
田中:今回の作品は、ぼくらが思う30代像とか、ぼくらがいま描ける10代像とかを盛り込んでいるので、お客さんがそれを見てどんなふうに感じるのか、率直な感想を聞いてみたいですね。(同上)
その真意をあらわすのが、こちらの発言です。
田中:そもそも30代の大人をアニメ作品のメインキャラとして描く機会が、いまのアニメ界ではほとんどないですから。(同上)
たしかに10代、20代は少年少女の型のなかで青春ものが繰り広げられ、40代、50代とつづく世代は父母のいる家族ものになり替わることが多いように見受けられます。
いわば30代とは“キャラづけしにくい”世代なのでしょう。本作はあえてそこに挑んだわけです。
はたして30代とはどんな年代か。またそれを考えることにどんな意味があるのか。この点を深めることで、本作のメッセージにたどりつくはずです。
非ドラマに潜む葛藤
脚本の岡田麿里は、30代をこのようにみています。
岡田:30代の女の子って、アニメの場合は大人のお姉さんキャラとして配置されてしまいがちで。だけど自分自身の実感としても、30代って少女の頃とはタイプの違う葛藤がわんさと訪れて、心に動きのある時期なんですよね。思春期というわかりやすい葛藤のなかにいるあおいと、次の葛藤の時期にさしかかってきたあかねという、微妙な年齢を同時に迎えた姉妹を描いてみたいな、という思いはありました。(同上)
あかねは市役所に勤め、慎之介は大物歌手のバックバンドに所属しているという、一見すると安定した姿でふたりは描かれています。
しかし“安定”からドラマは生まれにくく、これがミュージシャンを目指す過程であったり、一旗揚げたあとの凋落する過程であったりすれば、ドラマチックな展開も期待されたでしょう。
ここに30代が見逃されやすい理由がありますが、よく目を向けてみると、岡田麿里のいうように“次の葛藤”が潜んでいます。
少女でも、お母さんでも、お姉さんでもない自分。社会的なキャラから距離を保てる身ゆえに、自分への迷いが生じる時期を迎えるのです。
ガンダーラの真の場所
いまは“陽キャ”や“陰キャ”などの言葉をよく耳にしますが、キャラとはその人の性格を指すものではなく、その人を取り巻く環境から恣意的に与えられるものです。
物静かな子が図書館にいれば本好きなんだなと微笑ましい視線を送られても、教室にいれば暗いやつと陰口を叩かれることもあります。
要するに人生の諸段階においていくつものキャラを貼られていくわけですが、そういう周囲の目から離れたときはじめて「自分はどうなりたいか」という問いが生まれてきます。
あかねはあおいのお姉さんですが、あおいが自分の夢を追いかけるなかで、お姉さんキャラから脱する必要に迫られます。また慎之介も音楽を生業としてからは、単なる夢追いキャラではいられなくなります。
10代、20代と生きてきて、おそらく最初に「キャラの空白地帯」に足を踏みいれるのが30代ではないでしょうか。
そこにいけば、人がどうみるかではなく、自分がどうありたいかを考えることになります。
すなわち「どんな夢も叶う場所」とは、「自分で自分のキャラを決められる場所」であり、あかねも慎之介もすでに“ガンダーラ”には到着しているのです。
キャラを脱する者たちの役割
慎之介はその歩みを「閉じ込めることでしか前に進めなかった」と振り返っています。事故で両親を失ってからのあかねもそうでしょう。
ガンダーラにいる30代は、青春と括られる来し方を顧みる目と、自分が再びある枠に収まる行く末をみる目をもっています。
本作の題名であり、慎之介のデビュー曲でもある「空の青さを知る人よ」は、「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る」からとられていますが、そこに30代の目を見いだすことも可能です。
それぞれの空の下には、それぞれの物語があります。あかねと慎之介は数年後に結婚したことがエンドロールで明かされます。
自分で決めた自分の井戸は、それはまた狭い世界であり、人からは「落ち着いてしまった」「柄じゃない」などと言われるかもしれませんが、小さな物語を選びとる大きな勇気なくして人生は全うできないでしょう。
30代はそのスタート地点に立つ者であり、自分で選んだ世界を幸せに生きてみせることが、あおいたち若者組に対する役割です。
青春のそのさきは、空の青さが照らしてくれる。だから心配ない。“空の青さを知る人”は、まずそのことを伝えなくてはなりません。
アニメの新たな挑戦
あかねがこれまで作ってきたおにぎりは、あおいが好きな昆布の具のものでした。それはあおいのためというよりは、お姉さんキャラを演じる自分のためといったほうが正しいかもしれません。
そして慎之介に「ツナマヨを作ってあげる」とあかねが言ったとき、過去のしんのは消え去ります。
30代の岐路を通して、キャラを脱ぎ捨てる瞬間の幸福を切りとった本作は、たしかにアニメーションへの挑戦だったと受け止められます。