連載コラム『タキザワレオの映画ぶった切り評伝「2000年の狂人」』第4回
ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2020にて北海道知事賞を受賞したことで話題を呼び、若き奇才・大久保健也監督が撮影当時24歳で作り上げた劇場デビュー作『Cosmetic DNA』。
2021年10月9日(土)よりK’s cinemaほかにて全国順次公開を迎えた本作。
理不尽な《男尊女卑》に傷つけられた3人の女性が《復讐》と《新世界の創造》へと突き進んでゆく物語には、女性のみならず「自分らしく生きたい」と願う人々からの共感を呼びました。
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映画『Cosmetic DNA』の作品情報
【公開】
2021年(日本映画)
【監督・脚本・撮影・照明・美術・編集】
大久保健也
【プロデューサー】
大久保健也、西面辰孝
【出演】
藤井愛稀、西面辰孝、仲野瑠花、川崎瑠奈、吉岡諒、石田健太
【作品概要】
14歳から映画制作を続けてきた大久保健也監督が、撮影時24歳で作り上げた劇場デビュー作。2020年、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭で北海道知事賞を受賞。
主人公アヤカ役には『血を吸う粘土〜派生』(2019)などで知られる藤井愛稀。現代を生きる女性たちを取り巻く社会の不条理と理不尽を、ヴィヴィッドな映像美でパワフルに描いた注目の一作です。
映画『Cosmetic DNA』のあらすじ
ライブ配信サービス「サクセスライブ」のCM。
売れないモデル、松野タピオカは事務所からの仕事が男性目線の水着仕事ばかりであることに愚痴をこぼしていました。しかし事務所のマネージャー、城島は「この世は男で成り立っている」と言い、彼女を諭します。
そんなCMを見て、ライブ配信を始めた美大生、東条アヤカ。
自室にてメイクする様子を配信するも、チャット欄には彼女の容姿を揶揄するものばかり。そんなアンチコメの中から、アヤカは純粋にメイクを褒めるサトミのコメントを発見し、サトミにだけ連絡先を教えました。
人並み以上にはメイクに対し、こだわりを持っているアヤカは、パトロンに貢いでもらったお金を握りしめ、薬局のメイクコーナーで散財します。
一方、長編デビュー作で賞を獲得して以降、活動もせずに酔っぱらっては揉め事を起こしていた柴島が助監督の吉田と合流します。
次回作の脚本を書いている途中と言い、映画業界で当てると意気込む柴島に呆れながらも、助監督として付き合わされる吉田は、女優探しというもっともらしい言い訳をしながらクラブへ向かいました。
クラブではいつもの調子で喧嘩になり、結果店を追い出される柴島。既に彼は「おれ何のために映画なんか撮ってんのやろ」と映画を撮る目的を見失っていました。
そんな時、偶然通りがかったアヤカに惹かれた柴島は、「次回作の主演として映画に出て欲しい」と声をかけます。
打ち合わせと題しアヤカとサシ飲みの約束をした柴島は、アヤカにスマート・ドラッグを盛るつもりであると吉田に明かします。吉田は映画を言い訳にしたただのナンパに付き合わされたことに呆れていました。
飲みの席にて、アヤカは恋愛話ばかりで映画について一向に話さない柴島に不信感を抱き始めました。その後トイレへと席を立つアヤカの目にとまったのは、女性の腰に手を回す中年男性の姿。
隙を見てアヤカの飲み物に薬を仕込む柴島。戻ってきたアヤカはそれを一気飲みし気を失ってしまいます。
アヤカが目を覚ますとそこはベッドの上で、身体の上に柴島が乗っかっていました。必死に抵抗するも、柴島に押さえつけられた身体からは力が抜けていくようでした。
隙をついて頭を殴り、急いでその場を去るアヤカ。家に戻りシャワーを浴びていると、声が聞こえてきます。
「よくわかんない男とさしで飲むのが悪いよね」……浴槽で体を洗い流す彼女の耳には、彼女の行いを責め立てる声が鳴り響いていました。
その後、警察に被害を訴えに行きました。しかし警察は事情聴取という名の二次加害をするだけでした。証拠となるものを洗い流してしまったことも指摘され、人形を加害者に見立て再現するよう求められます。
「化粧してるのは男の為だろう」
アヤカは、脳内では柴島を何回も殺しているものの、現実には何もできない自分を責めていました。
そんな時、ライブ配信にコメントしたサトミから連絡があり、アヤカは化粧について指南する約束をします。大学院で博士号を目指しているサトミと出会ったアヤカは彼女に化粧の仕方、選び方を教えます。
また二人で公園で話をしているところへ、アパレル店員のユミが話しかけてきました。
洋服選びや化粧の話題で盛り上がった3人は、他愛もない身の上話で仲を深めていきます。その後、アヤカの家で飲み直し、アヤカが事件のことについて2人に話し始めました。
夜更けまで飲み明かして迎えた翌朝。
テレビを見ながらしていた何気ない会話から、サトミの大学でネズミのメス同士で子供を作る研究が行われていることを知ります。
「男とセックスせずに子供作れるとか幸せじゃん」と3人は共感します。
朝帰りで家へと戻ったユミは、彼氏が書いている小説の続きを聞きます。一通りあらすじについて話した後、彼氏は「難しくてわかんないかもな」「女子どもに媚び売るようなものは書きたくないからさ」と続けました。
一方、泉門大学理学部生物学科研究室に通うサトミは、卵子のみで受精卵を作る研究に苦労していました。将来についてサトミが師事する春木教授に訊かれ、博士号を目指していると素直に答えると、「女の子なんだからさ、彼氏いないの、女の婚期は長くないし」といつも通りのセクハラが返ってきました。
アヤカとサトミが2人で飲んでいたところ、ユミがマッチングアプリで出会った人とこれからデートであることを知ります。サトミの言う「相手は映画撮ってる人らしいよ」という言葉が気になったアヤカはユミに電話をかけ、すぐさま車に向かいます。
一方柴島はこれからアパレル定員とデートすることを吉田に自慢していました。
「女とヤレばヤるほど、オレの遺伝子を世界中にばらまける」「世界を俺のものにしたい」……柴島は映画以上の野望を豪語していました。
車でユミを助けに向かう途中、アヤカは車道に飛び出してきた人を轢いてしまいます。
車にぶつかったのは、柴島でした。隣にいた吉田が彼を庇っているところへ、アヤカは落ちてた煉瓦を拾い近づいていきます。
倒れている柴島に向かって煉瓦を振りかぶるアヤカ。車内で一部始終を見ていたサトミに、彼女は「我慢出来なかった」とだけ言いました。
意識を失った柴島を森まで運ぶアヤカとサトミ。そこへ合流したユミに一連の出来事を説明し、3人は遺体の処理に取り掛かります。
遺体を埋め、抜いた血の処理に困っている時、誤ってアヤカはそれを身体に浴びてしまいます。
「これだ」。人間の血液が理想の化粧品の材料となるということに気づいた3人は血液を使った化粧を施します。
「何でもできる。男なんかの何万倍も。世界だって変えれる気がしない?」
映画『Cosmetic DNA』の感想と評価
発想と努力によって作りこまれた圧倒的なビジュアルにショックを受けるあまり、ストーリー進行においてかれそうになるものの、アヤカと柴島が出会うまでの描写や、事件によってサトミ、ユミと友情をはぐくむ過程は、現代的なリアリティでもって丁寧に描かれています。
柴島を殺害し、血液が化粧の材料になることに気が付いてからの急展開は、その強引さと「書き割りのエキストラ」の思い切りの良さから映画『ゴジラ対ヘドラ』(1971)を連想。
アジテーションのごとく繰り返されるドラッキーでトキシックな演出という共通点の他にも、耳に残る主題歌『絶滅危惧種ガール』の歌詞の奇妙さと独特のキャッチーさは、同作の主題歌『かえせ!太陽を』を彷彿させます。
手作りのハリウッド
手探りの中、手作りで行われたサイケデリックな演出、その引用は若い世代の監督ならではの歴史背景によるものでした。
ミュージックビデオ的演出全開のシーンは『嫌われ松子の一生』(2006)の冒頭の部分をトレースしており、台詞の応酬での意表を突く角度など、中島哲也監督作品のDNAを受け継いでいることが良く分かります。
また、終盤の大暴れでは、監督自身が公言する通り、『ゴーストバスターズ』(2016)のフレーム・ブレイクを再現しています。
クライマックスでのお馴染みの主題歌のリズムに合わせてゴーストに放ったプルトンパックのビームが、スクリーンを囲う上下の黒いふちの外にまではみ出してくる演出を模倣したものです。
本作は3D作品ではないものの、大画面で観た時の印象を『ゴーストバスターズ』(2016)で観たそれに限りなく近づけようとしており、日本の低予算映画がポスプロで出来る実験的な演出を盛り込んでいました。
このような視覚効果を使ったオマージュは、近年からの引用が多く、監督の世代を強く感じるとともに、映像作家としての新陳代謝の速さに驚かされます。
誰のための映画か
この出典の新しさはテーマにも通じていました。
プロットを見れば、作品を鑑賞していない人は本作を「レイプ・リベンジ・ムービー」とカテゴライズするでしょう。性的暴行、搾取をされた女性が復讐を果たす爽快感には社会性が付与されている一方で、ジャンルは常に男性による目線が介在しており、それがポルノとして消費されることも暗黙化されていました。
本作における該当シーンは、女性側の視点から始まります。上に乗っかられている女性目線はその恐怖と虚無感を主観的に捉え、その後の二次被害にも、苛立ちや遣る瀬無さが付きまとっています。
しかし本作はフェミニズムをテーマにしていません。
社会的問題に一石を投じたいという色気がある監督ならば、ここまで並行して語ってきた柴島とアヤカの物語の均衡をアヤカ側に振り切った上でアヤカ(=女性)と対する社会的抑圧の構図を取るでしょう。しかし、そのチャンスが訪れた車に轢かれた柴島を見つけるシーンで、アヤカ(=監督)はその機会を放棄します。
もちろん本作を観ている誰しもが、作り手である監督は自らを忌むべき男の端くれとして、自分自身の末路を自称映画監督の柴島に投影し、その救いがたい未来を清算していると思うでしょう。
もちろん内省的にあるいは過剰なまでに自虐的なまでに自らの最悪のなれの果てとして、柴島という怪物を造形したのかもしれません。しかし感情移入の対象と自身を投影した存在の乖離にこそ、本作がレイプリベンジでも、フェミニズムでもない理由が隠されています。
仮に本作の物語とその結末をフェミニズムに従わせたとしましょう。
19世紀後半から始まる女性参政権運動、ウーマン・リブ運動の長い歴史と背景を持つ現在「フェミニズム」と定義されるものに基づいて本作があの結末を描いたとしたら、それは非常にラディカルな言説であり、思考を欠いた暴力でしかないことは明白です。
今ある「フェミニズム」背後にある運動とその背景でどのような思想の逡巡があったかを一切無視し、歴史の先端部をタップしているだけのそれは、短絡的なミサンドリーにしか見えないため、本作を観た男性という属性を自認する観客が「自らが攻撃された」として逆上するのも無理はありません。
これはあくまで仮定の話であり、定義に対して受け手側の理解度に左右された場合です。
確かに主人公に寄り添った物語である以上、作り手はアヤカと一心同体にあります。男性である監督が女性の立場で置かれた不平等に対し、女性として制裁を加える。それは男性の優位性を享受してきた自分自身に銃口を向けることを意味しているとしても……。
そういった意味において、本作は御大層なテーマを掲げていなければ、伝統や思想の逡巡を踏まえていません。踏まえる必要もありません。
これらは映画の外で起きている現実世界の話であり、本作とは一切直接的に関係ありません。
現代において「男は死んでもクソ野郎」というパッケージングは、怒れる賛同者の共感と不満と怒りを充足するその過剰さだけを礼賛します。しかしそれは同時に男性の劣等性の本質に対する圧倒的な不理解と断絶を生んでしまうのです。
これは作り手や表現が悪いのではなく、今はただこうするしか出来ない映画とそして映画を観る観客のリテラシーの限界なのでしょう。
まとめ
本作はハリウッド的演出×和製ドラッグムービーとして、バラエティ豊かな引用と表現を掛け合わせた実験映画です。
それぞれの要素が独立していながらも、100分の映画の中でそれらが合成され、他のどの映画でも体験できない異常さだけが際立った奇妙な何かに成り果てています。
その何かは見る角度によっては、男の存在を憎むミサンドリーに見え、また別の角度からは男の救い難さを男自身が慰めているように見えます。
聞こえが悪い表現ですが、男が男を慰めるために異なる立場の女性3人が利用されているという見立ても出来、あらゆる要素を鑑みた思考実験によって再考し続けるべき、本作に与えられた永遠の問題点のようです。
しかしバケモノとして生まれてしまった醜い男の業を自らの手で殺すその究極さとは、映画という芸術のみが到達しうる最終選択であり、長編劇場映画1作目として、ここまで自らの想像力と作り手としての未来を人質に、身を切る覚悟をした監督の自決は、敬服の念に堪えません。
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タキザワレオのプロフィール
2000年生まれ、東京都出身。大学にてスペイン文学を専攻中。中学時代に新文芸坐・岩波ホールへ足を運んだのを機に、古今東西の映画に興味を抱き始め、鑑賞記録を日記へ綴るように。
好きなジャンルはホラー・サスペンス・犯罪映画など。過去から現在に至るまで、映画とそこで描かれる様々な価値観への再考をライフワークとして活動している。