宮崎駿監督のの長男である宮崎吾郎が初監督を務めた『ゲド戦記』
アーシュラ・K・ル=グウィン原作ファンタジーをアニメ映画化した作品では、エンラッドの王子アレンの声の出演を務めたのは、V6のメンバーであり、俳優としても活躍している岡田准一。
ヒロインであるテルーは、主題歌「テルーの唄」も担当し、歌手としてのデビューを果たした手嶌葵が務めました。
アーシュラ・K・ル=グウィン作の『ゲド戦記』(原題は『Earthsea』または『Earthsea Cycle』)は、魔法使いゲドの少年期から始まり、太古の魔法が存在する島々アースシーを舞台にした壮大なファンタジーシリーズ。本作でハイタカ(真の名がゲド)は、壮年になり偉大な魔法使いである「大賢人」になっています。
また、エンラッドの王子アレンは、原作シリーズでは3作目にあたる『さいはての島へ』で登場し、ハイタカと共に旅をしています。テルーやテナーも原作に登場する人物ですが、設定をアニメ映画化にあたり変えています。
原作にはない“父親殺し”をアレンが犯し、国を出るところから始まる本作は、若者の鬱屈と閉塞感をアレンに投影し、恐怖との戦いと自身の解放を描く力強い映画になっています。
映画『ゲド戦記』の作品情報
【公開】
2006年(日本映画)
【原作】
アーシュラ・K. ル=グウィン
【監督】
宮崎吾朗
【脚本】
宮崎吾朗、丹羽圭子
【音楽】
寺嶋民哉
【主題歌】
手嶌葵
【声のキャスト】
アレン(岡田准一)、テルー(手嶌葵)、クモ(田中裕子)、ウサギ(香川照之)、テナー(風吹ジュン)、ハジア売り(内藤剛志)、女主人(倍賞美津子)、王妃(夏川結衣)、国王(小林薫)、ハイタカ(ゲド)(菅原文太)
【作品概要】
建築コンサルタントなどを務めていた宮崎吾朗は、三鷹の森ジブリ美術館の総合デザインを手がけるためにスタジオジブリに入社します。竣工後は初代館長も務めていましたが、鈴木敏夫プロデューサーの薦めで初監督を務めることになりました。
その後『コクリコ坂から』(2011)、『劇場版 アーヤと魔女』(2021)の監督も務めました。
映画『ゲド戦記』あらすじとネタバレ
エンラッド王国では謎の病が流行し、頭を抱えるなか、王の耳に飛び込んできたのは龍の目撃情報でした。
その頃、エンラッド王国の王子アレンは一国の王子である閉塞感と正義感から心の均衡を崩し、父である国王を殺してしまいます。
国を飛び出したアレンは犬に襲われかけたところをハイタカに助けてもらいます。
アレンの持つ剣を見たハイタカはエンラッドの血のものか?とアレンに尋ねます。更に、その剣は魔法がかかっている今のお主には抜けないだろうと言います。
そうして知り合ったアレンとハイタカは共に旅をすることになります。2人が辿り着いたのホートタウンでは、人間が奴隷として売られていました。
崩壊し退廃した街を目にしたアレンはこの街はおかしいとつぶやきますが、ハイタカはこの街だけではない。作物が枯れ羊は死に、人々は頭がおかしくなっていると言います。
アレンは人攫いに追われている少女を見つけ、人攫いから救いますが、少女はアレンの手を払い除け去っていきました。
その後、アレンは不意を突かれて人攫いに攫われ奴隷として売り出されそうになります。
そこにハイタカがやってきてアレンを救い出し、昔の知り合いであるテナーの家に連れていきます。
テナーの家には、少女テルーも住んでいました。ハイタカはテルーを驚いた様子でじっと見つめ、「まさかな」と呟きます。
奴隷に逃げられた人攫いは、ボスである魔法使い・クモに奴隷を逃したのは顔に傷のある魔法使いだったと報告します。
その言葉を聞いたクモは「ハイタカだ、大賢人がやってきた」と言います。
クモにとってハイタカは因縁の相手だったのです。
映画『ゲド戦記』感想と評価
アレンが抱える閉塞感と不安
宮崎吾朗監督が初演出した映画『ゲド戦記』は、宮崎駿監督作品はなかった、闇を抱える主人公の鬱屈、不安、そしてそこに差し込む光が描かれています。
宮崎駿監督作の登場人物は真っ直ぐで、ひたむきな印象が強く落ち込んだりはしても、本作のアランほど闇を抱えた人物が描かれることはあまりありません。
アヘンの抱える不安は世の中に対する漠然とした不安や、死ぬこと、そして王子という立場ゆえのプレッシャーなど様々なものでしょう。
その不安に押しつぶされ、アレンの肉体も不安に蝕まれてしまいます。一体であるべきの光と闇が乖離し、肉体を失った光は影となり彷徨います。
アレンが恐れているのは死ぬことじゃない、生きることだとテルーが言うように、光という本来ならポジティブな存在と捉えられるような物事に対し不安を感じているのです。
アレンが抱える不安は今を生きる観客にも通じるものなのかもしれません。
漠然とした社会不安を前に生きることに意味を見出せず、負の感情に苛まれてしまう、希望を見出せない……そう言った感情は今を生きる若者の中にもあるかもしれません。
一方、テルーは両親に酷い目に遭わされながらも、テナーに救われ、自分の命をしっかりと生き、次の世代に繋げようと強く思っています。
アレンにとってテルーは対極にある生を信じ強く生きようとする存在です。生きることを大切にしているからこそ、テルーは死を恐れません。
クモに首を絞められ、ぐったりと倒れていたはずのテルーは、しっかりと立ち上がり龍へと姿を変えてきます。その姿はまさに生と死の円環の象徴と言えるでしょう。
死を受け入れることで新たな生が生まれていくのです。
原作の『ゲド戦記』の世界では、人間はかつて龍であったことや、龍に姿を変える人々の姿が描かれています。
テルーは龍の血を引く存在であり、だからこそ龍に変身したとも考えることができます。テルーやハイタカ、テナーの存在により、恐れに打ち勝ち生きていく決意をしたアレン。
その姿は、宮崎駿監督が『風の谷のナウシカ』(1984)や、『もののけ姫』(1997)で描いてきたともに生きることに通ずるものがあるように感じます。
まとめ
神々しい龍の様子や、色鮮やかな街並みの様子など、映像の美しさ、闇を抱えるアレンの存在など、父である宮崎駿監督作とは違う宮崎吾郎監督ならではの視点で描いたアニメーション映画『ゲド戦記』。
6作からなるアーシュラ・K・ル=グウィン原作には、アレンやテナー、テルーなどアニメに出てきた人物らが登場しますが、少し設定は異なります。
アレンが登場するのは3作目の『さいはての島へ』ですが、そこではハイタカ(ゲド)と壊れた世界の均衡を取り戻すために、世界の果てまで旅に出る物語が描かれているのみです。
アレンとテルーが共に登場するのは、5作目の『アースシーの風』になります。
6作目となる『ドラゴンフライ アースシーの五つの物語』は中短編をまとめたものであるため、5作目の『アースシーの風』がゲドの少年期から始まった物語の最終章にあたります。
『アースシーの風』では、テルーと龍の関係性が描かれるほか、ゲドとテナーの世代からテルーとアレンの世代へと受け継がれていく様子が描かれています。
アニメーション映画『ゲド戦記』はこのように、『さいはての島へ』と『アースシーの風』の内容を主軸に作り上げられたのでしょう。