映画『空の瞳とカタツムリ』斎藤久志監督インタビュー
映画『空の瞳とカタツムリ』は、“求めることで人は他者を傷つけて生きる”という、誰もが一度は通る痛みと儚い青春の終わりを描いた斎藤久志監督。
斎藤監督は、自主映画出身で、『なにもこわいことはない』『sunday drive サンデイドライブ』『フレンチドレッシング』など、独自で繊細な描写を得意とする映像作家です。
2月23日(土) より、池袋シネマ・ロサほか全国順次公開される『空の瞳とカタツムリ』で脚本を執筆したのは、「深夜食堂」シリーズで脚本家デビューを果たした荒井美早。
女性の脚本家・荒井が精力的に書き上げた、鮮烈で強い愛の表れた物語を、斎藤久志監督はどのように演出を試みたのか?
また斎藤作品の原点には何かがあるか、大いに語っていただきました。
CONTENTS
自主映画で切り開いた作家への道
──斎藤久志監督は、どのように映像作家の道に至ったのですか?
斎藤久志(以下、斎藤監督):PFF85入選した8㍉映画『うしろあたま』は、高野文子さんの短編漫画が原作で脚本を大阪芸大時代の同級生の岸田義孝が書いてます。
それまでは、自分を投影していた男の子を主人公にしていたのが、この作品で男である僕にとって一番の他者である女の子を初めて主人公にしてみたんです。
この作品を撮ったことがきっかけで、その後、ある時期までは、役柄や設定を変えながら『うしろあたま』の主人公の延長線上にキャラクターを作ってました。
『うしろあたま』はラストが屋上なんです。それで脚本作品も含めて何度も屋上を登場させて、その時の主人公はどこまで行けたのかな、という事を試みてました。
『うしろあたま』(1984)
作品データ:124分/パートモノクロ/8mm
斎藤監督:今回、荒井美早さんと脚本作りをしている過程の中で、僕は大島弓子さんの作品を思い出していたんです。
女の子が女の子のまま生きられない社会の中で、どうすれば女の子のままで生きられるんだろう、という問いが大島作品だったと思うんですけど、その中でも特に『バナナブレッドのプティング』が好きで、かつて映画化したいと思っていた時期があって、この作品でそのことをやることになるのかな、という思いがありました。
少女マンガの視点
──なぜ、少女漫画に惹かれたのでしょうか。
斎藤監督:何でしょうね。「世界が見えている」という気がしました。
当時少女漫画を男が読むことは恥ずかしかった時代で、大島さんに出会ったのが、20歳過ぎてからでした。初めて読んだ時に、ものすごくびっくりしたんですね。小中高生の女の子はこの作品世界がわかるんだ、すごい!って衝撃を受けました。
「大人になるステップ」という世界観が当たり前のように理解できていることに、少年漫画とはかけ離れたレベルの違いや畏敬の念を感じました。それが少女漫画に惹かれた出発点でした。そこから派生して、萩尾望都さんや、山岸涼子さんの作品を読みました。
その世界に導いてくれたのが、橋本治さんの少女漫画評論集『花咲く乙女のキンピラゴボウ』なんです。
その本の最終章「ハッピーエンドの女王 大島弓子」で、大島弓子は、物語を作る時にハッピーエンドでなければ物語を作らない。なぜなら、この物語がハッピーエンドにならないとするならば、その物語が間違っている、とあるんです。
ある時期には橋本治さんのこの大島弓子論を必ず読んで、映画を作り始めていたました。この本も僕にとってバイブルなんです。
漫画家・大島弓子へのリスペクト
──大島弓子さんの作品から大きな影響を受けたように感じます。
斎藤監督:そうですね。価値観だったり、人が生きるということを教えてもらったように思います。
橋本治さんの批評になぞらえると、大島弓子さんは『バナナブレッドのプティング』の作品の後に大ヒット作「綿の国星」を書きます。「綿の国星」は、人間になれると思っている猫の話なんです。猫だけど、女の子の姿をしている。
その主人公の猫は、自分を拾ってくれた男の子の事好きなんですね。人間になってその男の子と結ばれる夢を抱いている。だけど、先輩の猫に「猫は人間にはなれないよ」と言われて、ショック受けて、モノローグが続く。
「鳥は鳥に、人間は人間に、星は星に、風は風に」。「猫は猫に」と言う言葉を言わない。その先にあるのは「私は私に」ということ。要は、自分の思うような社会や世界はないですよね。
斎藤監督:橋本さんの評論でいうならば「世界が私を受け入れてくれないのなら、私が世界を組み替えよう」ということです。「自分が自分になる」という価値観、男であろうが女があろうが、どこかの時点で、戸惑いながら、受け入れ確立していくわけです。
「私が私になる」という自己肯定、基本的に表現(活動)というものは、「生きていていい」という思いを伝えることだと思うのですが、その根幹を大島弓子さんの作品に感じ取ったんだと思います。
映画は、アニメじゃない限り肉体を存在させなければならない。
肉体を持たない、観念の世界を描いている大島弓子さんの作品を直接映画化するというのがとても難しい。それをどうしたらできるんだろうと心のどこかで思っていました。
大島弓子さんの作品では、基本的に性を描かれていません。
ただ、『バナナブレッドのプティング』は、唯一、性を描いている作品です。
主人公の衣良が、「人喰い鬼に食べられる」というのは自分が女であるという恐怖、自分の性が男から奪われる存在であるということに気づいてしまった、女の子の恐怖を描いている物語なのです。
本作は性(肉体)をモチーフに心(観念)を描こうとする試みだと思うのです。大島さんが観念で肉体に近づこうとする道のりを、逆方向でやっていると言ってもいいかもしれません。
斎藤監督の原点回帰
斎藤監督:今回、脚本作りをしていく中で、かつて自分が、そのことに戸惑い悩んでいたことがふと呼び起こされたのです。
男の立場からいうと、男性の欲望が、女の性を奪うことだという嫌悪感からスタートしている。どうしようもなく、自分は男であるという葛藤を抱えていた。
大人になって薄れていく中で、もう一回そこに戻って考えてみようかな、という作業でした。
言葉を肉体化する営み
──『空の瞳とカタツムリ』の中で、監督自身が大島弓子作品を意識したところはありますか?
斎藤監督:最後の独白の場面は、脚本上は夢鹿と十百子のモノローグ(心の声)だったのですが、そこは直接喋らせるようにしました。言葉を肉体化させたいという思いがありました。
大島弓子さんの作品の感動のひとつは、美しいモノローグにあると思うんです。でもあれは文字であって、文字を読むから伝わる。もしそれを映画にする場合、何ら映像に誰かの声がかぶさってくる事になる。それは読み手(映画の場合は観客)自身ではなく、登場人物誰かの声(音)になってくる。そこで損なわれるものがかなりあると思うんです。だいたいモノローグって、誰に向かって喋っているのか、いう問題が常にある。だったらいっそのこと画に写っている人がカメラに向かって喋ればいいんじゃないかと。
イーストウッドの『ジャージー・ボーイズ』も、カメラに向かって喋っていますし(笑)。
気心の知れた斎藤組
──映画撮影現場の雰囲気や、撮影時などいかがでしたか?
斎藤監督:今回、撮影期間が短い中で、撮影・石井勲、照明・大坂章夫、衣装・江頭三絵、メイク・宮本真奈美と前作『なにもこわいことはない』をやってくれたスタッフがいてくれた事が助かりました。
撮影時は、特に縄田かのんさんと中神円さんの2人の女優を、どのように魅力的に見せるのかだけを考えて撮っていました。
具体的なイメージが先にあっても、実際に現場で縄田さんをはじめとする俳優陣の肉体が動いた時に、そのイメージを超えることや、なるほどそういうことだったのかと日々気づくことがたくさんありました。スタッフや出演者が生み出していくものをどのように抽出していくか。毎回発見があったし、その発見が映画を支えていました。
観客へのメッセージ
──最後になりましたが、『空の瞳とカタツムリ』をご覧になる観客の皆さんにメッセージをお願いします。
斎藤監督:「性」という問題に対して、今まさに戸惑っていたり、悩んでいたりする人たちの手助けになるような映画になればと思っています。
もちろん、かつての自分がそうだったように、その若き日を通り過ぎた人たちにとっては、それらを思い出すような映画になれば…。
さらに、大島弓子や萩尾望都などの世代を知る人々に、この映画がどのように感じられるのか、ぜひ感想を伺ってみたいです。
映画『空の瞳とカタツムリ』の作品情報
【公開】
2019年(日本映画)
【監督】
斎藤久志
【脚本】
荒井美早
【キャスト】
縄田かのん、中神円、三浦貴大、藤原隆介、内田春菊、クノ真季子、柄本明
【作品概要】
雌雄同体のカタツムリは交尾の際に鋭い矢「 恋矢 れんし(Love dart)」を互いに突き刺しあう。この矢は交尾相手の生殖能力を低下させ、寿命すらもすり減らします。
本作のタイトル『空の瞳とカタツムリ』は、故・相米慎二監督の遺作『風花』のタイトル変更案として最終候補まで残ったもの。
監督は、相米監督の弟子筋であり『サンデイ ドライブ』『フレンチドレッシング』『なにもこわいことはない』など脚本・監督と二足の草鞋で活躍する斎藤久志。
脚本を務めたのはテレビドラマ「深夜食堂」シリーズで脚本家デビューを果たし、本作が初のオリジナル映画脚本の荒井美早。
求めあうがゆえに傷つけあうしかなかった男女四人。触ろうとすればするりと逃げる儚い青春の終わりを繊細なタッチで叙情的に描きだす、新しい愛の物語です。
映画『空の瞳とカタツムリ』のあらすじ
岡崎夢鹿は消えることのない虚無感を埋めるため、男となら誰とでも寝ます。
しかし、一度寝た男と再び寝ることはありません。
夢鹿の美大時代からの友人である高野十百子は極度の潔癖症で性を拒絶し、夢鹿にしか触れることができない体質。
そして、2人の友人である吉田貴也は夢鹿への思いを捨てきれずにいました。
学生時代から仲のよかった3人でしたが、そのバランスは長い年月を経て少しずつ崩れていきました。
夢鹿に紹介され、ピンク映画館でアルバイトを始めた十百子は行動療法のような毎日に鬱屈していきます。
映画館に出入りする大友鏡一は満たされない思いを抱える十百子への思いを募らせていき…。
まとめ
斎藤久志監督のプロフィール
映画監督、脚本家。現在、日本映画大学の准教授として教壇に立つ。
高校在学中より8ミリでの自主映画作りを始め、1985年にPFFに『うしろあたま』が入選。スカラシップを獲得し『はいかぶり姫物語』を監督すると共に、当時審査員だった長谷川和彦監督に師事。
1992年にテレビ『最期のドライブ』(長崎俊一監督)で脚本家デビューを果たします。
その後、1997年には『フレンチドレッシング』で劇場監督デビュー。2000年には舞台『お迎え準備』の作・演出を手がけます。
主な作品に斎藤監督が製作を兼務した『なにもこわいことはない』(2013)、塚本晋也製作で斎藤監督が演出を務めた『sunday drive サンデイドライブ』(2000)、また西島秀俊主演の『いたいふたり』(2002)などがあります。
そのほか、塚本晋也監督の作品『TOKYO FIST 東京フィスト』(1995)では原案を提供、園子温監督の作品『自転車吐息』では共同脚本、助監督を務めるなど、自主映画時代からの広い交友関係を持っています。
【『空の瞳とカタツムリ』公式サイト】
【『空の瞳とカタツムリ』公式Twitter】
【『空の瞳とカタツムリ』公式Instagram】
編集後記
斎藤久志監督インタビューを終えて、帰路に着いた時、橋本治氏の訃報が飛び込んできた。
斎藤監督が愛読書にしていた、橋本治の少女漫画評論集『花咲く乙女のキンピラゴボウ』。
日本の文芸をシニカルに時にユーモアたっぷりに生き生きと描いた文芸批評家です。
新しい年号を迎えた時に、橋本がどのように日本文化を読み解くのかを見たかった。ご冥福をお祈りします。
インタビュー/久保田なほこ
写真/ 出町光識