3歳の時に視力を失いつつも、津軽三味線の巨星となった初代、高橋竹山。
生前「津軽のカマリ(匂い)が湧き出るような音を出したい」と語っていた本人の映像や音声や生前の彼を知る人々の証言から、高橋竹山の人生を辿り、心情を紡いでいく珠玉のドキュメンタリー映画です。
映画『津軽のカマリ』の作品情報
【公開】
2018年(日本映画)
【製作・監督・撮影・編集】
大西功一
【キャスト】
高橋竹山(初代)、高橋竹山(二代目)、高橋哲子、西川洋子、八戸竹清、高橋栄山、須藤雲栄、高橋竹童
【作品概要】
監督は、沖縄宮古諸島の古代の唄とかつての島の暮らしに焦点を当てた『スケッチ・オブ・ミャーク』(2012)の大西功一。
『スケッチ・オブ・ミャーク』は公開当時3万人の観客を動員しました。
本作では北国の人々の暮らしと音楽を辿る旅にでます。
映画『津軽のカマリ』のあらすじとネタバレ
目を瞑り座る、三味線を抱えた初老の男、初代高橋竹山。
「竹山でございます」と男が話し出すと、雪が舞う黒い闇に包まれ、タイトル『津軽のカマリ』が現れます。
竹山の三味線の弾き語りが始まりました。
彼は農家の4兄弟姉妹の末っ子で、3歳で患った麻疹により目が見えなくなってしまいました。
「盲(めくら)はメエグと言われ虐められた。学校に行くのが怖くなって、二日で辞めた」と竹山。
その後は家で炭俵作りや農家の手伝いをして家族と生活していましたが、14歳になったある日、隣村の三味線の師匠の住み込み弟子となり、三味線と唄の猛練習の日々が始まります。
竹山は16歳で師匠の許しを得て、盲目の旅芸人となります。
津軽地方では、盲目の旅芸人達が家々を門付けして歩くことを坊様(ボサマ)と呼び、物乞い(ホイド)と蔑まれてきました。
竹山は家々の軒先で三味線を弾き、米やお金を貰って歩いていました。
やがて民謡の旅まわり一座で三味線を弾き、頭角を現していきます。
民謡ブームも広まり、「津軽三味線」が全国に知られたことにより、伴奏から独奏へと呼ばれるようになります。
「竹山先生の伴奏は、気持ち良く歌えて安心できる」と仲間からも絶賛。
二代目高橋竹山は師である竹山の三味線について、「死に結びついているあの音色は出ない」と語ります。
津軽三味線は、激しいバチ捌きで知られています。
「ちょっとやそっとの音じゃ遠くまで聞こえない。邪魔者、帰れと言われる者に聞いてもらうためには、できるだけ大きい音で弾くしかない」と竹山は説明します。
『津軽じょんがら節』の長く激しい演奏が始まります、
曲想が変調し、強い高音の叩きつけるような音とともに、咽ぶ音色が響き余韻を残します。
その後、竹山は北海道、秋田そして岩手を門付けでまわります。
民謡は、厳しい季節を越えるために百姓から生まれた唄で、源流は伴奏のない土着の唱歌と言われています。
集会場に農家の女性が集まり、唄っては拝んでいます。
津軽の坂の上に見える多くの無縁仏。
津軽は藩政260年の間に何度も不作や飢饉が続き、最も大きな飢饉では人口の3分の1が餓死しました。
多くの人がこの坂を上り、途中で尽き果てたそうです。
この急勾配の坂は、地元では「ケガジ(凶作)坂」と言われています。
飢えで苦み亡くなった人々と自分を重ね、三味線を弾く竹山。
秋田の横手では大雨が続き、竹山は初めて尺八を吹きます。
三味線は湿度に弱く、雨に濡れたら弾けなくなってしまうため、竹山は生きるために尺八も覚えたんです。
尺八とは元々山伏が吹いていたもので、息一つで一曲を吹くもの。
法螺貝は熊など山の者と敵対する音であるが、尺八は山の神と融合するものだと竹山が説明します。
最後の内弟子高橋竹童の話によると、初代竹山はじょんがら節を弾く時に、戦時中の激動時代に亡くなった人やその遺族の人生に自分の人生を重ね演奏していました。
映画『津軽のカマリ』の感想と評価
初代竹山の語りから始まる本作の冒頭。
一言話すと合いの手で三味線の掻き毟るような音色が響き、その余韻を残したまま次の言葉を紡ぎ出していく世界に圧倒されます。
いつの間にか『津軽じょんがら節(中節)』の演奏が始まり、座った姿勢から微動だにしない竹山と、別の生き物のように動く指遣いに、ただ魅入るばかりでした。
観客は音色に完全に包まれます。
少し経ってから、二代目が同じような曲を弾きますが、音に力が入る時に表情にも強さが増し、クッと体全体に力が入り三味線が動きます。
音よりもまず、彼女の一種のパフォーマンスの方に無意識に目が行ってしまいます。
初代と二代目、この音色の深さの違いは、一体何処から来るのでしょうか。
観る音ではなく聴く音色
3歳で麻疹にかかり、その影響で少しの光は感じるもののほぼ視力を失った初代竹山。
「メクラ」「カタワ」というような差別用語を日々浴びせられ、学校も行くことができなくなります。
生きていくため一軒一軒訪ね歩き、三味線を弾いて唄を歌っては米と小銭を乞うボサマになり、ホイト(物乞い)と蔑まれ虐げられた若き日。
石を投げられても相手の心に響くよう、三味線を大きく強く弾くしかありませんでした。
竹山にとって、相手の耳にそして心に聴かせなければ死が待っていたからです。
犠牲者へ捧ぐ鎮魂の音色
「ケガシ坂」のケガシとは、凶作・飢餓を意味する方言で、江戸時代から何度も続く厳寒の地故の凶作飢饉がもたらし、多くの農民がその坂を登る前に命を失ったことから名付けられた坂です。
映画では坂にある夥しいほどの墓碑が映り、胸を締め付けられます。
竹山は自分の境遇と重ね合わせ、犠牲者の鎮魂を音色に込めて、三味線を弾きました。
そして竹山の足は、津軽から全国へ向かっていきます。
二代目竹山が三陸の野田村で、師である竹山が津波から地元の人に助けてもらったことを知るシーンがあります。
津波で被災された人々へ、奇跡的な繋がりもたらしてくれた師の深い音色を二代目は感じたかもしれません。
また、「白梅の塔」に代表される巡礼の旅。
自身の人生と戦没者の彷徨える魂を重ね合わせ、演奏中に絶句してしまったという初代。
鎮魂の意を込めた三味線は、多くの戦没者の心に届く音色であったでしょう。
まとめ
19年前に津軽半島北西部にある十三湖に行き着き、その後出会った竹山の子孫や弟子達との縁から、本作の構想を得た大西功一監督。
約2年の撮影期間と約1年の編集期間を経て、本作『津軽のカマリ』を紡ぎ上げました。
本作ラストに流れる、初代高橋竹山が亡くなる直前の、貴重なステージ映像は必見です。
彼はガンに侵され声もでない状態で、強引にステージに立ちます。
身体はほとんど動かず、時折バチを持つ手が止まりますが、それでも三味線の音色は強く気高く温かさに満ち、観るものを包み込んでいます。
肉体が滅びても、その魂の音色は響き続けると感じさせてくれる、映画『津軽のカマリ』。
竹山の魂の音色、そして映画を聴きにいきませんか。